15.伯爵、くれぐれもお元気で
「ここだよ」
セイが足を止める。地下牢の石壁に囲まれた空間は、湿気と鉄の匂いが混ざり合い、息を吸うたびに喉がざらつく。ランプの灯りが揺れ、壁に伸びる影がゆっくりと蠢いていた。
「セ、セイ殿下……!」
格子にしがみつくモーモートンの声は、か細く震えていた。けれどその声は、恐怖ではなく、計算された演技にしか見えない。鎖の反響音が廊下にこだまする。
セイは一歩、ゆっくりと前へ出る。その足取りは静かで、しかし確実に相手を追い詰める獣のようだった。
「兄さんは、お前に“幼女趣味”があると耳にした」
その言葉に、モーモートンが小さく息をのむ。
「近頃は、権力を鼻にかけて起こす問題の数々……あちこちから“どうにかしてくれ”って、頼まれるくらいでね」
彼の視線が鋭くモーモートンを射抜く。その一瞥だけで、肩が小さく震えた。
「それで、兄さんはお前を牢に放り込むことにした」
「そ、そんな……! 誤解です、殿下!」
「黙れ」
その一言は、重く沈んでいく。
「セイラに協力を頼んでね。決定的な証拠をつくって、お前を逮捕する計画だったんだ」
セイは胸元から紙を取り出し、無造作に檻の中へ放り投げる。
「けどあいにく、俺も兄さんも演奏会の準備に追われていた。だから今まで、お前を野放しにせざるを得なかったわけさ」
「だ、だが……!」
その瞬間、モーモートンの顔が豹変した。怯えた表情は消え、口元がねっとりと歪む。
「それはつまり、セイラ様は“本物”だったってことだな? ぼくはまだ持ってるんだよ、あの夜の写真を。あぁ、セイラちゅぁん、ほんとに、かわいかったなぁ」
その声に、軽蔑したまなざしを送らずにはいられなかった。下劣な響きが石壁に反響する。けれどセイは、肩をすくめて笑った。
「はっ。あれは偽物だぞ」
「えっ?」
僕とモーモートンの声が重なる。
「その道の者に頼んだだけだ。まさか、ホンモノのセイラだとでも思ったのか?」
「う、嘘だ! あれはセイラちゃんだった!」
「じゃあお前、セイラの素顔、見たことあんのかよ?」
「っ」
言葉に詰まるモーモートン。
「セイラは社交界にはほとんど顔を出さない。素顔を知ってるのは、本当に限られた一部の人間だけだ」
その言葉に続けて、セイの顔からふっと笑みが消えた。切なそうな瞳が虚空を見つめる。
「レン。こいつに、なんか言っときたいことある?」
くるりと振り返ったセイの目は、静かに僕を見据えていた。
その視線に頷き、ゆっくりと檻の方へ歩み寄る。
モーモートンの顔は、まだどこか余裕を残していた。けれど、僕はその顔を見ても、もう何も感じない。背筋を伸ばして、声の調子を整える。そして、爽やかに笑みを浮かべる。
「モーモートン伯爵。あとでアッサムの茶葉を差し入れますね。お湯はないですけど香りだけで、気が紛れるかと」
「……なっ、貴様……!」
背後でセイが小さく吹き出すのが聞こえた。でも、それだけじゃ終われない。
僕は一歩、さらに前へ出る。 そして、声を落として、静かに言った。
「それとですね――ずっと思ってたんですが」
一拍置いて、にっこりと微笑む。
「伯爵って、牛と豚を掛け合わせたみたいですね。モー(牛)・モー(再び牛)・トン(豚)。完璧な構成です。響きだけで胃もたれしますし、見た目も……想像通りでした」
「……は?」
モーモートンが、ぽかんとした顔で固まる。 数秒後、顔を真っ赤にして叫んだ。
「この……ガキィィィィ!!」
「ぶっ……あはははははっ!」
セイが床を転げまわっていた。息が出来ずに、酸欠状態の魚のようになっている。
僕は首をかしげて、最後にもう一言だけ、微笑みながら付け加えた。
「お元気で、モーモートン伯爵。くれぐれも、“鳴き声”にはお気をつけて。檻の中で響く声って……家畜っぽいですから」
「キィィーーーーッ!!」
鋭い悲鳴が飛んだけど、僕は軽やかにターンして、セイのほうへ歩き出した。人間に戻った魚は、息を整えていた。
「レン、好きだわ……お前、センスあるな」
「ありがとう。もう平気だよ」
「わかった。んじゃモーモートン、お前の処罰はあとで決めるからな!」
そう言い残して、僕達は牢屋に背を向けて歩き出した。
*
階段を登る途中、石壁に囲まれた空間に、静けさが戻ってくる。ぽつりと、セイの声が響いた。
「てか、レン。よかったのか?」
「ん? 何が?」
首をかしげる僕に、言いづらそうに、言葉をつづける。
「おもしろかったけどさ。でも、家族、侮辱されてたし。それにセイラだって……」
「うん、いいんだ」
許す気なんて、ない。でも、怒りをぶつけるだけじゃ何も変わらない。それは僕が身に染みて分かっていた。
「振り返ったときに、楽しい思い出になるように終わらせたかったんだ」
セイはしばらく黙っていた。そして、あきれたように笑う。
「そっか。レンって、相当変わってんな」
「そんなことないよ! それを言うならセイの方が――」
階段に光が差し込む。いつの間にか登りきっていた。
「んじゃ、俺はこっちだから。またな」
「あ、待って!」
「ん?」
怪訝そうに振り返るセイ。
「お礼、言えてなかったよね。助けてくれて、ありがとう」
気持ちが伝わるように、深く頭を下げる。
「いや、あれは完全に俺たちの不始末だよ。こっちこそ、巻き込んじまって悪かったな」
「別に、セイが謝ることじゃないよ」
「ありがと。……あ、そういえばさ」
セイが急に顔を近づけてくる。
「レンって、セイラのこと、好きなの?」
「――へっ!?」
声が裏返った。
「な、なんで?」
精一杯動揺が出ないようにたずね返すと、セイは不思議そうに首をかしげた。
「兄さんから、セイラが政略結婚したって聞いたけどさ。なんか、それにしては、な?」
「そういうことか」
心臓が、跳ねた。
「いや、僕は、セイラのこと、好きじゃ――」
“ないよ”、そう言おうとしたのに。
喉の奥に引っかかって、どうしても出てこなかった。言葉にしようとするたびに、なにかがつっかえて、空気のように消えていく。
「好きじゃ?」
セイが、じっと僕の顔を見つめる。その瞳は真剣で、逃げ場がない。
「なんでもない!あもう遅い時間だはやく寝ないとそれじゃまたねセイ!」
「え、ちょっレン!」
僕はもう、なんだかよくわからなくなって、とりあえずセイの元から逃げるように立ち去った。
部屋の扉を勢いよく閉めてベッドに倒れ込む。枕に顔を埋めて、大きく息を吸い込む。
なんで言えなかったの!?!?
ごろごろと布団の中で転がりながら、頭の中がぐるぐるして止まらない。だめだ。
よし今日は寝る。もう寝る。はやく寝る。なにも考えずに寝る!
自分に言い聞かせるように目をつむると、案外あっさり眠りに落ちていた。
*
レンが嵐のように去った後。
ひとり残された静かな廊下に、抑揚のない声が響いた。
「まさか、レン――」
その目に映った星のような光は、暗闇に覆い隠されていた。




