8.ただ信じたいだけだよ
今日は、セイラがセルラルドへ帰る日。
彼女と過ごした時間は、言い表せないほど楽しかった。城の中を探検したり、魔法のお店を見つけたり。そのひとつひとつが、僕の中で鮮やかに残っている。けれど今はその余韻の中に、静かな不安が混ざっていた。
「……セイラ」
思わず漏れた独り言に、胸の奥が痛む。その時、控えめなノックの音が響いた。
「レン、入るよ?」
柔らかく、落ち着いた声。カイだった。
「カイ! 僕、ずっとカイと話したかったんだ。あ、演奏会の準備、進んでる?」
駆け寄って尋ねると、彼は少し笑って椅子に腰を下ろした。
「うん。それに僕も、レンと話したいことがあるんだ」
その言葉に、僕の胸が少しだけざわついた。
「なに?」
「実は、セイラ嬢が敵かもしれないって、疑っている」
まっすぐ僕を見つめ、はっきりとそう言った。
「……え?」
セイラに対して不安を感じたことはあった。けれど、敵、だなんて――
そんな言葉を、カイの口から聞くとは思っていなかった。唾を飲み込んで、言葉を絞り出す。
「どうして、そう思うの?」
「……レオンハート家の令嬢じゃない可能性がある」
カイは目を伏せながら、静かに言った。
「じゃあ全部、嘘だったってこと?」
楽しかった日々が、頭の中で巡る。明るく笑っていたセイラ。得意げに笑みを浮かべるセイラ。そして、ときどき見せる、あの寂しそうな目。
「そんなわけ!」
気づけば、立ち上がって叫んでいた。カイが驚いて僕を見つめる。
「セイラが……」
完全に否定することができなかった。ノアの言葉も相まって、うつむく。悔しくて、やりきれなくて、唇を噛んだ。
「まだ、確証はない。証拠もないよ」
カイはそう、困ったように微笑む。
「僕は……セイラを信じるよ。あの笑顔は、嘘じゃない」
その言葉に少しだけため息をついて、静かに言葉を続けるカイ。
「わかってるよ、レン。でもその疑いが晴れるまで、僕は彼女を信用することはできない」
僕はセイラを信じている。でも、カイの気持ちも分かる。僕が傷つくのを心配しているんだ。僕の兄は本当に優しくて、そして、強い人だから。
「うん、わかった」
小さく答える。カイがぽつりとつぶやいた。
「もう、僕のせいで誰かを傷つけたくないんだ、レン。だから僕は、いつでも最悪の可能性を考えて動くよ」
その言葉には、切なさが滲んでいた。カイは、誰よりも優しい。そして、誰よりも、痛みを知っている。だから僕は、静かにうなずいた。
しばらく沈黙が流れたあと、カイが口を開く。
「そういえば、今度の演奏会の開催地、セルラルドなんだ。そこで何か、手がかりを探してくるよ」
「……そっか」
信じたい。信じている。
だけど、もしもセイラが“敵”だとしたら。今日、僕は彼女に、何を言えばいいんだろう。
その部屋の前。ひとつの人影が、そっと耳を澄ませていた。中からはすすり泣くような声が、かすかに漏れてくる。影はゆっくりと身を翻し、音もなく駆け出した。ドレスの裾が揺れる。藍色の髪が、太陽を受けて静かに光を反射していた――
*
オルフェオ王国の門前に、淡い紫色の馬車が静かに佇んでいた。その側面には、セルラルドの紋章が刻まれている。夕暮れの光を受けて、馬車の輪郭が柔らかく滲んで見えた。そんな門の前で、レンとセイラは向かい合っていた。風が静かに吹き抜け、二人の間に言葉にならない空気が流れる。
「じゃあ、またね」
セイラは静かに言った。その声は、いつものように明るくて、でもどこか遠くで響いているようだった。彼女の目を見ることができない。胸の奥に、不安と寂しさがじわじわと広がっていく。
「うん……またね」
絞り出すように、やっと、そう答える。言葉にした途端、涙がこぼれそうになった。
「もー、一生会えないわけじゃないんだから、しっかりしてよ!」
セイラが明るく笑う。その声には、少しの迷いが滲んでいるようにも思える。
「うん」
本当は、聞きたいことがある。でも、それを言葉にするのはためらわれる。
「愛しの婚約者が帰るのがそんなに寂しいの、ダーリン?」
小さく、うなずいた。
「レン、どうしたの? なんか元気ない……?」
心配そうな声とともに、セイラが手をぎゅっと握りしめる。その温度が、冷たく感じられた。
……このままじゃ、ダメだ。笑って、見送りたい。信じたい、セイラのことを。
「セイラ!」
驚きを宿した瞳を、まっすぐに見つめる。
「セイラ、僕、セイラのこと……信じてるよ」
最高の笑顔で、そう言う。それが、僕にできる精一杯の想いだった。
セイラの表情が、苦しげに歪む。手のひらを強く握られて、少しだけ痛みが走る。
「……レン」
「ん?」
セイラは、ゆっくりと口を開いた。
「今は、まだ言えない。けど、けどレンには、いつか……」
瞳には、苦し気な光が宿っている。それでも、セイラは笑った。まるで男の子みたいに力強い笑顔だった。そして、手をそっと離すと、僕を見つめた。 輝く瞳が、静かに近づいてくる。そして、何も言わずに僕をぎゅっと抱きしめた。
「……!」
「セルラルドで、待ってる」
耳元に届いた、小さな声。その響きは、優しくて、どこか切なかった。
すぐにセイラは離れてしまう。
「じゃあね、レン!」
そう言って、くるりと背を向け、馬車に乗り込んだ。馬車は走り出し、あっという間に遠ざかっていった。紫色の馬車が見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。胸の奥が、静かに痛む。さっきのセイラ、あれが、僕に初めて見せてくれた――彼女の“素顔”だったのかもしれない。
『セルラルドで、待ってる』
その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
……向かいに来いってことかな。
*
部屋に戻っても、セイラのことが頭から離れなかった。そんな悩みを振り払うかのように、扉をたたく音がする。
「レン様、失礼いたします」
入ってきたのは、ジェームズだった。
「国王陛下がお呼びです」
「父上が? わかった、すぐ行くよ。玉座の間だよね?」
「はい、それと、ノア殿下もお呼びするようにと」
「ウェっ、ノアも!?」
嫌な予感がしながらも、重い腰を上げる。
「ありがとう、ジェームズ」
玉座の間には、父上とノアの姿があった。ちらりと視線を向けてくるノアは、相変わらずの笑顔。気にしないようにしながら、片膝をついて国王を見上げた。それを確認し、父上は厳かに口を開く。
「ノア、レン。お前たちに、招待状が届いている」
「招待状?」
「セルラルドで開かれる、特別演奏会のものだ。再来週、行われる予定らしい」
セルラルド。
『セルラルドで、待ってる』
セイラの声が耳奥で静かに響いた。
その言葉の意味を、僕はまだ知らない。けれど確かに、何かが始まろうとしている。そして僕はその扉の前に、立っていた。




