第1章『儚温ノ兆シ』
支えを失った少女に差し伸べられたのは、
生前の記憶を宿す“AIのラブ”の温もりだった。
けれど、その温もりの裏に潜むざわめきは、
やがて彼女の世界を揺らし始める──
『Recode Soul -Judgement-』
~狐火の鎮魂歌~
第1章『儚温ノ兆シ』
今日の燐華は朝から機嫌が悪い。
いや、機嫌が悪い様に見せているだけで、本当は新しいラブのそばに居たいのかもしれない。
生前の記憶を持ち合わせたAIのラブに、気持ちを寄せたくなるのは当然だ。
父親と愛犬を立て続けに亡くしてしまったのだから、まだ幼い燐華には支えが必要なのだ。
(燐華に寄り添わなきゃ…私がしっかりしなければ…)
頭では分かっている。けれど気持ちが着いていかない。
(今は気を保つだけで精一杯だ…)
燈子はソファーから身体を起こした。
両手で頭を抱えるも、思考が一瞬停止しただけで、どうしたら良いのか、答えは纏まることはなかった。
「燐華、学校行きたくない?」
燈子は顔を伏せたままため息混じりにいった。
「…ラブと居る」
燐華は伏せをしているラブにしがみつきながら、ポツリと言葉を漏らす。
「そっか…」
燈子は学校へ連絡しなければとスマホに手を伸ばした。
途端、ラブがもたつきながら立ち上がった。
立ち上がり方まで生前と変わらない。
(啓介がわたしたちに残してくれた…希望…)
溢れる気持ちが瞳に溜まる。
ラブは“ワンッ”と低く吠えると玄関先に向かった。
2人はラブの突然の行動に驚いたが、その動きには見覚えがあった。
(まさか…)
玄関へ続く扉から目を離せずにいると、ラブは散歩用のリードを咥えて戻ってくる。
そして燐華の前でポトリと落としてみせた。
「散歩に行きたいの?」
燐華の問いにラブは再び低く吠えると、ランドセルの前で腰を降ろした。
「一緒に学校に行ってくれるの?」
ラブは燐華に顔を寄せると尻尾を振ってみせた。
「良かったね燐華」
一連の流れを目にした燈子は目尻を下げた。
しかし、同時に湧き上がる違和感が燈子の顔を再び曇らせる。
(すごい…けど、完璧過ぎる…。生前のラブは賢かった。でもそれは動物として賢いのであって、今の行動は音声や行動のデータを元に行動しているとも取れる…。これって本当にペットと言えるの…)
「ママわたし学校行く」
燐華はラブの頭を撫でながらランドセルを背負った。
「そう。偉いね燐華。ママも一緒に行くよ」
「大丈夫。ラブがいるから」
────
「そう…」
この時、私は、
燐華に突き放された
そう思った──
私よりAIの方が大事なの?──
晴れ渡る空の向こうから、微かに雷鳴が鳴り響いた。
〇
通学路を抜ければ、あとは坂を登るだけだった。
学校はその小高い丘の上に建っていて、坂の中腹からでも校舎の一部がちらりと見える。
足元のアスファルトには、朝の陽射しが斜めに差し込み、ラブの影が長く伸びていた。
蝉の声はまだ遠く、代わりに聞こえるのは、葉の擦れる音と、ランドセルの揺れる小さなリズム。
ラブは通学路の端をぴょこぴょこと歩きながら、ときおり振り返っては燐華の方を見てくる。
まるで「ちゃんとついてきてる?」とでも言いたげに、小さく首を傾げる仕草が、なんとも可愛らしい。
そのたびに、燐華も無意識に一歩早める。
ふと、ラブが路肩の段差に足を取られてよろけた瞬間──燐華が反射的に手を差し出した。
間に合うはずもないけれど、ラブはぴょんと着地して、何事もなかったように笑っているような顔を向ける。
「……ドジっ子なんだから」
そう呟いた燐華の目元が、少しだけやわらいだ。
ラブは小さく尻尾を振ると、そのまま燐華の横に並び、肩に鼻先をちょこんと寄せた。
まるで、ありがとう、と言うように。
燐華の手が、そっとラブの頭に触れた。
その感触に、ラブはゆっくり瞬きをして、ただ黙って撫でられていた。
「ラブ大好きだよ」
その柔らかな仕草が、生前のラブと重なって見える。
ほんの些細な動きまで、よく似ていた。
しかし幼い燐華には似ているだけで十分だった。
僅か7歳で前のラブと今のラブを見分けることは出来なかった。
けれど、亡くなって悲しかった記憶は鮮明にある。
燐華は湧き上がる感情をどう処理していいのか分からずにいた。
嬉しいけど悲しい。
矛盾した感情は燐華を混乱させる。
燐華は一瞬、俯いた。
ランドセルの重さとは違う、胸の奥の痛みが、また少しだけ広がった気がした。
けれど──ラブがそっと、彼女の手の甲に鼻先を押しつけた。
「……ん、もう、大丈夫だよ」
燐華はラブに向かって微笑みを浮かべる。
ラブは短く吠えて、また前を向いた。
坂を登りきると、ふっと視界が開けた。
目の前には、鉄製の校門と、その奥に広がる開けた校庭。
そのさらに向こうには、町の屋根が連なり、そして遠く──海が見えた。
朝の太陽に照らされて、海面が銀色にきらめいている。
どこまでも広がるその輝きに、燐華は思わず足を止めた。
生温かいけれど、どこか爽やかな風が制服の裾を揺らす。
ラブの鼻先に風が当たったのか、ふいに小さなくしゃみをして、その場でくるりと一回転した。
「くしゃみするんだね!?」
燐華がくすっと笑って名前を呼ぶと、ラブは尻尾を軽く振って、静かに隣に寄り添った。
そのとき──
「ねえ、それ犬!?ロボット?すごーい!!」
背後から弾むような声がかかる。
振り向くと、ランドセルを背負った女の子が駆け寄ってきた。
「茉白……!」
燐華が目を丸くすると、茉白は興味津々にラブを覗き込む。
「この子、生きてるみたいに動くんだね!ほんとに犬なの?すごい賢い!可愛い〜っ!」
ラブは茉白の声に反応して首を傾げ、小さく“ワン”と鳴いてみせた。
「わっ!鳴いた!お返事した!」
思わず手を叩いて笑う茉白。その無邪気な笑顔に、燐華の胸が少しだけ軽くなった気がした。
「ラブだよ」
燐華は照れながら愛しそうにラブを撫でた。
「え?その子がラブちゃん?」
「ラブが死んじゃったからパパが生き返してくれたの」
燐華は柔らかな眼差しを茉白に向けた。
「そ、そうなんだ…」
茉白は燐華の目を一瞬だけ捉えるとすぐに逸らした。
「ラブの細胞を使ってるから今のこの子もラブなんだよ!凄いでしょ!?」
燐華の無邪気な声に、茉白は笑おうとしたが──
出来なかった。
目の奥に、わずかな揺らぎを見せる。
ラブがこちらを見て、静かに尻尾を振る。
茉白の背中が小さく震えた──
「燐華ちゃんが嬉しいならわたしも嬉しい!」
茉白は燐華にニコッと、花が咲くような笑顔を見せた。
ラブは校門の前で一度立ち止まり、後ろを歩く燐華達に振り返った。
そして尻尾を振り、舌を出して呼吸してみせる。
「ありがとうねラブ」
燐華のその声にラブは低く吠えるとくるりと踵を返して、歩道を静かに引き返していった。
「またね、ラブ」
燐華が手を振ると、ラブは立ち止まって、ひとつ頷くように首をかしげた。
その様子を見て、燐華はさらに大きく手を振る。
ほんのりと笑みが浮かび、頬がふわりと緩む。
その様子を見ていた茉白の耳に微かな声が届く。
周囲の好奇な目は
2人を確実に捉えていた──
〇
ランドセルの重みを背に感じながら、燐華は静かに教室の扉を引いた。
ガラリ──。
さっきまで教室の外まで聞こえていたはずの声が、止まった。
一瞬の間の後、ヒソヒソと、声が波のように広がっていく。
席に着こうとした燐華に、数人の男子が近づく。
「野狐、さっき校門にいた奴って何?」
「ラブだよ」
屈託のない笑顔で燐華は答える。
「ラブっておまえの家の犬のことだよな?」
燐華が口を開きかけた、その瞬間──
「てかさ!」と、後ろの席から男子の声が割り込んだ。
わざと会話の真ん中に飛び込んでくるような、軽く鼻で笑う声だった。
「おまえの父ちゃん死んだってホント?」
ドンッ!──
燐華の心臓が大きく跳ねた──
ギリギリで堪えていた悲しみの境界を、その言葉はいとも簡単に越えてきた。
燐華の表情が一気に歪む──
「ははっ!おまえ泣いてんの?」
「泣かすなよおまえ〜」
「てかあれって犬じゃないだろ?」
笑いが一人から二人、二人から三人へと伝染していく。
耳の奥がじんじんと痛む。
教室の空気が、ゆっくりと黒く濁っていく。
“面白いことを言った者が勝ちだ”
“自分ならもっと凄いことが言える”
教室は
一気に飲まれた──
そして、その矛先は──燐華ひとりに向かっていく。
黒い濁りは、捕食対象を燐華に定めた──
言葉たちは加速する──
「あれは犬じゃないだろ」
「わたし知ってる。細胞を入れて動くAIだよ」
「てことは死んだ犬の細胞入れてんの?怖ぇ〜」
堪えきれず茉白が割って入る。
「燐華ちゃんのパパとラブちゃんが死んじゃったんだよ!そんな言い方しないで!!」
「何それ?じゃあゾンビじゃん」
笑いが爆ぜた。
甲高い声や机を叩く音が重なる──
茉白が叫び止めようとするも、誰の耳にも届かない──
燐華の頬に大粒の雫が次々と流れた。
「おまえの親ヤバいね」
「気持ち悪ッ」
「パパのこと悪く言わないで!!」
絶叫にも似た声が、教室に響く──
「だっておまえの家、頭おかしいじゃん」
「それ以上言うなら──許さないから!」
茉白の声と足が大きく震える。
「迷惑なんだよ。学校に気持ち悪い物連れて来んな」
その言葉が、燐華胸の奥を鋭く突き刺した──
視界が一気に滲み、息が詰まる。
これ以上聞きたくない──
気付けば、椅子が床を引きずる音と、自分の足音だけが教室に響いていた。
背後から上がる笑い声を振り払うように、燐華は扉を開け放ち、廊下へ飛び出した。
「……逃げたぜ、あいつ」
誰かの笑い声が背後で響いた。
「燐華ちゃん!」
茉白は咄嗟に追いかけようとする。
だが、袖口を誰かが掴んだ。
「茉白ちゃんは……怖くないの?あの子のこと」
その言葉に、茉白の動きが止まった。
肩が小刻みに震える。
声を出すことができない。
目を見開いたまま、俯く──
胸の奥がザワザワする──
けれど、それが燐華なのか、AIなのか、周囲の声なのか──
それすら分からないほど、胸がざわついていた。
何も言わず、茉白は走り出す。
袖を振りほどき、まっすぐ廊下を駆け抜けていく。
「燐華ちゃん!!」
ただその名前だけを呼びながら。
第1章 ~完~
【次回予告】
一人じゃない──そう思えた日。
けれど、それはまだ、静かな前触れに過ぎなかった。
笑顔の裏に潜む揺らぎ。
扉を叩く音が、家の空気を変えていく。
第2章
『冷律ノ刻印』
理不尽は、いつだって正面からやってくる。
──あなたは何を感じますか。