10.血まみれな兄は不気味に笑う
ノアが、笑っていた。
血まみれの剣を手に、べっとりと赤を滴らせながら……
*
セルラルドへ向かう豪華客船の上。空はどこまでも澄み渡り、雲ひとつない青が広がっていた。海鳥たちは高く舞いながら、甲高い声で鳴いている。その光景はまるで絵画のように穏やかで、旅の始まりにふさわしいはずだった。けれど、心は空の色とは裏腹に、重く沈んでいた。
「うっ……」
オルフェオからセルラルドへ向かうには、港までの道を馬車で向かう。けれどその日、馬車の一台が故障してしまい、残されたのはたった一台。結果として、僕とノアは、誰にも邪魔されることなく、二人きりでその道のりを過ごすこととなった。
ノアは、いつもの調子で自分の過去の栄光を語り続けていた。『俺って昔から天才でさ』から始まった話は、延々と続き、途中から僕は聞くのをやめて、寝たふりをした。それでもその声は止むことなく、まるで自分の存在を誇示するように、空気を埋め尽くしていた。
船に乗ってからも、なぜか部屋は一つしか用意されておらず、僕たちは同じ空間で夜を過ごすことになった。
つまり、丸一日、ノアと、ふたりっきり!!!
「はぁ……」
ため息まじりに、セイラの顔を思い出す。この状況を話したら、彼女はどんな顔で笑うだろう。きっと、鈴のような声で笑うに違いない。
「楽しまないとね!」
セイラの笑顔を思えば、何だって乗り越えられそう。
ノアの監視だってできるし、もし怪しい行動を取ったらすぐ気づける!
と、前向きに考え、僕は今日一日を耐え抜いてきた。
ノアとの食事。ショーの最中、下品な一言で周囲を凍らせた時も。最高級絨毯の上にまき散らした嘔吐物が、僕の服にちょっとかかった時も!
そうしてなんとか一日を乗り切ったものの、八時を過ぎるころには心身ともに疲れ切っていた。こんな生活が夜も続くのかと思うと、気が滅入る。
「はぁ……今日はもう無理。寝よ」
ノアが風呂に入っている隙に、僕はベッドに潜り込んだ。布団はいつもよりふかふかで、ノアのうるさいいびきを聞くことなく、直ぐに眠りに落ちた。
*
翌朝。
早く寝たからか、まだ朝日も登らないうちに目が覚めてしまった。
「ふわぁ……」
大きく伸びをして、ちらりと隣のベッドを見る。
ノアが、いない。
「ノア?」
時計を見ると、まだ朝の四時半。こんな早朝に、どこに行ったのか。
「ノア? ノアー?」
部屋中探したけれど、どこにもいない。代わりに、白い大理石のテーブルの上に、ごちゃごちゃとノアの私物が置かれていた。それらを眺めているうちに、黒い線を見つける。いや、線ではない。それは、長い一本の髪の毛だった。
「……誰の、これ……?」
背筋を悪寒が走った。整えられたはずの部屋に、不自然な違和感が残る。いや、それよりも、ノアはどこに行ったんだ? 僕は慌てて着替え、客室を飛び出した。豪華客船の中は、早朝のためかひっそりとしていた。あちこち探し回っても、ノアの姿は見つからない。
どこだよ、ノア……!
息を切らし、汗ばんだ額を手で拭いながら、甲板へと出た。
休憩がてら潮風を浴びようとした、その瞬間――鼻をついたのは、血の匂いだった。
船のデッキ、そこかしこに赤黒い跡。まるで引きずられたように、床に濡れた線が続いている。その先に、見覚えのある姿が見えた。ぶよぶよと膨れた体。
ノアが、ゆっくりと振り向いた。その手に握られた剣の刃先から、ぽた、ぽた、と血が垂れている。 甲板に落ちた赤い滴は、海風に乾くこともなく、じわりと木目に染み込んでいった。
「ノ、ア……なに、してるの……?」
声は震えていた。喉の奥から絞り出すように出た言葉は、風にさらわれそうなほど弱かった。ノアは口の端をゆがめ、にたりと笑った。その笑みには、いつもの軽薄さも、兄としての面影もなかった。
「ゴミ掃除?」
その言葉は、あまりにも軽く、あまりにも嘘くさかった。ゴミって……なに? そのとき、ノアの足首を、血まみれの手が掴んだ。長い髪の間から、少女の目が見える。その瞳は、恐怖と痛みに濁りながらも、必死に何かを訴えようとしていた。
まだ、生きている。
けれど、ノアの不気味な様子に、足は縫い付けられたように動かなかった。
「はぁっ……こいつ、が……っ……」
かすれた声。震える吐息。その言葉の続きを、彼女は言い終えることができなかった。ノアの足が、無造作にその手を踏みつける。鈍い音がして、その手首は不自然な方向に曲がった。
「汚ぇなあ……なに勝手に俺の足掴んでんだよ」
まるで汚物を見るように、顔をしかめる。そして、ふと何かを思いついたように、ぽつりと何かを呟いた。
「……あぁ、見えなくしちゃえばいいのか」
「やめろ!」
叫んだ。でも、声は届かなかった。足は動かず、体はまるで誰かに縛られているかのように硬直していた。ノアの剣が、少女の顔へと振り下ろされる。
「うっ……! ぁい……っ!!!」
必死に絞り出した少女の断末魔が、甲板に響いた。目の前で起きている現実が、あまりにも残酷すぎて、頭が追いつかない。赤く、白く、そして丸いものが、ノアの手に現れる。それを、すぐには理解できなかった。ただ、見てはいけないものだと、本能が訴えていた。
「……へぇ、けっこう柔らかいんだな」
ノアはそれを見つめ、興味深そうに指先で転がした。そして、何のためらいもなく――握りつぶした。
グシャッ。
静かな破裂音が、妙に耳に残った。その音だけが、現実の中で確かに響いていた。
「ノアなんで……こんなことを? 理由が、あるんだよね。教えてよ、本当のこと!?」
背を向けたまま、ノアはぽつりと答えた。
「船酔いしてる俺を、指さして笑ってきやがった」
それだけ。たったそれだけで、命を奪ったのか。
「……そんなことで」
言いかけた僕の言葉を、ふっと笑って遮った。
「たいしたことじゃないだろ? あっけなかったよ」
剣を鞘に収める音が、カチリと響いた。その音は、何かが終わったことを告げる。
「後はよろしくな」
そして僕の肩を軽く叩き、何事もなかったかのように、すたすたと歩き去っていった。
数分後。 遠くから、足音と叫び声が聞こえてきた。
「あ……メアリー? ……メアリー? 嫌、イヤッなんで、メアリィィ!」
「どうして、どうしてこんな……!」
少女の遺体にすがって、家族が泣き叫んでいる。その隣には、小さな弟がいた。血のついた姉の髪を、面白そうに引っ張りながら。僕は、ただ立ち尽くしていた。頭の中が、真っ白だった。
「……なんで、なにが、ノア……」
信じられなかった。いや、信じたくなかった。胸の奥にあった気持ちが、死体から流れ出た血で、すべて押し流されていく。もう、ノアのことは信じられない。
心のどこかで、何かが音を立てて崩れていく。大切にしていた何かが、壊れた音がする。
希望。兄。優しい記憶。全部が、真っ赤に染められていく。
「……ノア……なんで……なんで、あんな風に笑えるんだよ……」
人を殺しても、いつもと何も変わらない、見下したような笑顔を浮かべるノア。僕の呟きは、波の音にかき消されてしまう。それでも胸の中では、何度も何度も同じ言葉が反響していた。
ノアなんか、大っ嫌いだ。どうしてノアは、こんなことが出来るんだ!
けれど。
その“嫌い”の奥にある――壊れた“好き”が一番、痛かった。




