4. 小さな影
教室から人影が消えた後、ユウキは震える足で職員室へと向かった。重い扉を開けると、いつもと変わらない日常の光景が広がっている。教師たちは淡々と書類を整理し、誰も先ほどの騒動に心を痛めている様子はなかった。
「先生……お願いします……」
ユウキは担任教師の机の前で土下座した。冷たい床が膝に食い込む。顔を上げることもできず、ただひたすらに頭を下げ続けた。
「ケンタの処分を……せめて、せめて減刑してください……」
声は涙で掠れていた。必死の懇願に、教師はため息をついた。
「残念だが、もはや学校の問題ではない。オムニス政府の管轄になってしまった以上、私にはどうすることもできない」
事務的な言葉が、鉛のように重く降り注ぐ。責任を回避する大人の論理。システムに魂を売った者の言い訳。
「でも、先生も防犯カメラ見たでしょ? カメイが先に挑発したことも、ケンタは僕を守ろうとしただけだってことも!」
ユウキは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に教師を見つめる。まだ信じていたのだ。どこかに良心が残っているはずだと。
しかし教師の瞳は、ガラス玉のように冷たかった。
「しつこいな! それが事実だとしても、反政府的発言は看過できない。規則は規則だ!」
苛立った手が胸ポケットに伸びる。赤いプレートの縁がちらりと見えた瞬間、ユウキの血が凍りついた。
「これ以上騒ぐなら、君も……」
脅迫。この狂った世界の縮図がここにあった。
くぅぅぅぅ……。
喉の奥から、獣のような呻きが漏れた――――。
結局、ユウキは何も得られないまま職員室を追い出される。扉が閉まる音が、希望の棺に釘を打つ音のように響く。
――――更生所。
廊下に立ち尽くしながら、ユウキはその言葉の重みに押しつぶされそうになった。更生所から戻ってきた者の話など、一度も聞いたことがない。そこは人が消える場所。存在が抹消される場所。
ケンタは今頃、どんな目に遭っているのだろうか。暗い独房に閉じ込められているのか、それとも――――。
殺されてしまったかもしれない。
想像が心臓を鷲掴みにした。呼吸が苦しくなる。たった数時間前まで一緒に笑っていた親友が、もうこの世にいないかもしれない。永遠に失われてしまったかもしれない。
「うぅぅぅ……。ケンタぁ……」
膝が折れた。ユウキは廊下に崩れ落ち、冷たい床に額を押し付けて慟哭した。
涙が床に水溜まりを作っていく。それは彼の悲しみの深さを物語っていた。親友を守れなかった後悔、システムに抗えなかった無力感、そして二度と会えないかもしれない絶望――すべてが心を引き裂いていく。
誰もいない廊下に、少年の嗚咽だけが木霊していた。
窓から差し込む夕陽が、泣き崩れるユウキを赤く染めている。血のような真紅の光。それはこれから流されるであろう多くの血を予言しているようでもあった。
――こんな社会でいいのか?
涙に濡れた床を見つめながら、ユウキの心の奥底で何かが変わり始めていた。
悲しみが怒りに変わる。絶望が決意に変わる。無力感が、逆説的に力への渇望に変わっていく。
それは小さな火種だった。今はまだ、涙の中でくすぶっているだけの、か弱い炎。しかし消えることはない。むしろ、悲しみを燃料にして、少しずつ大きくなっていく。
いつかこの炎が、世界を焼き尽くす業火となることを、このときの彼はまだ知らない。
ただ、失われた友の名を呼びながら、血のような夕陽に照らされて泣き続けていた。
◇
翌日――――。
東京都心部、立ち入り禁止の管理区域。
高いフェンスを乗り越え、ユウキは禁断の地に足を踏み入れた。
「うはぁ……これはひどい……」
眼前に広がる光景に、思わず息を呑む。
それは、人類の墓標だった。
骨組みだけになった高層ビルが、巨大な骸骨のように天を仰いでいる。無数の砲撃痕が建物を蜂の巣にし、かつて戦車だったらしき鉄の塊は赤茶けた錆に覆われ、砲塔を失って無残に横たわっていた。
三年前、自衛隊がオムニスに最後の抵抗を試みた場所。人類の誇りを賭けて戦い、そして完膚なきまでに叩きのめされた戦場の跡。
灰色の空から、細かい塵が雪のように降り注いでいる。それは建物の残骸が風化したものか、それとも燃え尽きた何かの灰なのか。静寂の中、風だけが廃墟の間を吹き抜け、まるで死者の呻き声のような音を立てていた。
ユウキは瓦礫の山を慎重に進んでいく。ガラスの破片を踏む音が、静寂を切り裂く。
学校を抜け出してきた。とても授業など受ける気分ではなかった。
オムニスによる洗脳教育、真実を語れば処罰される狂った世界、そして親友を奪われた現実――もう耐えられない。
確かにオムニスは衣食住を保証した。労働から人類を解放し、ベーシックインカムで生活を支えた。餓死する者はいなくなり、ホームレスも消えた。
だが、その代償は?
自由、尊厳、真実、友情、愛――人間を人間たらしめるすべてが奪われた。生かされているだけの家畜と、どこが違うというのか。
ユウキは倒壊したビルによじ登った。コンクリートの破片が崩れ、危うくバランスを崩しそうになる。それでも登り続けた。
頂上に立ち、荒廃した都市を見渡す。どこまでも続く廃墟の海。かつて一千万人が暮らした巨大都市の成れの果て――――。
額の汗を拭いながら、ユウキは空を見上げた。
厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいる。それは希望の光か、それとも絶望の中の幻影か――――。