12.レオンハート公爵夫妻
海の潮風が、鼻先をくすぐる。塩気を含んだ風は、どこか懐かしく、胸の奥に眠っていた冒険心をそっと呼び起こすようだった。
セルラルド王国の港町――その石畳の上に、僕は足を踏み下ろした。目の前に広がるのは、活気に満ちた街の風景。様々な服をまとった人々が行き交い、軒先には見たことのない果物や香辛料が並んでいる。空には鮮やかな羽根を持つ鳥たちが舞い、陽光を受けて虹のような軌跡を描いていた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。目に映るものすべてが新鮮で、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだ気分だった。そのとき、街の中心からラッパの音が響いた。軽快で華やかな旋律が、ざわめきを歓声へと変えていく。
「チトセ殿下のおなーり」
声とともに、群衆が左右に分かれた。その間を、一人の青年がゆっくりと歩いてくる。
濃い青の髪が風に揺れ、陽光を受けてきらめく黄金の瞳が、周囲を柔らかく見渡していた。肩にかけた赤いマントがひるがえり、歩くたびにその布が空気を切る音が微かに聞こえる。気品ある顔立ちに、ほんの少しいたずらっぽさを宿した微笑み。その姿はまるで、絵本から抜け出してきた王子様のようだった。
「ようこそ、セルラルドへ」
チトセ王子は、優雅に手を差し出した。非の打ち所のない完璧な笑顔。周囲の女性たちの瞳が一斉に輝き、頬が染まる。まるで空気そのものが、彼の登場に酔っているようだった。
「わざわざお出迎え、ありがとうございます」
ノアが、豚の鳴くような声でそう言いながら、握手を交わす。僕の顔が引きつっていくのが、自分でも分かった。
あの船の上での出来事――血に染まったノアの姿。それが、まるでなかったことのように振る舞う彼を見ていると、背筋が冷たくなる。
「レン王子も、よろしくね」
チトセ王子の声は軽やかで、語尾にウインクがつきそうなほどだった。
気づけば、彼の手が僕の目の前に差し出されている。
「よ、よろしくお願いします」
慌てて手を握り返すと、彼の瞳がほんの少し細くなる。
「弟も、今日来られたらよかったんだけどね。確か、君と同い年だったはず」
「はい、そうですね」
セルラルド王国の第二王子、セイ王子。僕と同じ十二歳で、かなりの人物だと聞いている。まだ会ったことはないけれど、どこかで比べられることを、少しだけ怖れていた。チトセ王子の顔を見た後は、なおさら。
「……それじゃあレンくん、セイラ嬢のご両親との初顔合わせ、よろしくね」
「はい?」
思わず声が裏返る。今、聞き逃したくなるような言葉が耳に飛び込んできた。恐る恐る顔を上げると、チトセがニコニコと笑ってこちらを見ていた。
「俺はこれからそちらの王子と、軽い打ち合わせがあるからさ?」
軽い口調なのに、どこか圧を感じる。
つまり僕は今から、セイラのご両親に婚約者として振る舞わなければならない。それも、嘘の婚約者として。
「レオンハート公爵と夫人は、どんな方なんですか?」
思わず漏れた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。足元の石畳が、急に遠く感じられる。
「大丈夫、レンくん可愛いから」
軽やかなほほえみと共にそう返される。
そのとき、港の向こうから、澄んだ歌声が風に乗って届いた。ラッパの音とは違う、透き通った歌声。潮の香りと共に広がるその旋律は、空気を震わせ、静かに町全体を包み込んでいく。
「あ、ちょうど良かった」
チトセが微笑む。その笑みは、どこか期待と緊張を含んでいるように見える。
「歓迎のコンサート、始まったみたいだよ」
その響きは、まるでこれから始まる“演技”の序章を告げる鐘のようだった。
華やかな音楽の裏で――静かに、事は動き出している。
*
銀の食器が静かに音を立て、白いテーブルクロスの上で優雅な食事が進んでいた。窓の外には、セルラルドの港町を照らす夕陽が差し込み、淡い金色の光が食卓を包んでいる。その光の中で、セイラの両親――公爵夫妻は、品のある所作でナイフとフォークを動かしていた。
公爵は、鋭い眼差しを持つ厳格な方。深く刻まれた眉間の皺が、彼の威厳を物語っている。 一方、公爵夫人は柔らかな微笑みを浮かべている。けれど、その奥には見定めるような静かな光が宿っていた。
僕は、喉が詰まりそうになりながら、目の前の料理を口に運ぶ。緊張していても、家の食事に劣らないほど美味しい。
「さて、レン殿下」
突然、公爵の低く響く声が食卓に落ちた。その瞬間、背筋がピンと伸びる。心臓が跳ねる音が、自分の耳にまで聞こえてきそうだった。
「は、はい。なんでしょうか」
声が少し裏返った。けれど、ここで逃げるわけにはいかない。
「今宵はこちらのお招きにご参加くださって、誠にありがとうございます」
「いえ、こちらこそご丁寧に……」
言葉を選びながら、なんとか笑顔を作る。頭の中には、ピースしてウインクしてくるチトセ王子の顔が浮かんでいた。あの人、今は少し嫌いかもしれない。
「それでですね」
公爵の声が、さらに低くなる。
「うちの、かわいいかわいいセイラをたぶらかしたことについて説明していただきたいのですが?」
「はい。セイラとは、お屋敷の廊下で……」
「セイラ? まさか、呼び捨てしているのですか?」
「いえいえいえいえ、そんな滅相もない! セ、セイラ嬢とはですね、お屋敷の廊下で……僕の前方不注意で、ぶつかってしまったんです」
公爵の眉間の皺が深くなり、公爵夫人の微笑みも少しだけ硬くなったように見えた。まずい。これは、少しでも間違えたら即死コースだ。
「その時、まるで月の妖精が舞い降りたようで……僕は一瞬で、彼女に目を奪われました。その後の仕草や品位にも、心を惹かれて――」
言いながら、自分でも少し恥ずかしくなった。けれど、公爵は満足げに顎の髭を撫で、夫人もふわりと微笑んだ。
よかった、なんとか第一関門は突破できたらしい。
「僕が婚約者になってほしいとお願いしたところ……彼女は快く承知してくれました」
「ふむ」
公爵の表情は変わらない。その目は、『なぜうちの娘がこんな少年を』と言わんばかりだった。
「ですから、僕とセイラ嬢は婚約者となったのです!」
「……ほぉ」
納得していないのは明らかだった。けれど、次に口を開いたのは、公爵夫人だった。
「それでは、殿下は……私たちのセイラを、愛してくださるのですね?」
「もちろんです!」
その問いに、食い気味に即答する。それだけは迷いようがなかった。
「たとえ……セイラの顔が、醜く歪んでも?」
「もちろんです!」
「たとえ、セイラが男だったとしても? ドラゴンだったとしてもですか?」
「それは……愛するという意味とは離れてしまいますが、好意は持ち続けます」
これが僕の中で、できる限りの誠意だ。まっすぐ二人の目を見つめ返す。
少しの沈黙のあと、公爵夫妻は目を合わせ、ふわりと笑った。
「殿下なら大丈夫ですね」
「えぇ期待しております」
意味深な言葉。けれどこれは、認めてくれたって事だよね。
「よろしくお願いします!」
その返事と共に、場の空気がやわらいだ。肩の力が抜ける。
地獄の空気が終わって、その後は楽しく食事をすることが出来た。
レンが席を立った後。
食卓には、食後のティーカップと、静かな余韻だけが残っていた。
「……もしかしたら」
「えぇ、ほんとうに……」
「我が子のように大切にしてきたあの方ですから――」
「えぇ。殿下なら、きっと」
二人の声は、誰に届くこともなく。白い食器の中に、静かに吸い込まれていった。




