ああ、そうだろ?
ようやく治療が終わった頃、ヘルトは玉の汗を流し、テュシアの意識は闇に沈んでいた。
微かなうめき声が時折響く小さな空間の中で、小一時間程体を休めた後、いまだ痛々しい姿のテュシアを背負って通路へと歩を進める。
彼の回復魔法では出血を抑え、打撲程度を治療するのが関の山。とりあえずの治療を施し、差し迫った命の危機は脱したとは言え、風前の灯であることに変わりはない。
速やかに仲間達と合流し、王都に戻る必要がある。
が、ここで待っていたところで助けは見込めないだろう。
万全の状態であればどれだけの高さがあろうとプリムとイディオであればその身一つで降りることが可能だ。にもかかわらず、彼女らがヘルト達が落ちてきた穴を降りてこないということは、すなわち不測の事態が起きていることの証左だ。
ならば、こちらが進むしかない。
ようやく落ち着いた頭でヘルトはそう考えて、通路を覗き込む。
銀灰色に囲まれた通路は明かりで照らしても闇の全てを暴くことは出来ず、地獄の入り口のようにヘルトには感じられた。
王都に程近いとはいえ、特に何かがあるわけではないこの洞窟に来るのはこれが初めてだ。当然内部の構造や、外へと繋がる道など知っているはずもない。
魔王軍四天王がうろついているという、ただでさえ危険な洞窟から重傷人を背負って脱出する。
抱えた責務に背筋を凍らせながら、ヘルトは通路へと一歩を踏み出した。
逸る気持ちを必死に押さえつけながら、足音を殺してヘルトは進む。
洞窟には当然のごとく魔物がいる。それら自体の対処もさることながら、戦闘の音を聞きつけた魔王軍四天王が近寄ってくるかもしれない。
洞窟内の重い空気がヘルトの肺を圧迫し、光の届かず、冷え切った空気が体温を奪っていくにもかかわらずたらりとヘルトの体を汗が伝う。
「……ぅう」
少女の苦しそうな声ですら、今のヘルトを苛立たせる原因となった。
首筋にかかる熱い吐息も、肩甲骨辺りに感じる柔らかな感触も、両手に触れるさらりとした太ももも。彼女に関わる全てが彼の心を刺激した。
分かれ道に来れば右に行く。袋小路になっていれば戻って左へ。そんな風に進みながら、脳内で洞窟の地図を完成させていく。登り道に喜び、下り道に落胆して引き返す。
そうして、一時間ほど進んだ頃だろうか。
ヘルトは遂に恐れていた一つの事態に直面する。
「グギャギャッ!」
曲がり角の奥から響く子供のような笑い声に、身を隠すように覗き込むと。
「ちっ! ゴブリンか」
三匹のゴブリンが曲がり角の先、少し広めの広間となっている場所にいた。
緑の体皮は所々ぶつぶつとしており、申し訳程度に巻いたみすぼらしい腰巻をつけている。人間の子供程度の背丈に、子供未満の知能の小鬼。しかし、洞窟の中で暮らす彼らは、火の扱い方を体得しているのか、焚き火を囲んで座っていた。
ギラリと獰猛な黄色い瞳が焚き火に照らされて怪しく光る。
大して大きくない広間の中心に居座られては、気付かれずに通り抜けることは不可能だ。しかし、引き返すにしても長らく一本道を、それも登り道を歩いてきていたこともあり、諦めるにはすごく惜しい。
背負うテュシアの鼓動を感じながら、結局ヘルトは戦うことを決める。
彼女を背から下ろし、冷たい岩壁にもたれかけさせる。抜き身のまま腰に差した剣を右手に持ち、壁に背をつけて飛び込む機会を伺う。
彼我の距離は十メートルほど。全速力で駆け抜ければ、相手に戦闘体勢を取らせる前に殲滅は可能だろう。
数ある魔物の中で、ゴブリンの危険度は低い。ヘルトのような冒険者でなくとも、一般人すら十分に対応できるレベル。
深く深呼吸をして、いざ、戦場へ。
「グギャ!」
「グギィ」
振り下ろした剣で一体を仕留め、返す一刀で二体目を仕留める。そして。
「ぐぎゅ!」
一瞬の後に、三匹目の喉元へと剣を突き立てた。
「はっはっはっ!」
なんのことはない。
ただゴブリンを三匹仕留めただけ。ヘルトのような中級冒険者にとっては、造作もないことだ。
しかし、その肩は上下に激しく揺れ、呼吸も荒い。神経を酷使する洞窟探索が想像以上に体力を奪っていた。
「……休憩するか」
そう決めて、まずはゴブリンの死体を広間の隅へと追いやった。そして、テュシアを運んでゴブリン達の焚き火の傍へと横たえる。
「……ふう」
続いてヘルトもどかっと腰を下ろす。
冷えた洞窟の中、いつの間にか体温を奪われ過ぎていたのか、熱い焚き火がじんわりとかじかんだ体を解していく。
幸いにも近くに魔物はいないのか、小さな広間には薪の弾ける音とテュシアの呻き声が響くばかり。ゴブリンの体が放つ異臭も慣れれば問題はない。
本当はここで携行食でも食べられれば良いのだが、生憎と彼の荷物は全て荷物持ちを買って出たジニアが持っている。まさかゴブリンを食べる訳にもいかない。
空腹を紛らわすようにヘルトは辺りを見回す。
代り映えのしない銀灰色の岩壁に、乱雑に積み上げられたゴブリンの死体。
そして、横たえられたテュシア。
「そういえばこいつ……」
ふと、思い出してヘルトはテュシアの隣へと移動し、その体をじっくりと観察する。
金の装飾があしらわれた黒装束。膝よりも大分上までしか覆わないスカートからは艶めかしい生足が覗き、華奢な体つきはとても魔王を倒した勇者とは思えず庇護欲を掻き立てる。
細い首筋からつながる顔は小さく、細い顎、薄い唇、整った目鼻立ちが焚き火に煌々と照らされていた。
「……っ」
この時初めてヘルトはテュシアの美しさに目を奪われ、生唾を飲む。
だが、すぐに頭を振る。
彼女は敵だ、と。
これは生き残るために必要なことだ、と。
そう言い聞かせ、油断すれば荒くなりそうな呼吸を必死に押さえつけながら、その処女雪のように白い体へと手を伸ばした時。
「ぅう……ううう…………ん?」
テュシアの長いまつ毛が動き、漆黒の瞳が開かれた。
彼女は数秒ほどぼうっとした後、視界に映るものを正しく認識する。
薄暗い洞窟、横たえられた体、こちらに手を伸ばす性格の悪そうな男。
「……は? ちょっと何して熱っ! 痛い!」
瞬時に迫る身の危険を感じ取り、男から逃れるように身をよじる。よじった先には焚き火があり、あまりの熱さに再度身を男の方へと躱す。高所から叩きつけられた体でそんな急激な動きをしたせいで、全身を激痛が襲いたまらず悲鳴を上げた。
「……ぶふっ」
これまで見てきた冷静な彼女からは想像も出来ない程に滑稽な行動に、さしものヘルトといえど、たまらず噴き出してしまう。
「何を笑っているの! ここはどこ! どうしてあなたと二人なの! あなた私に何もしていないでしょうね!」
頬を朱に染めながら怒鳴るテュシア。しかしヘルトはそんな言葉も耳に入らずに、腹を抱えてひとしきり笑った後、片手をあげて軽く謝罪した。
そんな彼と距離を取るように顔をしかめて起き上がりながら、テュシアは身を抱えるようにして言った。
「ねえ……なにもしてないのよね?」
状況の確認の前にまず貞操を気にする姿はまさしく年頃の少女のようで、それもまた面白くてヘルトは噴き出した。
「ちょっと! 笑ってないでなんとか言ったらどうなの? もしかしてあなた……!」
「悪い悪い。何もしてねえよ。神に誓って本当だ」
別に神など信仰していないし、誓ったからと言って何なのだ、とヘルトは思うがあらぬ疑いを避けるためにもそう言った。
テュシアもその言葉に少しだけ落ち着きながらも、目が覚めた時に見た光景が忘れられずになおも口を尖らせる。
「じゃあ、さっきのは」
「食料を持ってないかと思ったんだよ。俺の荷物は預けちまって何もないしな」
「そ、そう。けど残念ね! 私も持ってないわ! 素寒貧よ! 残念でした!」
「そ、そうか……」
恥ずかしさのあまり若干テンションがおかしくなった彼女を前に、ヘルトは戸惑い半分、落胆半分で言葉を返す。
「そ、そんなことよりもまずは状況の確認が先決よ。そんなことも分からないの? ほら、早く説明して。あなたと言い争ったことは覚えているわ。けれどそれ以降があいまいなの。ここはどこで、どうしてあなたと二人きりなのか。早く」
お前が先に聞いたんだろうが、そう突っ込みながらも、ヘルトは彼女の矢継ぎ早の質問に一つ一つ答えていく。
突然床がなくなり、二人して洞窟の上部から落ちてきたこと。
ヘルトは華麗な着地に成功したが、テュシアは間抜けにも全身を叩きつけられたこと。
とりあえずの治療を行い、脱出のためここまでテュシアを運んできたこと。
そこまで聞いてからテュシアは言った。
「……運んできたの? あなたが? 私を? どうやって?」
「どうやってって、背負ってきたに決まってんだろ」
「触ってるじゃない!」
「そのくらい仕方ねえだろうが!」
顔を真っ赤にしながら怒鳴るテュシアに、ヘルトも怒鳴り返す。
「どうしてあなたがそんなに怒るのよ! は! さては恋人と比べてるのね! 悪かったわね貧相な体で! あんなおっぱいモンスターじゃなくてごめんなさいね!」
「恋人じゃないし、おっぱいモンスターのなんか触ったことないから比べられねえよ! だが、お前のは中々の感触だったぞ自信を持て!」
「は、はあ!?」
やはりテンションがどこかおかしいテュシアとそれに釣られるヘルトは怒鳴り合う。
もはや魔王軍四天王のことなど頭になく、周囲に気を配ることも忘れてただただ己の感情をぶつけ合う。洞窟の重苦しい雰囲気は霧散し、賑やかな声が小さな広間を満たしていく。
そうして、プリムが聞けば即座に地獄の業火を召喚しそうな怒鳴り合いを終える頃には二人して肩で息をしていた。
「はあ……はあ……で?」
「でって……なんだよ」
「これからどうするのよ?」
「どうもこうも脱出のために出口を探すしかないだろうが」
「私歩けないんだけど? 置いてくつもり?」
「そんなつもりなら、最初から連れて来ねえよ。それに、そもそもお前、回復魔法を使えるんだろ? さっさと自分で治せばいいだろうが」
あれだけの重傷でまさか意識を取り戻すとは思っていなかったため、ここまでテュシアを運んできたヘルトだったが、目を覚ましたのであれば話が違う。
勇者である彼女であれば、ヘルトでは対応が出来ないような怪我も魔法で治してしまうだろう。彼女さえ回復してしまえば、最早恐れるものなど何もない。
一人での洞窟探索から解放された今、どっと押し寄せる疲れを感じながらヘルトは言った。
だが、何の気なしに言われた言葉に、テュシアの眉間に皺が寄る。
「……あなた、どうして私がこんな怪我をしているのか、分かる?」
「高いところから落ちて、間抜けにも着地に失敗したから」
「ちっがうわよ! さっきも言おうと思ってたけど、何よ間抜けって。そうじゃなくて、どうしてか魔法が使えないのよ! 着地に失敗したのもたぶんそれが原因よ! だから回復魔法も使えないの! アンダースタン?!」
やはりどこか様子がおかしいテュシア。
しかし、先ほどまでとは打って変わって、その言葉はヘルトの頭に影を落とす。
「は? 魔法が使えない?」
「……そうよ」
「本当に?」
「本当に」
「はぁぁぁぁぁあ……」
盛大に吐かれたため息にテュシアの眉間に再び皺が寄る。
彼女が魔法が使えないとなれば、話は振り出しだ。
これからヘルトは彼女を背負って王都を目指さなければならない。
再び湧いた苦戦必至の仕事に彼は大きく落胆した。
「マジかよ。おい、どうしてそうなった。スランプか?」
「そんなわけないでしょう。というよりあなたには何か心当たりはないの? 変な薬を飲ませたり、だとか?」
「やってねえよ」
ジトっとした目で見てくるテュシアにヘルトは端的に返す。
しかし、ヘルトは顎に手を当てて考える。
どうして、か。
今のこの危機的状況はテュシアが重傷を負っていることを起因としている。
つまりはその原因を突き止め、解決することが出来ればこんな厄介なミッションも完了であり、ジニアとの約束も果たすことが出来るというわけだ。
(ん? ジニア?)
ふと、落ちる前に聞いた彼女の言葉を思い出す。
「マナ、シール?」
「……は?」
ヘルトの言葉に、テュシアが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「今、なんて?」
「ん? マナシールだよマナシール。そういえば、落ちる前なんかそんな声が聞こえたなーって」
何を指す言葉か分からない以上、ジニアが言ったことは隠すべきだろう。
だが、そんなヘルトの誤魔化しにすら、言及する余裕はテュシアにはなかった。
「マナシール。……ねえ、あなたその言葉に聞き覚えはある?」
「ないな」
「あなた、確かプリムさんの話では、学院で魔術で一位だったって本当?」
「……本当だ」
「そう、あなたでも分からないのね。……なら、そういうこと、か」
消え入りそうな声で囁かれた言葉。
しかし、静寂が包むこの空間では否応なくヘルトの耳朶を打つ。
発した彼女は、先ほどの異様なまでの感情の高ぶりはすっかりと鳴りを潜め、手元へと視線を落としている。
「どうした?」
そんな彼女にヘルトは思わず声をかけてしまう。
あまりにも彼女の存在が儚いもののように思えて。
あまりにも彼女の姿がか弱い存在のように見えて。
あまりにも彼女の声音が悲しい響きを伴っていたから。
「いえ、何でもないわ。ねえ、そういえば、あなたと口論していた時……そういえば名前聞いてなかったわね。金髪の女の子がいたでしょ? あの子はおそらく無事よ。安心して」
けれど帰ってきたのはそんな言葉。
これまでの彼女からは想像もつかないほどに優しい声音で紡がれたそれは、すっとヘルトの心の中にまで入り込んでくる。
「あなたにも悪いことをしたわね。ごめんなさい」
「お、おい、何を言って……?」
「この状況は、全部私のせい。だから、置いて行って構わないわ」
どくり、とヘルトの心臓が跳ねる。
計画がバレている?
一瞬そんな考えが頭をよぎるもの、すぐにそれはないと思い至る。彼女が全てを知っているのであれば、ヘルトに謝ることなどありえない。
では、彼女は一体何を言っているのか。
ヘルトにはそれが分からない。
だが、それでもやらねばならないことは分かっている。
「うるせえな。置いて行かねえって言ってんだろうが」
「でも……」
「でももくそもねえ。そもそもの話、この状況がお前のせいだってんなら、俺を安全なところまで送り届ける義務があるんじゃねえのか?」
「そ、それはそうかもしれないけれど、この状態じゃ連れて行ってもらっても足手まといにしか」
「はあ……馬鹿かお前は。戦闘で何も出来なくても囮には問題ない。それに──」
精一杯取り繕って下卑た笑みを浮かべながらヘルトは。
「──お前は中々見た目が良いしな。もし絶対絶命になった時は死ぬ前に色々と楽しんでやるよ」
彼女の弱点を刺激した。
「……! ふふっ、最低ね」
彼女もそんなヘルトの最低最悪な嘘を見抜いて笑う。
初めて見た彼女の笑顔は、美しくて、愛らしくて、そして──。
「……ああ、そうだろ?」
──胸が張り裂けそうなほどに悲しいものだった。




