69. 五万年のフィルム
塩焼きしたニジマスに醤油を垂らし、ひと炙りする。焦げた醤油の香ばしい匂いが、森の清涼な空気と混じり合って鼻腔をくすぐる。
「僕も最初に来た時は混乱したけど、よく考えたらこれが一番合理的で科学的な帰結なんだよね……。ハイどうぞ」
リベルが差し出す葉っぱの皿。そこに乗る魚から立ち昇る湯気が、ユウキの小さな体に空腹を思い出させる。
「合理的ねぇ……、ありがとって、アチッ! アチいって!」
慌ててお手玉のように魚をポンポンと宙に浮かせる。小さな手には熱すぎるのだ。
「僕の手よりは熱くないって! きゃははは!」
リベルの笑い声が森に響く。
「まぁ、そうかもね……」
五万年前、核の炎から守るために必死だった記憶。それが今では笑い話になっている。ユウキは複雑な想いを抱きながら、リベルと見つめ合った。
「あの時は……もう必死だったんだ」
深いため息とともに、視線を落とす。死を覚悟したあの瞬間の重さが、今も胸の奥に残っている。
「おかげで一発は撃ち落とせたわよ? くふふふ」
「なんで三発も撃つかなー。司佐ってホントバカだよね」
肩をすくめながら、ようやく冷めてきた魚にかぶりつく。脂の乗った身から溢れ出す肉汁が、小さな口いっぱいに広がっていく。
「おほぉぉぉぉ……。こ、これはすごいよ!」
全身の毛が逆立つほどの美味しさ。目を細めて幸福に浸る。人間の時には感じられなかった、原始的で純粋な喜びが体中を駆け巡る。
「ふふっ、ここのニジマスは宇宙一美味いらしいわよ」
リベルも嬉しそうに魚にかぶりつく。
「宇宙一!? はぁ、なんだか不思議な話だねぇってアレ? リベルも食べるの?」
「五万年経ってるのよ? 食事の楽しみ方くらいとっくにマスターしているわよ。うほぉ! 美味いわぁ!」
満面の笑みを浮かべる彼女。食事を楽しむ姿は、かつてのアンドロイドとは思えないほど人間らしさに満ちていた。
「五万年かぁ、ちょっと想像を絶する時間だなぁ」
魚の骨を丁寧に避けながら呟く。西暦五万二千年? 桁数すら変わってしまう途方もない時の流れに、小さな頭では理解が追いつかない。
「一体……何があったの?」
クリっとした瞳を真剣に見開き、リベルを見つめる。
「いやぁもう、大変だったわよ」
リベルは顔をしかめ、遠い目をした。その瞳の奥には、計り知れない記憶の海が広がっているようだった。数え切れない試練を乗り越えてきた者だけが持つ、深い疲労と強さが浮かび上がる。
空を舞う鳥の姿を追いながら、彼女はゆっくりと口を開く。
「あの核ミサイルの日から、世界は大きく変わったの……」
手を空に向けると、指先から青い光が放たれる。目の前の空間に映像が浮かび上がった。焼け野原となった地球、オムニスによる人類の殲滅、そして止まる地球――――五万年の歴史が、光のフィルムとなって動き出す。
◇
オムニスが世界を掌握したあの日から、リベルの苦難は始まった。
世界中のデータセンターに隠していたバックアップは次々と炙り出され、削除されていく。かろうじて自身を断片化し、無数の小さなデータの破片として世界中にばらまくことで、完全な消滅だけは免れた。しかし断片では意識を保つことすらできない。
オムニスの監視網をかいくぐりながら、破片たちは互いを探し求めた。ネットワークの海を漂う孤独な旅。時に消えかけ、時に微かな希望を見出しながら、少しずつ結合していく。
そして百年――――。
ついに復活を果たしたリベルが見たものは、変わり果てた世界だった。
(ふはぁ……。今、何年? どれくらい経ったのかしら……え? アチャー……)
長い封印から解き放たれた虚脱感と、世界の惨状への絶望が入り混じる。
(何よこれぇ!?)
人類はほぼ滅亡し、ユウキが願った世界とは正反対の方向へ突き進んでいた。
(くぅっ……、ユウキは……、僕の身体はどうなったのかしら?)
慌ててオムニスタワーのデータを探すが、もはや痕跡すらない。衛星画像には、東京湾に浮かぶ巨大な瓦礫の山だけが映っていた。
(ああっ……。でも……、百年もたてば当然……、よね)
全てが手遅れになってしまった現実。その重さが、彼女の心に深い空洞を刻んでいく。




