第2章 『未泪ノ抱擁』
【紹介文】
居場所を見失った少女の背に、
そっと触れたのは親友の温もりだった。
涙が交わるその瞬間、
胸の奥に眠っていた痛みと絆が目を覚ます──
『Recode Soul -Judgement-』
~狐火の鎮魂歌~
第2章『未泪ノ抱擁』
「パパが…パパがラブをくれたの!」
嗚咽がとまらない。
「パパがくれたのに──!!」
息が上手く吸えない──
呼吸が荒くなり、燐華の全身に痺れが走る。
けれど、燐華の足は止まることを忘れたかの様に走り続けた。
なんでみんな酷いことばかり言うの──
ラブが居ることがそんなにいけないの──
AIだったらダメなの──
足元の小石に気づく余裕なんてなかった。
視界が揺れ、身体が宙に浮く。
「──っ!」
膝が地面を叩き、鈍い痛みが脳天まで突き抜ける。
手のひらに砂と冷たい土の感触が広がった。
「わたしは嬉しかったのに…」
気持ちが溢れて止まらない。
「パパもラブも、わたしの好きな人を悪く言わないでよー!」
体の力が抜けていく。
それでも、立ち止まることだけはしなかった。
気付けば父・啓介と良く散歩で来ていた神社に辿り着いていた。
「燐華、おまえは優しい子だなぁ」
父・啓介が言った言葉が頭に過ぎる。
「パパー!帰ってきてお願いだから…独りに…しないで…」
2体の狐を模した狛犬が、燐華をジッと見つめる。
燐華は吸い込まれる様に鳥居を潜った。
2体の狐を模した狛犬が、燐華をジッと見つめる。
燐華は吸い込まれる様に鳥居を潜った。
朱塗りの柱は、ところどころ色褪せ、ひび割れた木肌が雨風の年月を物語っている。
その傍らで、まだ背の低かった自分の頭を、父が大きな手でぽんぽんと撫でてくれた記憶がよみがえる。
「ほら、ここをくぐれば神様に会えるんだぞ」──笑いながらそう言ってくれた父の声が、ひときわ鮮やかに響く。
手を伸ばすと、指先にざらついた感触と、かすかに残る古い木の匂いが伝わった。
その温もりは、もう二度と触れられない父の手と重なり、胸の奥を締め付ける。
鳥居の向こうは、昼なのにどこか薄暗く、遠い昔から変わらない空気が漂っている。
風が吹き抜けるたび、どこか懐かしい木の葉のざわめきと、土と苔の匂いが鼻をくすぐった。
小さな頃、父と一緒にここで聞いたセミの声や、頭上からこぼれる木漏れ日まで、鮮やかに蘇ってくる。
燐華は体を引きずる様にして進むと、境内の奥にそびえる御神木にしがみついた。
幹の温もりが、冷えきった手のひらをじんわりと包み込む。
「パパ……」
「ラブ……」
声に出した途端、胸の奥がきゅっと縮まり、目の奥が熱くなる。
「燐華ちゃん!」
呼ばれた先に茉白の姿があった。
肩で息をしながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔を
燐華に向ける。
茉白は、袖で目元を拭うと燐華に駆け寄った。
「燐華ちゃんは悪くない!…ごめんね…」
茉白は燐華の背中にしがみついた。
その言葉で、燐華は全身の力が抜けるのを感じ力なくその場に座り込んだ。
ごめんねと繰り返す茉白の言葉に、燐華はただ嗚咽を繰り返した。
「茉白ちゃんはせいじゃない…」
「違うの…わたしも…わたしもラブちゃん見たとき怖いって思っちゃったの…燐華ちゃんの大切な家族なのに…わたし…」
燐華は茉白の震えを背中越しに感じながら、強く唇を噛みしめた。
胸の奥が膨らんでいく──でも、声にならない。
息が詰まり、喉の奥で小さくくぐもった音だけが震える。
押し殺した涙が、熱い雫となって頬をつたう。
「…寂しかった!…悲しかった!…苦しかった!わたしはどうするのが正解だったの!?…みんなもわたしから離れて行くの!?…もう嫌だー!!」
燐華は、胸の奥でせき止められていた何かが、堰を切ったようにあふれ出すのを感じた。
喉が焼けるほどの声が勝手にこみ上げる。
「うわぁああああああああああああッ!!!」
涙と嗚咽が混ざった叫びが、境内の空気を震わせる。
張り詰めた夜気が一瞬揺らぎ、御神木の枝葉がざわめく。
その揺れはまるで、燐華の胸の奥の嵐が外へ漏れ出したかのようだった。
風が巻き込み、枯葉が足元を舞い上がる。
幹にしがみつく指先は震え、温もりを求めるように必死に食い込む。
御神木はただ静かに、しかし確かにその身全体で燐華を受け止めていた。
泣き叫ぶ声は、やがて嗚咽だけに変わり、冷えきった境内に吸い込まれていく。
「わたしがずっとそばに居るから…」
茉白は燐華をそっと振り向かせ向き合う。
「わたしは燐華ちゃんと離れたりしないよ」
燐華を見つめ笑顔をみせる茉白の頬に、雫が弧を描いて落ちた。
「辛かったよね…ごめんね…わたしが燐華ちゃんを笑顔にするから…。笑っている燐華ちゃんが大好きだよ。ずっと一緒にいるからね」
茉白は堪えきれず燐華を抱きしめた。
燐華は、その温もりに抱かれてただただ声を上げて泣き続けた。
〇
学校に戻る気にはなれなかった。
燐華が「家に帰る」と告げると、茉白は静かに頷いた。
家に帰れば、燈子がどんな言葉を投げかけてくるか分からない。それでも、燐華は足を向けた。
茉白は何も言わず、俯く燐華の手をずっと握り続けた。
玄関に向かう燐華の背に、茉白は小さく──ためらうように「またね」と声を掛けた。
燐華は振り向く気力もなく、玄関の扉を開いた。
ガチャリと音を立て扉が開くと、リビングの方から声が聞こえる。
燈子が誰かと話をしている。
燐華はそっとリビングの扉を開け、隙間から中を覗いた。
燈子はテーブルに向かい、スーツ姿の男女と向かい合って座っていた。
机の上には白い封筒と数枚の書類。男が無表情のままペンを差し出す。
「こちらが死亡判定の登録書類です。
よろしければサインを」
2人は同じタイミングでタブレットに視線を落とした。
その言葉を聞いた瞬間、燐華の足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
誰の話をしているのか、考えるまでもなかった。
燈子はペンを握らず、ただ職員の顔を見つめている。
手が小刻みに震え、肩が上下し、深く息を吸うたびに胸の奥で何かが軋んでいるのがわかる。
「……それで終わり?」
職員が首をかしげ、マニュアル通りの笑みを浮かべる。
「……はい? 補助金の申請などあるようでしたら担当の者に引き継ぎま──」
バンッ、と乾いた音が部屋に響いた。
燈子の手が机を叩き、涙がぽたりと書類を濡らす。
「お金の話じゃない!!」
その声に、燐華は息を呑んだ。
燈子の瞳は赤く滲み、声は掠れながらも震えていた。
「あの人は“選別”されて死んだの! お詫びの言葉も、夫に手を合わせることもしないじゃないですか!
……啓介は……“E.L.I.S.I.O.N.”のために、どれだけ尽くしてきたか……
昼も夜も働き詰めで……それでも、あの人は信じてた。あのシステムが人を救うって……!」
最後は、押し殺した嗚咽の中で絞り出すように。
「見殺しにされたんですよ!?
夫は……もう二度と帰って来ないんです……」
燈子の声が掠れた。
窓の外では、昼下がりの陽が白く差し込み、役所前のバス停に人影が集まっていく。
その世界の動きが、やけに遠く感じられた。
燈子は視線を逸らし、白く光る街並みを見つめた。胸の奥で、言葉にならない何かがうごめく。
職員は眉を上げた。
「……申し訳ありません。私どもも規則に従っております。
これは──“E.L.I.S.I.O.N.が導き出した答え”です。」
ふたりは同時に頷き、タブレットへ視線を落とした。
それは、胸の奥の最後の支えを粉々に砕く一言だった。
その言葉が、燈子の肩をさらに落とした。
冷たい杭が胸の奥に打ち込まれる。
燈子は俯き、両手で顔を覆う。
すすり泣きが、狭い部屋に響いた。
「“E.L.I.S.I.O.N.”がなんだって言うのよ!人の命1つ救えないじゃない…」
職員は気まずそうに立ち上がり、何か言いかけて──口を閉ざした。
部屋に、冷房の風音だけが流れる。
燈子の呼吸が乱れ、涙が落ちる音がやけに大きく響いた。
扉の陰で見ていた燐華は、一歩も動けない。母の背が、見たこともないほど小さく見えた。
何か言おうとしても、喉の奥が塞がり、ただ心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
扉を開くと燐華が立っていたが、2人は軽く頭を下げてそそくさと帰っていった。
テーブルに俯いたままの燈子に燐華は「ママ…」と声を掛けるが、返答はない。
ラブはリビングの端で座ったまま、首元の赤いランプが小刻みに点滅を速める。
「…ママ、ラブなんで動かないの?」
「燐華、学校飛び出したんだってね。電話があった。何があったのか知らないけど…」
「──あ、あのねママ…」
「あなたまで私を困らせたいの!?」
────
その瞬間、胸の奥でミシッと何かが歪む。
「…ちが…あの…ごめんなさい…」
歪みは内側でふくらみ、耳鳴りがじわじわと世界を塗りつぶす。
この感じは
嫌だ!!────
「あのねママ!──」
「部屋に行って!」
燈子の全身が小刻み震える。
「あなたの顔なんか見たくない!!」
──
耳の奥が、金属を引き裂くように鳴る──
その音が焼けた鉄の匂いへと変わり、鼻を刺す。
熱が喉が焼き、吐き気がせり上がる。
────
あぁ…だめだ…
わたしは
この歪みに抗えない──
──
パパ…助けて…
燐華…
壊れちゃうよ────
足元から、静かな冷たさが這い上がってくる。
第2章 ~完~