第3章 『罅割レル日常』
【紹介文】
幸せだった“家族の絵”に、誰も立ち止まらなかった。
燐華が描いたのは、もう戻らない日々。
茉白が描いたのは、未来への夢。
無邪気な善意も、無関心な視線も──
子どもの心には、刃になる。
これは、まだ壊れきっていなかった心が
“ひとつ音を立てて、罅割れた”物語。
『Recode Soul -Judgement-』
~狐火の鎮魂歌~
第3章『罅割レル日常』
パパ、あの時わたしは、
まだ気付いていなかったんだ…
──「フタリデ生きてイコウネ」
あれは優しさだった?
それとも、最初の“呪い”だった?
あれから、少しずつ狂気に変わっていったんだ──
あれから数日が経ったが、
ママは口を聞いてくれない。
夕飯の野菜を切る音が今日も燐華の部屋にまで届く。
燐華は扉をそっと開けては見るものの、階段を降りる気にはなれなかった。
この3日間、ご飯の時ですら燐華は呼ばれることがなかった。
それでも学校へ行っていた。
行きたくないのが本音ではあったが、茉白が献身的に毎日来てくれるのが嬉しく、家に居ても気まずい思いをするだけだと、毎朝鞄を背負った。
カチャリと部屋の扉が開くと、充電を終えたラブが燐華のブランケットを加えて擦り寄ってきた。
クゥ〜ンと鼻を鳴らすと心配そうに燐華を見つめ、首を傾げる。
「おいでラブ」そういうと燐華はブランケット事ラブを抱きしめた。
合成皮革で包まれたラブの身体から温もりを感じる。
「寂しい…」
小さな口からポソリと言葉が漏れた。
例え偽物であれ、ラブに対する愛しさは変わらなかった。
燐華の込み上げる気持ちが、頬を通りラブへと落ちた。
ラブは燐華の肩に顎を乗せると、ジッと動かずにいた。
燐華から流れ出た気持ちを、ラブはそっと受け止めて、その身に染み込ませた。
そして頭を燐華のこめかみ辺りに擦り付けると、また小さくクゥ〜ンと声をあげた。
「大好きだよラブ。ずっとわたしのそばにいて…」
その言葉で、燐華の嗚咽は部屋中に響いた。
時計の針は、深夜11時を越えていた。
グゥ〜と燐華のお腹が鳴る。
「お腹空いた…」
頭がボーっとして眠気に襲われる。
ラブは燐華の顔を舐めながら、低い声で小さく吠えた。
その時、階段の廊下から声がした。
「燐華…降りてきなさい」
母・燈子のその言葉に、反発する気持ちと嬉しいという気持ちが、心の中でぐちゃぐちゃに溶け合っていく。
その矛盾は結局嬉しさが形を成し、燐華の足を部屋の扉へと向かわせた。
立ち上がりふらつく燐華をラブは頭で支えた。
ラブは時折燐華の顔を見上げて確認しながら、階下へ向かった。
リビングの扉を開けると、燈子がいつもの場所に座っていた。
燈子は燐華の顔を見ると一瞬目に優しさを浮かべたが、脇にいるラブを見るなり怪訝な表情へと変わっていった。
燈子は、扉で立ち尽くす燐華に優しくご飯を食べるように勧めたが、目は合わせなかった。
いたたまれない気持ちのまま、燐華は俯きながら燈子の前に座った。
押し黙って座ったままの燐華。
燈子は小さな声で、「食べなさい燐華」と優しく促した。
時計の秒針が、チッチッと時を刻んでいた。
いつもと変わらないはずのリビングの明かりが、暗く感じる。
用意されていた料理は、燐華の好きな煮込みハンバーグだった。
燐華のお腹がまた音を立てた。
口の中には唾液も溢れる。
だが、食べたいとは思えなかった。
燐華は下を向いたまま箸を手にするが、
パタッ、パタッと手元に溢れる気持ちが落ちていく。
頬を伝う思いが増えて、燐華の鼻を啜らせた。
「燐華、ごめんね。ママが悪かった…」
燈子は下を向きながら眉をひそめた。
その言葉に、燐華の嗚咽が繰り返された。
絞り出すように、「ごめ…なさい…」燐華は服の裾をギュッと握る。
「学校で何かあったんだよね?…ママ自分のことしか考えられなくて…ごめんね…燐華が辛い思いしていたのに…ごめんね…」
燐華は立ち上がり燈子にしがみつく。
「辛かったの〜!悔しかったの〜!寂しかったの〜」
ママに
優しくしてもらいたかった…
その言葉は声にはならなかった。
ごめんねと何度も繰り返す燈子の腕は、しっかりと我が子を抱き締めた。
「ごめんね…このままだと燐華もママもダメになっちゃうね…」
「わたしがママを守るから!ごめんなさい〜」
燐華は燈子の胸に何度も顔を寄せた。
「ありがとう燐華…燐華は悪くない…」
燈子の腕が燐華の体を更に締め付ける。
「ママ〜ごめんなさい!」
燈子の愛情を燐華は全身で感じていた。
「だから、これからは…」
フタリデ生きてイコウネ──
──
「ママ?今なんて…」
「燐華…燐華……大丈夫、大丈夫だから……燐華……」
……繰り返す言葉の響きが、やけに無機質に感じた。
“愛されてる”はずなのに、まるで──壊れたレコードみたいに。
それでも、燐華は自分をごまかすように、その胸に顔を埋めた。
「大好きだよ。燐華」
ラブから低い音がヴォォーンと響いた。
〇
学校を飛び出した日からもうすぐ1週間が経とうとしていた。
茉白が毎朝迎えに来てくれるおかげで、燐華もなんとか登校することができた。
クラスの噂や陰口は、まだ終息の目処を持たなかったが、それでも燐華は茉白さえ居てくれればそれで良かった。
事情があるとはいえ、再び争いの火種になりかねないということで、ラブとの登校は禁止された。
後ろの席の茉白が声を掛ける。
「燐華ちゃん、昨日のあれ見た?」
最近流行りの男性グループの動画のことだと、燐華はすぐに察した。
「オメガ・コア…だよね?」
「そうそう、かっこいいよね〜♪
みなさん初めまして〜♪オ〜メガ・コアです〜♪」
燐華は思わずクスリと笑いながら言った。
「茉白ちゃん、その喋り方……似てるよ」
「踊るように喋るのがコツ、燐華ちゃんもやってみて」
茉白は人差し指を立てて解説してみせた。
悪ふざけが過ぎると燐華は思いつつも、彼女の熱意にほだされる。
「茉白ちゃんには敵わないですよ〜♪」
言ったそばから顔が熱くなるのを感じる。
そんな後悔先立たずな燐華に茉白は
「すごい燐華ちゃん!!そっくり〜!」
この時、わたしは
茉白がすごく笑ってくれたからすっごく嬉しかったんだ。
この娘が笑ってくれるなら、わたしはそれだけで幸せだったんだよ…
「燐華ちゃんは笑ってる顔が1番可愛いね!」
屈託のない笑顔をみせる茉白の言葉に、燐華の体温は上昇した。
まだ春の木漏れ日が訪れて間もないにも関わらず、外からはクビキリギスの声が聞こえる。
燐華は窓に目をやると、太陽の眩しさに目を細めた。
教室の隅からヒソヒソと声が聞こえる。
周囲の言葉から守る様に、茉白は話を続けた。
「ていうか、今日って自由発表の日じゃない?燐華ちゃんは何にしたの?将来はもう決めてるの?」
「ん、えと…」
「なになに教えて〜!?」
「…画家さんになりたい...笑わないでね!」
「すご〜い!なれるよ燐華ちゃんなら、すごく上手だもん♪わたしはねぇ、やっぱインフルエンサーかなぁ…」
──
窓の光に目を細めたその瞬間、ふと、あの頃の記憶が蘇った。
「燐華動くなよぉ…うーん」
パパが描いていた絵が好きだった。
「お姫様にしてやるからな!」
楽しそうに笑って絵を描いてるパパはすごく幸せそうだった。
「おぉ〜燐華が描いたのかこの絵!」
「さすがパパの娘ねぇ」
わたしが図鑑を見ながら描いた動物の絵を、パパもママもとっても喜んでくれた。
「将来は画家だな燐華〜!」
そういって抱きしめてくれた温もりを、わたしはこの時鮮明に思い出してたんだ。
──
「燐華ちゃん聞いてる?…どうしたの?」
茉白の顔が燐華の目の前に現れた。
燐華はビクッと体を震わせ、引きつった笑みを浮かべた。
「ごめん、なんでもない…」
ガラガラッ──
教室の扉が音立てて開いた。
みんなに席に着くように促しながら先生が入ってくる。
先生は若くて可愛いらしくて、ハキハキしててみんなの人気者だった。
時折厳しい視線や言葉を掛けてくる人だったけど、何故か男子生徒は大抵嬉しそうだったのを記憶している。
出席と朝の朝礼が一通り済むと、授業が始まった。
自由発表は3時限目だった。
燐華は気にもしていなかったが、朝の茉白とのやり取りで意識してしまっていた。
ソワソワと落ち着かない。
(画家になりたいなんて言わなきゃ良かった…)
今更ながらに自分でハードルを上げてしまったことに後悔の念を覚えていた。
授業をする先生の言葉は燐華の耳には何も入ってこなかった。
2時限目も終わりのチャイム鳴る。
(そういえば、茉白ちゃんの作品てなんなんだろう…)
思わず聞くのを忘れていた事に燐華は一抹の不安を覚えた。
「茉白ちゃ…」
「席に着いてー、次は自由発表です」
先生の鶴の一声で全員席に着く。
(結局聞けなかった…)
その気持ちと緊張で、燐華の心臓は勢いを増した。
(ずっとパパの絵を見て描き続けてきたんだ)
1人ずつ発表されていく。
(この絵はパパとママ、ラブに向けて描いた、燐華の全ての願いと祈りなんだ)
燐華は手に汗を強く握った。
どの発表もすごいとしか思えなかった。
感想なんて出る余地もない。
心臓の音と、手に握る汗の感触しか感じられなかった。
燐華の順番は11番目。
その次は茉白だった。
教室中に拍手の波が響き渡る。
「じゃあ次、野狐さんお願いします」
ドクンッ──
胸に大きな振動を1つ感じると、その振動は加速を始めた。
周りがザワザワヒソヒソとしていて、良からぬことも言っているだろうことは分かるが、聞き取れるほどの余裕はなかった。
先生が全員を落ち着かせると、視線を燐華に送った。
意を決してとはこのことなのだろうと燐華はこの時思った。
「わたしの作品は──」
〇
教室の扉を出てから、空の色が変わったことにも気づかなかった。
茉白の声が聞こえない帰り道は、いつもより風の音が大きく感じた。
燐華は込み上げる気持ちを抑えられず、目をギュッと閉じた。
──
クラス中がザワザワとして、感嘆のため息が響いた。
先生が思わず口を開く。
「野狐さん、それはあなた1人で描いたの?」
燐華が掲げたスケッチブックには、色鉛筆で丁寧に描かれた三人の人物と一匹が笑って並んでいた。
柔らかな色合いで塗られた家の前に、笑顔のパパとママ、そしてその間に立つ燐華が手を繋いでいる。
絵の中の家族は、まるで春の光を浴びているかのように微笑んでいた。
頬の赤み、目尻のしわ、服の模様──どれも細やかで、見る者にあたたかさを感じさせた。
だけど。
その絵の中にだけ咲いている“笑顔”が、現実にはもう存在しないことを、燐華は知っていた。
──あの時のまま止まっている“家族”の形。
燐華の手の震えが、ほんの少しだけ紙を揺らした。
「…ん…」
燐華は緊張と恥ずかしさで声が出なかった。
「素晴らしい家族の絵。とっても幸せそう」
「燐華ちゃんはやっぱすごい!」
茉白は大袈裟なくらい大きな拍手をした。
釣られてまばらな拍手が起こると、先生も「拍手!」と大きな声をあげた。
その音は大きかったが、周囲の視線から燐華は嫌々な感じを受けていた。
小さな舌打ちが時折耳に入った。
「野狐さん、ありがとう。とてもあたたかい作品ですね」
優しい表情と柔らかな声。
先生には、周囲の視線や批判の音は届いてなかった。
燐華は、それでも乗り越えられたのだと、安堵から表情に微かに笑みが浮かんだ。
燐華の紹介が終わり、茉白の番になった。
茉白は自己紹介を作っていた。
先生に促されると、茉白は大きな声で返事をして立ち上がった。
彼女は大きく息を吸い込むと、まるで舞台に立つ俳優のような笑顔を浮かべた。
「みなさんこんにちは!緑川茉白ですっ!」
第一声だけで、教室の空気が少し和らぐのが分かった。
「シンプルですが、自己紹介を始めます!」
自己紹介?周囲は混乱したが、その雰囲気は次の瞬間吹き飛んだ。
茉白の自己紹介は、ただの“自己紹介”じゃなかった。
茉白は大きな模造紙を手にして教壇の前に立つと、カバンの中から小さなスピーカーとタブレットを取り出した。
「それでは、音楽にのせて、自己紹介スタートですっ♪」
明るくポップなBGMが流れ出す。
模造紙には、手描きのイラストとカラフルな吹き出しで彩られた“自己紹介マップ”が描かれていた。
名前の由来や好きな食べ物、趣味──それぞれにイラストとひとことギャグが添えられており、自然と笑いが起きる。
言葉のひとつひとつが軽やかで、でも芯があって──
まるで音楽のリズムみたいに、言葉が心に入ってくる。
誰もが一度は経験したような日常を題材にしながら、
そのなかに小さな“魔法”のような工夫が込められていた。
たとえば──
「名前の“茉白”って、実は“ましろ”って読めない人が多くて…」
と笑って見せながら、ホワイトボードに“ましろ”と書いた文字を、
「心をまっ白にして聞いてね」と茶目っ気たっぷりに締めくくる。
その瞬間、クラスにくすくすと笑い声が溢れた。
短く、シンプルで、けれど完璧。
言葉は少ないのに、“彼女という存在”がしっかり伝わってくる。
まるで、誰もが自然と引き込まれてしまう磁石みたいだった。
発表が終わったとき、教室に拍手が起こる。
彼女の声と表情、紙芝居のようなテンポの良さが、
まるで一つのミニステージみたいに、教室を明るく染めていった。
ほんの数分なのに、確かに何かを残していった──
そんな、不思議な余韻があった。
燐華はそっと呟く。
「……すごいなぁ、茉白ちゃん……」
──
パパ…、わたしね
この時、パパや家族のこと
みんな置いてきぼりにされたような感じがしたんだ…
〇
終業のチャイムが鳴り響いた。
あの後、自由発表は滞りなく進んだ。
生徒の作品は教室の後ろに展示することになっていて、端から天井まで全員の作品で埋め尽くされていた。
みんなが一斉に作品に群がり、教室中に感心の声が行き交う。
「茉白ちゃんのやつ、マジうけた〜」
「絵はさ〜なんか重くない?」
燐華の耳に、クラスの誰かの声が引っかかった。
笑い声と、無関心と、善意のふりをした残酷さが、黒い霧みたいに教室を漂っていた。
燐華は重く伸し掛るものを心に感じながらも、作品の前にいる茉白のそばに向かった。
「じゃあ、良いと思った作品にみんなそれぞれ投票してくださいね〜」
先生が突然みんなに促し始めた。
(投票?)
「投票なんて聞いてた?」
茉白が燐華に視線を送ると、燐華は首を横に振った。
(投票なんて…聞いてない…)
燐華は何か得体の知れない黒いものを感じた。
どうやら
選別って、AIだけが行うものじゃないらしい──
「良かったね。茉白の作品は確かにすごいもんね…」
燐華は、展示された自分の絵に目を向けることができなかった。
「そんなことないよ〜♪」
茉白の作品は投票18…。
茉白の作品は自身の夢や希望を語った自己紹介。
クラス全員を魅了するパフォーマンスは確かに圧巻だった。
茉白が悪いんじゃない…。
でも、わたしの心はぐちゃぐちゃになった。
わたしの描いた家族の絵は投票3に終わった。
「でも、ありがとう。燐華ちゃんがそう言ってくれて嬉しいよ。燐華ちゃんの作品も凄いよ。わたしにには出来ないもん」
「1人の創造より、みんなは自己紹介がそんなに良いんだね…?」
ダメだイケナイ──
「…燐華ちゃん…?…燐華ちゃんとは作品が違うんだし比べられないよ」
その言葉が、優しいのは分かってた。
でも──
「比べられてるじゃない…」
「…燐華ちゃんは絵で伝えたいんだよね」
茉白の声は、まるで慰めるようだった。
でも、そのやさしさすら──今は遠く感じた。
「いや、いい…」
ボソッと声が漏れる。
「…うん、わかった」
困った様に茉白は視線を下に向けた。
わたしの絵はパパの意思を継いだ家族の絆だもん──
「わたし用事あるから帰るね…」
「…うん」
生徒たちの視線は、まだ茉白の作品に釘付けだった。
誰も、燐華の作品の前にはいなかった。
そこだけ、ぽっかりと穴が空いたみたいに、空気が冷たかった。
茉白ちゃんが悪いんじゃない…
そんなこと──
分かってる──
でも、なんで茉白ちゃんはいつも幸せそうなの──
わたしはどれだけ
耐えればいいの!?────
気付くと、燐華はまたあの御神木の前に来ていた。
今回ばかりは茉白は追いかけてはくれない…
燐華は孤独と絶望を再び味わっていた。
下唇が切れるほど噛み締めていた。
──
神様……ねぇ神様……
わたし何か悪いことしたの…?
それなら謝るから…
だから…お願いします──
わたしが、わたしの気持ちを描いたって──
……誰にも、届かない──
「わたしから全部奪って行かないで!!!」
風が吹いていた。
教室のざわめきとも、誰かの言葉とも違う、
ただひとりの世界を包む音──
吹き荒れる風が、埃を巻き上げて燐華の頬を叩いた。
「パンッ!」
近くで風の音が弾けた──
風が嵐のように吹き荒れる──
この時、わたしは
分かってなかった──
気付かぬうちに
──引金を引いてしまったことに…
“願い”には、いつだって
“代償”を伴う…
────
──────
────────
第3章
『罅割レル日常』
~完~
【次回予告】
信じたものが、
音もなくすり減っていく。
差し出された手は、本当に“救い”なのか。
そして、その先に待ち受ける“代償”とは──
傷ついた少女の前に現れる、謎めいた影。
交わされる言葉が、運命の歯車を回し始める。
ひとつの罪が、再び心を裂く。
次回、
第4章『灰咲ク刻』
あなたも、消えない傷がありますか──