6.違和感の正体
ヴァイオリンのレッスンを終えた帰り道。カイは、いつも以上に疲弊していた。集中力が続かず、演奏は三度も中断。指先は重く、心は散漫していた。
「あの令嬢の演奏が、頭から離れない」
レンの婚約者が、交流会で披露した曲。その旋律は、ただの音ではなかった。そのことに演奏家としての自尊心が、静かに揺らいでいた。それにあの音は、どこかで聴いたことがあるような、過去を思い出させるような。
「もう、過去は振り返らないって決めただろ?」
自分に言い聞かせるように、両頬を叩く。背筋を伸ばして、歩き出した。今日は裏道から帰ってみよう、と足を向ける。
「だからぁ、レオンハート家のご令嬢、あんなんじゃなかったって」
レオンハート――その名に、僕の足は止まった。顔を上げると、奥には複数人の人影が見える。中心の男が、赤い顔でわめいていた。
「護衛についたことがあるんだって。……顔つきも雰囲気も、まるで別人なんだよ」
「お前酔っぱらいすぎだって」
「そうそう、そんなじゃチトセ殿下に首切られちまうよ。こんな風にな!」
「うおイッテ、何すんだお前!」
騒ぎながらどこかへ行ってしまう男たち。その会話は、断片的ながらも無視できないわだかまりを残していた。
「……」
*
翌朝。僕は重たいまぶたをこすりながら、定例会議の席に着いた。稽古や公務やらで、三日連続で眠れていない。そして、昨日は酔っ払いの会話が、頭から離れなかった。
セイラ嬢は、ただの公爵家のご令嬢なのか。それとも、レンを騙しているのか。レンは優しいけれど愚かなわけでは無い。だから騙されてるわけではないとしたら……それに、他の貴族にも裏で根回ししないといけない。それはそうと、一体、ノア兄さんはどこにいるんだ? 会議にも出席しないで。
突如、会議室に激しい音が響いた。驚いて顔を上げる。
「!? おやめください、国王陛下!!」
僕の視線の先には、臣下に拳を振り上げる父上の姿があった。
「ち、父上!? 何をなさっているんですか!!」
立ち上がって声を上げるも、父上の動きは止まらない。拳が、無表情のまま振り下ろされる。その顔には、いつもの威厳も思慮深さもなかった。ただ、空虚な“無”があった。
そして、その奥に――ほんの一瞬、見えた気がした。
絶望。
「……父上……?」
その問いは、声にならず、喉の奥で消えた。
扉が勢いよく開いた。銀色の指輪をはめた太い指が最初に見え、重たい足音が会議室に響く。
兄さんだった。
「なんの騒ぎだ?」
不機嫌そうに言い放ったその声は、すぐに驚きに変わる。臣下を殴り続ける国王の姿を目にした瞬間、その顔が歪んだ。
「父上!?」
その声で糸が切れたように、臣下を殴り続けていた手が止まる。掴んでいた首元を放し、椅子へと沈み込む父上。先ほどの無表情は嘘のように消え、再び厳格な王の顔へと戻っていた。
「おい、大丈夫か!? すぐに医務室へ運べ!」
家臣たちが慌てて動き出す中、兄さんだけは冷静だった。
「そいつの心配は後回しだ……で、何があった?」
鋭い声に、家臣たちは互いに顔を見合わせ、戸惑いながら目を見合わせる。やがて一人が、恐る恐る口を開いた。
「わかりません。隣国の調査報告をしている最中に、突然……」
「はぁ? 本当かよ、カイ?」
兄さんの視線がこちらに向けられる。
「うん」
正直、ちゃんとは見ていなかったけれど、ルミナスに関する報告をしているのは聞いていた。
「まあ、父上の気に障ったんだろ。ソイツ、目覚めたら二度と会議に出るなって伝えとけ」
「し、しかしそれではこの者は今後――」
「はぁ? そんなもんそいつがどうにかすればいいだろ。それより腹が減った。食事を用意させろ」
この家臣は家族を持っているし、なにより優秀な人物だ。兄さんに鋭い視線を送りながら、口を開く。
「ちょっと待って、兄さん。この人は僕が引き取る。いいよね?」
僕の言葉に、兄さんは目を細め、鼻で笑った。
「物好きなやつだな。好きにしろよ」
そう吐き捨てると、苛立った様子で声を張り上げた。
「おい、食事はまだか! 腹が減って死にそうだぞ!」
その叫び声が響く中、血の匂いが残る会議室に料理が次々と運び込まれてくる。
この状況で食事をするのか……? 半ば諦めながらその顔を睨みつけ、振り返って家臣たちに告げた。
「今日の会議はここまでにしよう。また改めて場を設ける。だれかこの者を医務室まで」
「はっ!」
家臣たちは、まるで天使を見るような目で僕を見つめる。
このままでは、いけない。強く、そう思った。 ノア兄さんに任せていたら、この王国がどうなってしまうのか、誰にもわからない。それに、父上は……
父上を振り返ると、微動だにせずまだ椅子に座っている。表情は戻ったものの、その瞳には生気がない。そもそも、父上は会議室での食事なんて、絶対に許さない。
「父上、失礼いたします」
「あぁ」
合わない目線に、無理やり出しているような声。どう見ても、正気には思えない。料理の匂いが満ちていく部屋をあとにして、僕は負傷した家臣のもとへと急いだ。
*
「すまない、兄上から庇うことが出来なくて」
「いえいえ、カイ殿下、職を与えてくださったこと、心から感謝いたします。殿下がいなければわたくしは家族ともどもバグドで野垂れ死ぬところでした」
歓喜の声を上げる家臣は、ベッドの上で深く頭を下げる。その様子を見て、僕はそっとため息をついた。バグド、か。
「誠心誠意尽くさせていただきます」
「よろしく頼む、サヴァン卿。ところで、早速で悪いが質問がある。知っている範囲で構わないから、教えて欲しい」
「はい」
スッと目を細める老紳士。この人は若いころからセルラルドへ行くことも多かったし、おそらく使える。
「セイラ・レオンハートについて、知っていることはあるかな?」
「セイラ嬢? そうですね……」
「何か、昔と変わったことはない?」
考えこんでいた家臣は、困ったように声を上げる。
「そういえば、セイラ嬢の髪の色が、昔は紫苑というか、菫色といいますか。とにかく藍色ではなかったような気がします」
そこで言葉を濁らせるサヴァン。
「それと、今のセイラ嬢は明るく寛容に振舞われています。昔とはまるで、お人が変わられたように」
その言葉から、端々に知性を感じる。どうやら、この家臣は想像以上に使えそうだ。
「わかった、ありがとう。怪我が治るまでは、ここでゆっくりしていくといい。家族には、こちらから伝えておくよ」
「はっ、深く感謝申し上げます」
立ち上がり、医務室を後にする。廊下に響く靴音と共に、ある思いが強くなっていった。
レンと――話をしなければ。




