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4.婚約者にしたいです

 セイラからは了承をもらったけど、彼女を本当に婚約者に……?

 会場へ戻る途中、迷いながら、隣を歩く彼女を見つめる。月明かりが、その横顔を静かに照らしていた。光に包まれた顔は、息を呑むほどだった。


 ――綺麗、だな。

 そう思った瞬間、セイラがくるりと振り向いて、ふいに尋ねてきた。


「ねぇ、次の満月っていつか、わかる?」

「え?」


 突然、満月の話? 夜空に浮かぶ月を見つめる。


「一ヶ月後くらいかな」

 廊下の柱が一瞬、彼女の顔に影を落とす。


「どうかした?」

「ううん、なんでもない。それより、ほら。もう会場の前だよ」

 気がつけば、立派な扉が目の前にあった。


「準備はできた? 迷いは……ない?」

 先ほどとは打って変わり、明るい笑顔で僕を見つめるセイラ。けれどその目には真剣な光が宿っていて、これが彼女の素ではないということを嫌でも思い知らせてくる。


「うん、行こう」

 気になることは、ある。けれど今はそれよりも大事なことがある。これから、父上に嘘をつくのだから。僕は気持ちを引き締め、扉を押し開けた。優雅な音楽と、ざわめきに満ちた空間。このあと、きっと多くの噂が飛び交うだろう。でも、覚悟は出来ている。これは一つの、カイを王にするための大きな機会(チャンス)だ。僕はセイラの手をそっと取り、国王のもとへ歩み出した。


「父上」


 声をかけると、国王はゆっくりと振り向いた。


「少し、お話があります」

 できるだけ落ち着いた声でそう言った。内心では心臓が高鳴っている。でも、声は震えていない、はずだ。


「なんだ?」

 父上は相変わらず威厳に満ちた佇まい。豊かな口ひげが、王としての風格を際立たせている。そう思って、言葉を続ける。


「紹介したい方がいます。こちらです」


 隣にいるセイラが、静かにドレスの裾を持ち上げてお辞儀をする。


「お初にお目にかかります。セルラルド王国レオンハート公爵家の、セイラ・レオンハートと申します」


 澄んだ声が、会場に柔らかく響く。その言葉に、父上の表情が、ほんのわずかに和らいだ気がした。


「実は、彼女を婚約者にしたいと考えています」

 先ほどまで父上と話していた人物が、びくりと肩を震わせた。やっぱり、まずかったかもしれない。そんな予感が頭をよぎる中、僕は父上の返答を待った。


「それは、それは――」


 低く響く声が、胸の奥を鋭く突いた。その声に、会場の空気が一瞬で張り詰める。


「その言葉の重みを理解して言っているのだな、レン?」


  鋼のように冷たい眼差しに、怯んではならないと笑みを浮かべる。


「もちろん、重々承知しております」


 できる限り穏やかに、しかしはっきりと告げる。父上は次に、隣に立つセイラへと視線を移した。その眼差しは、矢のように鋭く、容赦がない。


「其方も、婚約者としての資格があると自負しているのだな?」

 セイラは一歩も引かず、静かに、凛とした声で答えた。


「重々、承知しております」


 その姿に、内心息を呑んだ。あの父上の視線を、真正面から受け止めるなんて、彼女は、やはり只者ではない。普通のご令嬢なら今頃、怖くて泣きだしているに違いない。


「ふん……それならば、試してみようではないか」


 父上が顔を緩める。その笑みは、獲物を見つけた肉食動物のものだった。


「レオンハート家の娘よ、あそこにピアノがあるのが見えるな?」

「はい」

「それでは即興で曲を作り、今ここで演奏してみせなさい」

「父上、それはあまりにも」

 思わず声を上げると、父上は鋭く僕を睨む。


「レン、これは彼女への試練だ。そして、この会場にいる者すべてを虜にする演奏が出来たなら、彼女の婚約者としての資格を認めよう」


  父上は数え切れないほど演奏を聴いてきた。カイの演奏に慣れた耳――つまり、彼女を認める気はない。


 それでも、セイラは一歩も退かなかった。


「分かりました。約束ですよ、国王陛下」

 その堂々たる宣言に、会場がざわめいた。視線が、すべて彼女に集まる。


「あぁ、約束しよう」

 父上は短くそう言い、視線を外した。セイラは僕の方に向き直り、困ったような笑みを浮かべる。


「レン、そんな不安そうな顔しないで。大丈夫だから」

 そして静かに踵を返し、ピアノへと歩いていく。その背中に、誰もが目を奪われていた。


「お集まりの皆様」


 父上が低く、重みのある声で告げる。


「これより、この娘が即興のピアノを披露する。もしその音に心を揺さぶられたなら、どうか拍手で応えていただきたい。だが、響かなければ拍手は無用だ」


 会場が静まり返る。セイラは椅子に腰掛け、深く息を吸い込んだ。その瞳は、まっすぐに鍵盤を見つめている。


「ピアノで良かった」

 小さな呟きは鍵盤に溶けていく。


「それでは皆さま、お聴きください」


 澄んだ声が響き、彼女は、静かに鍵盤へ指を置いた。そして、音が、生まれた。会場全体が、まるで夢の中に吸い込まれるように、柔らかく包まれていく。


 音は、春の草原の気配となって広がった。それは音でありながら、絵ではなく、香りでもなく、風でもない。もっと深く、心に触れる()()だった。人々はグラスを持つ手を止め、ただ耳を傾けていた。


 そして、景色は変わる。今度は、深い海の底。光の届かない静寂の中で、孤独な少女がピアノを弾いている。音は冷たく、切なく、胸の奥に沈んでいく。


  次に、吹雪のような旋律が胸を切り裂いた。誰かが、この雪の中で、言葉にできない悲しみを抱えている。吹雪が止み、気づけば、広い空の上。月光が逆光となり、ピアノを弾く人の顔は見えない。 セイラなのか、それとも――


 最後の旋律は、淡く、優しく、そしてどこか哀しかった。演奏が止まった。けれど、誰も拍手をしない。夢からまだ、覚めていない。



 我に返った僕が、拍手を始める。その音に導かれるように、次第に会場に拍手が広がり、それはやがて嵐のような歓声となった。その中で、ひときわ大きい拍手。振り向くと、父上だった。目にうっすらと涙を浮かべながら、満足そうに拍手を送っている。


 セイラは、認められた! 演奏を終えた彼女が戻ってくる。その笑顔は、自信に満ち溢れている。


「国王陛下。私を婚約者として認めてくださる、ということですね?」


 父上は、深くうなずいた。


「うむ。其方は、それにふさわしい演奏をしたからな」


 戻ってきたセイラに声をかける。言葉に出来ないほど、素晴らしい演奏だった。


「セイラの演奏、すごく良かったよ!」

 彼女は笑って、一言。

「ね?」


 そのあと、父上に頼み込んで、セイラの滞在許可を得た。一週間だけ、それでも十分で。けれど、心のどこかには棘が引っかかっていた。


『どこか、懐かしいような演奏だったな』

 父上は、セイラの演奏を()()()()と言った。彼女とは初対面のはずなのに。そしてもう一つ。演奏が終わった直後、カイが静かに会場を後にしたのを視界の隅に捉えていた。その背中が……なぜか、気になった。



 *

 オルフェオ王国のバルコニー。夜風に揺れる長いコートの裾。ひとりの人影が、静かに遠くを見つめていた。その横顔には、深い哀しみが滲んでいる。やがて、唇が微かに動く。


「……ミュリ、エル」


 夜の静けさが、彼の孤独を際立たせていた。

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