17.悪夢と嘘つき
一つ、大きなため息をつく。演奏会の後、いろんな貴族と談笑をしていたらこんな時間に。部屋の窓からは、セルラルドの街灯がぼんやりと揺れて見えた。ベッドに腰を下ろし、僕はぼんやりと今日の出来事を思い返していた。
演奏会は、本当に楽しかった。カイのヴァイオリンもセイのピアノもこの上なく絶妙な音色で。でも――やっぱり、気になるのはカイの様子だった。
“ミュリエル”という名前。聞いたこともないその名に、カイは明らかに動揺していた。それに、王族と聞いてもなお、引き下がらなかった黒服達。そんなことが出来るのは……
ベッドの上で膝を抱えながら、僕は小さくため息をついた。まぶたが重くなってきて、意識がゆっくりと遠のいていく。
「日付超えたし、もう寝よっかな」
大きなあくびをひとつして、 そのままベッドに横になる。そして、目を閉じた。
*
どこか遠くで、騒がしい音がする。耳に届くのは、怒鳴り声に、泣き声、何かが爆ぜる音。目を覚ますと、部屋の空気が妙に冷たく感じられた。寝ぼけたまま、ふらふらと階段を下りていく。
大広間の扉が少しだけ開いていて、そこから漏れる声が聞こえた。父上と母上が、深刻な顔で言い争っている。その表情にいつもの穏やかさはない。言葉の端々に、焦りと恐怖が滲んでいた。何かがおかしい。胸の奥がざわつく。
僕は重い扉を開けて外へ出た。夜の空気は冷たく、鼻をつくような焦げ臭さが漂っている。遠くから、誰かの泣き声が聞こえる。
「あぁ、ミュリィ!!アドル!……なんで!返事してよ!!」
遠くに見える黒い影。カイの声だった。その叫びには、幼さを超えた痛みがにじんでいる。兵士たちに必死で抑えられながら、カイは泣き叫んでいた。その顔は、ぐしゃぐしゃになっていて、見ているだけで胸が締め付けられる。
その方向へ歩きながら、僕は目の前の光景に目を奪われていた。
遠くの森から立ち上がる煙。夜空を焦がすように揺れている。木々が焼け、枝が折れる音が断続的に響いていた。焦げた匂いは、木だけではない。何かもっと重くて、胸の奥をざらつかせる臭いだった。地面には、黒く焼け焦げた布の切れ端。誰かの足跡。赤黒い何かの跡。
僕はようやくカイのもとへたどり着く。泣き叫ぶ兄を前にして、口が勝手に動く。
「カイにい、なんで泣いてるの?」
でも、僕の声なんて、カイには聞こえていない。彼の世界は炎の中に沈んでいた。
兵士は皆、目を伏せていた。その目には、涙が溜まっている。誰もが、苦痛を訴えていた。
炎は容赦なく燃え続けていた。木々が崩れ、空が赤く染まり、地面が熱を帯びている。お日様みたいな炎、そう思ったのはほんの一瞬のことだった。すべてを飲み込む怪物は、カイの心をも喰らっていく。その声は炎の中に吸い込まれ、夜の空に溶けていった。
*
朝の光が、ゆっくりと部屋に差し込んでいた。カーテン越しに揺れる陽射しは柔らかく、まだ眠気の残る空気を静かに染めていく。その様子を、ただぼんやりと眺めていた。
「う……」
頭がずきりと傷んだ。悪夢のせいかもしれない。見た夢と、昨夜の演奏会が僅かに重なる。カイの様子。火事、夢に出てきた名前、”ミュリィ”と”アドル”。 それがもし、ミュリエルという人物だったとしたら。
その時、控えめなノックの音が扉の向こうから響いた。
「レン様、失礼いたします。お目覚めのお時間で――あ、お目覚めでしたか」
ジェームズが驚いたように微笑む。
「くれぐれもご体調にはお気をつけください。本日は午前と午後、夜に二つの舞踏会とお茶会がございます」
「三つも?」
「はい。バーリトン伯爵と、アナウェルア侯爵からの舞踏会、ユーデリア公爵からお茶会のお誘いです。三人の家柄的にも、参加は必須かと」
「……」
窓の方へ視線を向けると、何かが視界に入った。そちらに向かい、外を眺める。朝の光の中、誰かが走っている。黒い装束に身を包むその顔は隠れている。けれど、何かが、朝日に反射してきらりと輝いた。なぜだかその綺麗な走り方に目を奪われていた。
「レン様? 何か気になるものでも?」
ジェームズが後ろから、そっと顔を覗かせる。
「あれ……誰?」
「あぁ、ランニングマンのことですか」
「ランニングマン?」
「えぇ。私達執事よりも早く起き、毎朝この周りを走っていることからその異名が付きました」
そう面白そうに答える。ジェームズよりも早起き、それは相当だ。
「すご。ランニングマン、毎日どのくらい走ってるの?」
「そうですね……あるメイドが『ついに百キロ到達ですわ!』と叫んでいるのを耳にしたことはありますが」
そのメイドの真似なのか上目遣いをしてくるジェームズ。僕はそれを華麗に無視して口を開く。
「本当だったら、それは、化け物だね……」
「毎朝二十キロ走っているレン様も十分凄いですけれどね」
*
「ってことがあって、ランニングマン、毎朝百キロ走ってるんだってさ」
「そんな人がいたら会ってみたいよ、レン」
そんな化け物はお前ひとりで十分だ、とでも言わんばかりに即答するお兄様。昨日とは打って変わって明るい様子で、安心して言葉を続ける。
「いや、本当だよ?」
「そうだね、騎士団長とかかもしれないね。何か特徴はなかったの?」
「黒いフードで顔は見えなかったんだ。でも、指輪してたよ」
「指輪?」
パンを切り分けてたカイの手が止まり、瞳が一瞬光った。
「うん。宝石がついてなくて、意外だなって」
「あぁ、そういうこと」
騎士団の貴重品類の装着は厳禁だし、平民はこの周りを走れない。貴族なら逆にその指輪のシンプルさが目につく。じゃあいったい誰なんだろうと思いながら、目の前のソーセージをひと口かじる。肉肉しくも爽やかな香りが鼻を抜けていった。
「そういえば、ノア兄さんは?」
ふいに口を開くカイ。
「どうだろ、また女の子にでもちょっかいかけてんじゃない? どうせ相手にされてないと思うけど」
「そうだよね。……ん、このソーセージ、レモンが効いてて面白い味だね」
「え、僕もそう思った!」
二人で顔を見合わせて笑いあう。演奏会が終わって、久しぶりにカイと一緒に食べる朝食。カイと話すと、不思議と心が軽くなる気がする。今日ある三つのパーティーも、少しだけ楽しみになってきた。
*
廊下の奥でノア兄さんの姿を見つけた。窓辺に立ち、外を眺めている。その背中は、いつもの気だるげな雰囲気を纏っている。
「兄さん」
呼びかけると、彼はゆっくりと振り返る。その左手に光る銀の指輪に、宝石が付いていないことを確認する。
「最近、朝、何してる? 全然、見かけないけど」
できるだけ自然に、問いかける。穏やかに言ったつもりだけれど、僅かに硬さが残ってしまう。それに気づいているのかいないのか、兄さんは肩をすくめて、軽く笑った。
「ん? 女と寝てる」
心拍数は、変わらない。嘘をついているようには見えない。けれど、銀の指輪が、朝の光を受けてきらりと光った。
「じゃあランニングなんて、してないんだよね?」
自分の声が、少しだけ低くなるのが分かる。ノア兄さんは笑って、答えた。
「はぁ? なわけないだろ。朝まで女といるんだから」
「そっか」
そう、静かに言葉を返す。何故そんなことを聞くのか、とか。お前には関係ない、とか。そういう返事が自然であって、嘘をついているその心理を読み解くのは、心拍数だけでは不可能だった。
「ごめん、急に変な事聞いて」
背を向けたまま、そう言って歩き出した、その時だった。
「カイ……すまない」
風に混じって届いたような、掠れた声。それは、確かに兄さんのものだった。はっとして振り返った時、そこにはもう誰もいなかった。
静まり返った廊下。風がカーテンを揺らし、光が床に淡く広がっている。さっきまで兄さんがいた場所には、空気だけが残されていた。
「すまない、ってどういう意味?」
言葉が喉から流れてきた。それは、空気に溶けて消えていく。疑念ではなく、確信に近い違和感。兄さんは、何かを隠している。それは、ただの秘密なんかより、もっと深くて、重いものだ。
そして、カイはその“何か”を知ることが重要だと、気づき始めていた。




