43. まだ見ぬ切り札
催涙ガスの白い靄が立ち込める廊下を、二人は駆け抜ける。有機的な壁面が、まるで生き物の内臓を通り抜けているような錯覚を与えた。
階段を駆け上がり、また駆け上がる。息が切れ、足が重くなっていく。それでも、ユウキは必死にリベルについていった。
そして、ついに――――。
屋上への重い扉を押し開けると、眩しい光が飛び込んでくる。
「ふぅ、やっとマスクから解放されるよ……」
ユウキは震える手で防毒マスクを外す。ゴムの締め付けから解放された顔に、涼しい風が吹き抜けた。
思わず深呼吸――――。
清浄な空気が、焼けつくような肺を優しく冷やしていく。見上げれば、抜けるような青空が広がっていた。白い雲が、ゆったりと流れている。
「さて、後は司佐を待つばかりね!」
リベルの声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。獲物を追い詰めた猟犬のような、原始的な喜び。勝利を確信したようにくるくると宙を舞った。
「本当に出て来るのかなぁ……?」
ユウキの声には、期待と不安が入り混じる。ここまで来て、もし司佐が現れなかったら――――。
「くふふふ、出てくるって」
リベルは自信満々に断言する。
「レジスタンスに侵入されて、ガスまで撒かれているのよ? 空調も切れないようにしたから、逃げるに決まってるわ」
碧眼が、計算し尽くされた罠の完成を喜ぶように輝く。まるで、詰将棋の最後の一手を指す瞬間のような、冷徹な確信があった。
「そうだけど……ここに来るかなぁ……?」
「出口は四か所あるけど、司佐の性格を考えると空からの脱出を選ぶ確率が八十三%」
リベルは指を立てながら、得意げに分析結果を披露する。
「権力者は高いところが好きなの。追い詰められた時こそ、空に逃げたがる。もうここに決まってるわ!」
その言葉には、人間心理を冷徹に分析した末の結論が込められていた。
「いよいよ本体とご対面……か……」
ユウキは震える手を胸に当てる。心臓が、早鐘のように打っていた。
「ドキドキしてきた……」
オムニスの管理者権限を明け渡してもらう。それは、人類の自由を取り戻すための最後のピース。だが、司佐にとっては全てを失うことを意味する。
血を流さずに済むだろうか。本当に、話し合いで解決できるのだろうか。不安が、黒い影のように心を覆っていく。
見上げれば、気持ちのいい潮風に乗って、白い雲がゆったりと流れている。カモメが、遠くで鳴いていた。
平和な午後の風景――――。
だが、このオムニスタワーの屋上では、人類の運命を決する対決が、今まさに始まろうとしていた。
風が、不意に強くなる。
リベルの青い髪が、激しくなびいた。まるで、嵐の前触れのように。
「来るわ」
リベルの声が、静かに響く。
獲物の気配を察知した肉食獣のように、全身から戦闘態勢のオーラが立ち上る。優雅だった動きが、一瞬にして研ぎ澄まされた刃のように鋭くなった。
ユウキも息を呑む。
運命の瞬間が、すぐそこまで迫っていた。
風が止み、時間さえも凍りついたかのような静寂の中、物陰に身を潜め、二人は息を殺して出入り口を見つめる――――。
やがて、甲高い機械音と共に、銀色に輝くドローンヘリが飛来した。六基のプロペラが唸りを上げ、無人のままヘリポートへと優雅に着陸する。まぎれもなく、司佐の逃亡手段だった。
「ほぅら来たわ、くふふふ……。そろそろよっ!」
リベルの碧眼がキラリと輝いた。獲物を追い詰めた猟犬のような、嗜虐的な笑みが唇に浮かぶ。
「ホ、ホントだ……」
ユウキの声は緊張で震えていた。
バン!
突如、鉄扉が乱暴に開け放たれ、肥満した中年男が転がり出てきた。充血した目から涙を流し、ゲホゲホと咳き込みながら、よろめく足取りでヘリへと向かう。その後ろからは、漆黒の装甲に覆われたガーディアンロボットが二機、重々しい足音を響かせながら続いた。
世界を支配した男も、催涙ガスには勝てなかったらしい。
「ビンゴォ!」「来たっ!!」
ユウキの叫びが終わらぬうちに、リベルは青い閃光となって飛び出した。
「不審者ハッケン!」「不審者ハッケン!」
ガーディアンロボットの反応は機械的に正確だった。自動小銃が火を吹き、無数の弾丸が潮風を切り裂いていく。激しい銃声が屋上に木霊した。
しかしリベルは避けようともしない。銃弾が彼女の身体を貫くたび、青い光が走り、ナノマシンが瞬時に傷を修復していく。まるで水面に石を投げ込んだように、弾痕は次々と消えていった。
「きゃははは! お馬鹿さん!!」
ハチの巣になりながらも、リベルは両手を青く輝く刃に変形させた。それは空気さえも切り裂くような鋭さで、一閃――
ガーディアンたちの動きが止まった。キュルキュルと奇妙な音を立て、やがて真っ二つになって崩れ落ちる。断面から火花が散り、最期の電子音が虚しく響いた。
ひぃっ!
司佐は恐怖に顔を歪め、肥満した身体を必死に動かそうとしたが、時すでに遅し。
「どこへ行こうというの? くふふふ……」
リベルのジャケットがニュィィンと伸び、生き物のようにうねりながら司佐の身体に巻きついていく。青く輝くナノマシンの拘束具は、獲物を逃さぬ蛇のように締め上げた。
ぐはぁ!
足まで縛られた司佐は、無様に転がった。スマートフォンがカランと音を立てて屋上を滑る。
「チェックメイト! きゃははは!」
リベルの碧眼が勝利の輝きを放った。ついに、黒幕を捕らえたのだ。
うっほぅ!!
ユウキは歓喜の雄叫びを上げ、何度もガッツポーズを繰り返しながら駆け寄った。
「リベルぅ! やった! やった!」
興奮冷めやらぬ二人は、満面の笑みでハイタッチを交わす。AIと人間――異なる知性が力を合わせ、悪しき支配者に勝った瞬間だった。
YEAH! イェーイ!
ユウキは青空に向かって拳を突き上げる。雲間から差し込む光が、希望に満ちた未来を照らしているかのようだった。
やったぁぁぁ!
だが――――。
「何だお前ら。この程度で勝ったつもりか?」
床に転がる司佐の口元に、不気味な笑みが浮かんだ。それは敗者の諦めではなく、まだ見ぬ切り札への絶対的な自信だった。その表情が告げていた――本当の恐怖は、これから始まるのだと。




