38.過去の記憶
レンがいなくなってからの王国は、ずっと険悪な雰囲気だった。
いつも笑顔で雑務をこなしていた、余裕も実力もある父上の有能な部下が疲労でどんどんと倒れていく。かくいう僕も、長時間の執務で気が滅入っていた。
そんな中、仕事をこなすレイチェルがどれほど頼りになったことか。暫定国王となったノアは、さすがに書類仕事をこなしているかと思いきや、ふらふらと街に遊びに行くばかり。いくら言っても聞きやしない。
この国は、もう猶予がない。そう思わされるには、十分すぎる光景だった。
そんな時だった、魔術師が声をかけてきたのは。
「ちょっくらレン様を見に行きませんかねぇ? あの因縁の王女様も来るそうですから」
レンの元気不足で参っていたのも事実だった。けれど、それよりも気になったのはミュリエルだった。幸いにもその時、ルミナスのどこかの貴族からの依頼を保留にしていた。
「もちろん行くよ」
気づいた時にはもう馬車に乗り込んでいた。埋もれるほどの書類と共に。人手が減るからと、みんなには泣きつかれたけれど、レイチェルだけはにっこり笑って書類の束を手渡してきた。
「年寄りをこき使うとは、あの小娘め!」
文句を言いながらもマーリンは手伝ってくれた。おかげで僕は仕事をこなす一方、考える時間が出来た。
僕はなぜ、彼女にあんなにも執着するのか?
彼女と会うと胸が締め付けられる。それは事実だ。けれど、脳がそれを理解できなかった。当然だ。
だってミュリエルは、とっくに死んでいるのだから。
思えば、最初から違和感があった。母上、一国の王妃と仲いい他国のメイド。その子供なんて、訳有りにもほどがある。
そして、僕は、まだ逃げきれていない。あの夜の悪夢から。自分の後悔から。全ての元凶から。
「すみません」
だから決着をつけに来た。あの夜、君に、何があったのかを。
振り返った彼女の、美しい桜色の瞳。柔らかい笑顔。けれど、その裏側にある決意は固い。
「始めまして、王女様……いやミュリエル。君と話をしたい」
その言葉に、王女は好戦的な笑みを浮かべる。
「いいですよ、王子様。ところで、スイーツはお好きですか? おすすめのお店があるんですの」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
くるりとドレスを翻し歩き出す王女。静かにその後を追う。今度は、しっかりと。
*
「確かに、紅茶との相性が抜群だね」
「そうでしょう。お気に入りなんです」
微笑む彼女。その瞳は相変わらず何を捉えているのやら。
彼女の案内で、僕たちは街を一望できるどこかの小山にいた。用意されたテーブルとイスは、最高級の質感で太陽を反射していた。
「それにしても、凄いね」
色々な意味を込めてその言葉を送る。
「えぇ、皆さん新聞をご覧になったようで」
本来ならば優雅に眼下の風景を楽しめるスポットのはず。けれど、僕たちから五メートルもしない位置では、多くの騎士が乱戦していた。次々と襲い掛かってくる火を噴くドラゴン男だの殺人鬼だのを撃退している。
「君の首はさぞ美味しいに違いない」
噂によると、ミュリエルに賭けられている懸賞金は、国を一つ傾けても、まだ余る額だという。それほど利益を得る人間がいるということなんだろう。
「まさか」
昨夜の新聞が伝えた特大ニュース。突如として民衆の前にその姿を現したルミナス王国の王女。
素顔が分かり、大っぴらに襲い掛かってくる人々。けれど、そんなニュースは関係ない。僕が聞きたいのは一つだけだ。
「ミュリエル」
呼びかけても、その存在ははるか遠い雲のよう。それでも手を伸ばす。
「どうして君は、生きているんだ?」
薄い笑みが、浮かび上がった。ゆっくりと、瞬きが繰り返される。
「知りたいなら――見せてあげる」
感情の読めない平坦な声。彼女は腰を浮かし、手をこちらへと伸ばした。反射的に体が下がっても、その手を拒むことはできない。冷たい手が、僕の額に当てられる。それと同時に、抗えない眠気が襲ってくる。
*
黒い空間に浮いている。ただ、動けなかった。
誰かの笑い声、泣き声、怒鳴り声。幼いレンの顔、自分の声。
これはミュリエルの記憶だ。
途端に場面が変わった。彼女は誰かを、小さい手で必死に握っていた。
ミュリィ、というか細い声がする。彼女の前には、血だらけの……
『あなたはお姉ちゃんだから、アドルを守ってね。お願い、よ』
力なく落ちる手。ママ、ママと泣き叫ぶ声。
大きな笑い声がして、男達が現れる。ミュリエルはその場に崩れ落ちる。
男達は大声をあげながら、小さい男の子の方へと向かっていく。
「だめ、アドルを、守らな、きゃ……」
意識の遠くで、叫び声と、笑い声が聞こえる。
場面が移り変わる。
彼女は、綺麗なベッドで寝ていた。目覚めても、ぼんやりとした顔。傍らでは見知らぬ男と女が喧嘩をしている。
男はいつも、ミュリエルを膝の上に乗せた。ニコニコと笑いながらも、その目は幼女を見る者ではない。
女はミュリエルを鞭で叩きつけた。その光景がずっと繰り返される。
時々来る少年は、泣きそうな顔で彼女のそばに薬を置いていく。
彼女は、何も言わなかった。呼ばれても、叩かれても、ただ瞬きを繰り返すだけだった。まるで記憶を失ったように、その瞳は白く濁っていた。
また場面が変わる。
ある満月の夜だった。コンコン、と窓を叩く音がして、ミュリエルは窓を開ける。その姿を目にしたとき、彼女の瞳に色が宿った。
記憶の渦に飲み込まれそうになる。その顔は、影で見えないけれど、彼女にとって大切な――
それからは瞬時に記憶が流れた。その日が来るまでは。
彼女はずっと泣いていた。ベッドにうずくまり、声を押し殺して。毎晩鏡に手を当て、目を閉じる。
けれどその顔は段々と、変わっていった。まるで感情を覆い隠すように、王女らしくなっていった。
ふっと、場面が変わった。
目の前に、セイとレンがいた。二人はどこかで戦っている。それを見た彼女は喜んでいた。それがなぜなのか、僕にはわからない。
『カイ、あなたじゃ私を救えない』
どこからか、ミュリエルの声が聞こえてきた。僕の体は、そこに縫い付けられたように動かない。
『レンを、暗殺者に襲わせたのは私よ』
その声にはっと、目を開く。どうして、という自分の声はかすれていた。彼女は立ち上がる。
『私はあなたの敵よ。全ての敵』
「君は何を、」
『さようならカイ。次会ったときは迷わず私を殺してね』
去っていく後姿。それを追いかけることはできなかった。
気づいた時には、どこかの鏡の前に立っていた。その顔のひどさに、思わず鏡を叩く。
「なぜ……」
ミュリエルの心拍数も、声の調子も変わらなかった。言葉だってずっと敵対的だった。でも最後の彼女の顔には、その目には、もう二度と会えない人に送るような、悲しさと、切なさに満ちていた。
それでも彼女は、背を向けた。
それが――答えだ。




