42.最悪はいつでも炎がもたらす
科学室の清掃の日。
いつもより何だか薬品の匂いが濃かった。
僕はフラスコを一つずつ拭いていた。チェルは隣で不満を垂れている。めんどくせぇ、と言いながらもその手はきびきびと動いている。セイラは今日使った薬品を元に戻すと言って、奥の方へ入っていった。
この部屋の窓から見えるのは、ルミナス王国の大きい城。その城下町での賑わいは、オルフェオとはくらべものにならない。そんな様子を見て、ふと言葉が漏れた。
「チェルってさ、オルフェオ出身なんだよね」
「あぁ」
やや戸惑いがちに、でも答えてくれる。
「やっぱり生活、苦しかった?」
「……まぁな」
曖昧そうに言葉を濁して、視線をずらす。その物言いに、うつむいた。
「でも、それがすべてじゃねえってのは知ってる」
その声にはっとして顔を上げる。ガラスの光を反射して、チェルの目はきらめいていた。瞳の中に、影が浮かび上がる。まるで誰かを映すかのように。
「その頑張りを、努力を、俺は知ってる」
チェル……
そんな沈黙が流れる空気を吹き飛ばすように、チェルが口を開いた。
「そういえば、びっくりしたよな! 今朝の新聞見たか?」
「新聞?」
今日は新聞を見ていないけど、なにかあったっけ?
「あぁ、ルミナスの王女が婚約発表だろ?」
「え?」
その口に開いた口が塞がらない。
「ミュリエルが……誰と?」
「えーと、たしかセルラルドの第一王子?」
つまり、チトセだ。
ミュリエルとチトセが? なんで? どういうこと、勢力図が、いやそれよりも、この時期の発表、それはつまり――
僕の思考を妨げるように激しい爆発音がして、風圧で体が吹っ飛ばされた。ガラスが砕け、何かが倒れる音が響く。
「「!?」」
奥の部屋で爆発!? そこにはセイラが!
「セイラ!?」
大声で叫ぶけれど返事はなかった。焦げ臭い匂いと灰色の煙がこの部屋に漏れ出してくる。火事だ。よろよろと立ち上がって中に入ろうとすると、後ろから手を掴まれた。額から血を流したチェルが、僕の手を固く掴んでいた。
「この手を離して、チェル!!」
「いーや、それは無理だね」
チェルを睨みつけて、手を振りほどこうとするけれど、強くてほどけない。
「早くしないとセイラが!」
半分破壊された扉からはごうごうと火が燃え広がってくる。煙で、息がしづらい。
「なに行こうとしてんだよ、この馬鹿!」
「セイラを置いて逃げられないよ!」
「自分の命とどっちが大切なんだ! 中に入ったら最悪焼け死ぬぞ!!」
チェルが僕を怒鳴りつけて、手を強く引っ張る。その意思は何よりも固い。
「それでもいいよ! 僕を見捨てて逃げればいい!」
手を振り払おうともがきながら、僕も声を張り上げる。何かを決意したような瞳。
「お前を死なせたら俺が殺される」
冷たい声。その不穏な言い方と雰囲気に、一瞬、息をのんだ。
「……けど、ただ、僕はセイラを助けたいだけなんだ!」
「ダメだ、お前は王子なんだから!」
「それなら、セイラだってそうだよ」
僕の声に、目を開くチェル。その隙を狙って僕は手を振り払い、中へと踏み出していった。その瞬間、熱い熱気が押し寄せ、全身を焼け焦がそうと襲い掛かってくる。その熱気に負けないよう、必死に目を開いた時だった。
視界の隅に、何かが動くのが見えた。赤い炎の中で、そこの空間だけが透き通るような水色をしている。その中心に、ありえないほど澄んだ光が見えた。あれはセイの魔法! やっぱり生きてたんだ!
声を上げようとして、足が止まる。その横に、長い髪が揺れた。美しい、桜色の。
嘘だ、どうして、ここに――
「セ、イ……」
声にならない嗚咽が、喉から零れ落ちる。鼻を、焦げた匂いが重なる。
「おい、限界だ、逃げるぞ!」
後ろから襟首をつかまれ、体が浮くような感覚がした。その音にセイがこちらを向いた。驚いた顔。
次の瞬間、僕たちは冷たい地面の上に放り出された。どうやらチェルが転移魔法を使ったらしい。高度な魔法って、それより、それよりも!
「おい、あそこで俺が止めなきゃお前は……って、レン?」
そう言いかけて、ぎょっとしたように僕を見る。
「どうした? 化け物でも見たような顔してるぜ?」
たしかに、お化けだったらよかった。でも、見てしまったものは、変わらない。もう、分からない。何もかもが。
「セイが」
必死に言葉を吐き出す。どこからか吐き気が襲ってきた。
「セイが!」
火事の中で、セイが歩いていた。その横に見えたのは、腰まである桜色の髪。それはルミナス王国第一王女――ミュリエルだった。
*
「まずいことになったよ」
「えぇ、非常に良くないですね」
紅茶を注ぎながら、のんびりという執事。先生からの事情徴収を終えた時、空はもう暗くなっていた。
あの火事は不審者の侵入ということで片づけられ、学院の警備が強化されたとか。入っちゃいけない執事がここにいる時点で、もう遅い気もするけどね。
そんなことよりも!!
「まず、ミュリエルとチトセの婚約がわけわかんないよ。ミュリエルはまだしも、なんでチトセが出てくるの? 本当にあの人の頭がよめない!」
そこで一息紅茶を飲んで、再び口を開く。
「それにセイが、本当になんでセイがミュリエルといたの!? さっきの爆発、なに、自演ってこと? あぁもう、セルラルド組って本当に!」
「レン様の頭を悩ませますね」
ため息をつく僕に、共感するようにうなずく執事。
「そう、本当にね! どれだけノアの行動が単純なのか分かったよ!」
ていうかそもそもノアを玉座から引きずり下ろすためだったのに、いつの間にかこんな事態になってるし。ため息をついて紅茶を流し込む。
「確かにセイ様のことは分かりませんが、チトセ様の意図は分かる気がしますが」
「チトセの?」
「えぇ、たしかチトセ様は、セイ様のことを大切に思っていますよね? 今回の件もセイ様に何か関係があるのでは?」
「確かに……」
そういえば、チトセが話してくれた話。あの話に出てきた魔女が、ミュリエルだとしたら。
「チトセは――セイの呪いを解く代わりに、ミュリエルに婚約を迫られた?」
「そうだとしたら、セイ様は何をお考えなのでしょうか?」
「うーん、『俺の呪いは自分で解く!』ってこと? さすがにそんなわけないか」
セイは味方だと信じている。けれど、セイが本当に、最初から僕を騙すことが目的だったとしたら? その罠にまんまと嵌っている自信しかない。
セイラとの出会いも。恋に落ちることも。正体を明かすことも。確かに僕は、セイと出会って変わった。そうして僕の思考を鈍らせることも、セイに全部の信頼を預けることも、全て計算だったとしたら。
「……セイと約束したのに。もう裏切らないって!」
「レン様が心を許せる数少ない方でしたからね」
「うん、だって――親友だと思っていたから」
そんなセイが、僕を裏切る?
あの夜、僕を見た瞳に嘘があった?
僕と過ごしてきたセイの顔が浮かび上がる。
いつも笑って、冷たいけど優しくて、余裕ある顔でからかってきた。同い年とは思えないほど、強くてそしてカッコいい友達。自慢の親友!
セイが僕を裏切れる?
「セイが……僕を裏切るはずがない。ミュリエルといたのは、何か理由があるはず、だよ」
「その自信はどこからくるのですか?」
「だって僕だよ? この僕を裏切れるわけないよ?」
「ふ、そうですね。ご主人様の重い愛から逃げられる人は、この世には存在しませんから」
レン様といる時のセイ様はいつも楽しそうです。第二王子の時とは、まるで別人のように錯覚してしまうほどに。ご主人様の友達は、演技が上手いのでしょうね。
「え、僕そんなにデレデレしてるの?」
「いえいえ分かるのは私くらいですよ。ところで、これからどうなさるのですか?」
「──セイに会って、なんで僕を頼ってくれないのか聞く! あと約束破ったから、一発ぶん殴る!」
裏切られるのは二回目だし、流石に怒る、僕も!
「でもどうやって会おう? 絶対、僕の前には現れないよね」
「そうですね、ミュリエル様のもとにはいそうですが……」
首をかしげるジェームズ。
「ミュリエルに会ったら、僕、もう殺される気がするよね。実際、刺客差し向けられてるし」
「あ、言い忘れていました。この国に来てからレン様は三百人くらいに襲われています」
「うぇ、そんなに?」
表向き有効とはいえ、ここはルミナスだ。第三王子でも僕が死んだら得をする人はいる。
「ネフト王子のもとへセイ様と向かわれていた時は凄かったですよ。エレナさんと共闘して敵を排除していましたから。お互い大変ですよ」
「街を歩いてるだけだったのに!? ……たぶん僕、お前がいなかったら外に出られないよ」
まぁネフト王子の城は皇居だし、敵の本拠地に殴り込みに行くようなものだもんね。そういえば、あの時セイが手配してくれたけど、もしかしてミュリエルに頼んでたりして。
「そういえば、ルミナスの王家から手紙が来ておりました」
そう言って執事は僕に手紙を差し出す。それは、晩餐会への招待状だった。
「ルミナス国王からの誘いだってさ。どうせミュリエルが持ち掛けたんだと思うけど」
でも、これはいい機会だ。たとえミュリエルでも、国王の前で僕を殺すことはできない。それにあのポンコツ王子もいるはず。
『母上は――異常だ』
王子の声がよみがえる。噂の夫婦――ルミナス国王と王妃のご対面だ。




