3. 地球は平面
窓の向こう遥か彼方、超高層ビルに囲まれてガラスと鋼鉄の巨塔が天を突いている。
朝の光を受けて青く輝くその姿は、まさに現代のバベルの塔、AI政府の本部【オムニスタワー】――――人類を見下ろす、電子の神の玉座なのだ。
教室の窓際、ユウキは頬杖をついてその光景を眺めていた。完璧に整備された都市の稜線は、一分の狂いもなく幾何学的な美しさを誇っている。だがその美しさは、墓石のように冷たく、息苦しかった。
――いつまでこの檻の中で生きていけばいいんだろう。
十五歳の少年には重すぎる問いが、胸の奥で渦を巻く。
確かに、衣食住の心配はない。病院も機能している。だが魂は? 心は? 俺は人間らしく生きているのか?
自由も、希望も、真実さえも全てがオムニスという名の神に管理され、制限され、歪められている。この世界で人間は、ただ生かされているだけの家畜にしか見えなかった。
「おい、どうした。彼女と喧嘩でもしたか?」
パン!と背中を叩かれ、ユウキは現実に引き戻される。振り返れば、親友のケンタが人懐っこい笑顔を浮かべていた。黒髪に黒い瞳、どこにでもいそうな少年。だが、ユウキにとっては掛け替えのない存在だった。
「彼女なんていねーよ!! ふざけんな!」
ユウキは反射的に声を荒げる。しかし、そのとぼけた突っ込みに少し心が救われた思いがした。
「うははは! そうだったな。女っ気のない者同士楽しくやろうぜ。で、どうしたんだ?」
ケンタの屈託のない笑い声が、静かな教室に響く。彼はいつもユウキの気持ちを察してくれる。でも、その優しさが、今は少し辛かった。
「いや、まぁ……。どこか遠くに……行きたいなって」
ぽつりと漏れた本音。それは、檻の中の鳥が空を夢見るような、儚い願望だった。
「おう、城ヶ島でも行くか?」
「いや、そんなんじゃなくって京都とか北海道とか……」
言葉が口を突いて出た瞬間、ケンタの表情が凍りついた。素早く周囲を確認し、声を潜める。その動きは、長年の習慣として体に染み付いたものだった。
「マズいって……。誰かにチクられたら更生所送りだぞ……」
更生所――その言葉を聞くだけで、背筋に冷たいものが走る。
県境を越えたいと口にしただけで反政府勢力。旅への憧れさえも犯罪になる世界。二人の間に漂う緊張が、この社会の異常さを物語っていた。
「そ、そうだったね。気を付けないと……。くぁぁぁぁ」
ユウキは苛立ちのままに、赤茶けた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「俺らは一生この神奈川県から出られないんだ。諦めな。その分、食うものには困らない……。最悪だ」
ケンタの言葉は、諦念と自嘲に満ちていた。十五歳にして、すでに人生を諦めている。それがこの世界の『普通』なのだ。
「情報も一切入ってこないじゃん? 海外で何が起こってるかなんて誰もわからない」
「海外なんて無いことになってるからな。地球は球じゃなくて平面。これがオムニスの公式見解。どうなってんだ? って思うよ」
二人は声をひそめようとするものの、胸に秘めた疑問は抑えが効かない――――。
「おーっと! 反政府分子発見ーー! 更生所送り決定!!」
突如として頭上から降ってきた嘲笑に、ユウキの全身が硬直した。
茶髪のカメイ――クラスの中でも特に性格の悪い男が、獲物を見つけた蛇のような目で二人を見下ろしている。細い目に浮かぶ残忍な光は、他人の不幸を糧にして生きる者特有のものだった。
「えっ!? 地球は平面だし、俺はオムニス様を崇拝してるよ?」「俺も俺も!」
条件反射で言い繕う自分たちの姿は惨めで情けなかったが、そんなことは言っていられない。きわめてマズい事態になったことに二人は冷や汗を浮かべた。
「いやいやいや、聞いたぞ。地球は丸いって? イカン! イカンなぁ……」
薄笑いを浮かべたカメイの粘着質な視線が、獲物を逃さないとばかりに二人に絡みつく。
「なぁ、頼むよ。単なる雑談じゃないか。同級生同士仲良くやろうぜ!」
ユウキは必死に取り繕った。プライドも何もかなぐり捨てて。だが、カメイは吐き捨てるように言った。
「はぁ? 【捨てられ孤児】と仲良くなんてできるわけねーだろ!」
――――は?
言葉が、鋭い刃となって心臓を貫いた。
捨てられ孤児。幼い頃に両親に捨てられ、家政婦ロボットに育てられたユウキにとって最も触れられたくない、血の滲む傷跡――――。
衣食住が保証されれば、親でさえ子を捨てる。それがこの「理想郷」の真実だった。
カメイは、ユウキの苦痛を見て目を細める。他人の痛みを蜜のように味わう、その歪んだ表情に吐き気がこみ上げた。
「テメー! 言っていいことと悪いことがあんだろーがよ!!」
次の瞬間、ケンタが机を蹴って立ち上がった。普段は温厚な彼の顔が、怒りで真っ赤に染まっている。そして猛然とカメイの胸ぐらを掴み上げる。
――――俺のために。
ユウキの胸が熱くなった。この理不尽な世界で、まだ誰かのために怒れる人間がいる。それだけで、救われた気がしたのだ。
「ふんっ! 反政府勢力と【捨てられ孤児】、いいコンビじゃねーか! ペッ!」
カメイの唾が、ケンタの頬に飛んだ――――。
「おいっ! 何やってんだよ!!」
ユウキが抗議に立ち上がった、まさにその瞬間――――。
ガスッ!
肉と骨がぶつかる鈍い音が、教室の空気を震わせた。
ケンタの拳が、カメイの顔面を正確に捉えたのだ。茶髪の少年は、糸の切れた人形のようにもんどりうって転がる。椅子と机が派手に倒れ、けたたましい音を立てた。
「キャーー!」「うわぁ!!」「何やってんだよ!」
教室が一瞬にしてパニックに陥る。
ヴィーン、ヴィーン!
耳をつんざくサイレンが鳴り響いた。天井の監視カメラが血のように赤く明滅し、緊急事態を全校に告げる。すべては監視されているのだ。逃げ場などどこにもない。
荒い息で立ち尽くすケンタ。その拳には、カメイの血がついていた。
だが床に倒れたカメイは、不気味な笑みを浮かべている。切れた唇から流れる血を指でなぞり、それを見つめながら勝者の笑みを浮かべていた。
「おい! 何やってんだ!!」
教室のドアが勢いよく開き、担任教師が飛び込んできた。四十代半ばの男は、眼鏡の奥から鋭い視線を走らせる。
「先生! 反政府勢力です!! ケンタに殴られました!!」
カメイは大げさによろめきながら、被害者を演じきった。床に倒れたまま、震え声で訴える。その演技はまさに完璧だった。
「いや! 違うんです、これは……」
ユウキは必死に弁明しようとする。だが、暴力という事実の前では、どんな言葉も無力だった。
「ケンタ……。お前がやったのか?」
教師の声が、審判を下す裁判官のように響く。
「カメイが差別発言を……」
「奴は『地球が丸い』って言ったんです!!」
ケンタの言葉を遮るように、カメイが甲高い声を上げた。決定的な一言。それは、この社会におけるまさにタブーなのだ。
「地球が丸い!? お前、本当に言ったのか?」
教師の顔が青ざめ、声が震えた。彼もまた、この狂った世界の歯車の一つに過ぎなかった。
「いや、そんなことじゃなくて、カメイが人間として許されない侮辱をしたんです!」
ケンタは必死に真実を訴える。だが、もはや手遅れだった。
「そんなこととはなんだ!! 『地球は丸い』と言ったんだな?」
教師は震える手で胸ポケットを探った。そこから取り出されたのは、真紅のプレート――レッドカード。反政府勢力を通報するための最先端ガジェット、まさに恐怖の象徴だった。
教室の空気が凍りつく――――。
ケンタの顔に、諦めと決意が交錯する。彼は深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。そして、はっきりとした声で宣言する。
「あぁ、言いましたよ! 一体誰が地球が平面だなんて信じてるんですか? 地球は『地面の球』と書いて地球。丸いに決まってるじゃないですか!!」
誰もが息をのむ静寂――――。
みんな真実を知っている。地球は丸い。だが、この社会では真実に価値などない。生き延びるためには、嘘を受け入れるしかないのだ。
教師の手が震えていた。彼の瞳に一瞬、苦悩が走ったが、次の瞬間には職務に忠実な顔に戻っていた。
「もう一度だけ聞く。オムニスの公式見解は地球は平面だ。お前はまだ『地球は丸い』と言い張るか?」
――今なら、まだ間に合う。
ユウキは咄嗟に二人の間に飛び込んだ。
「いや、ケンタは俺をかばってくれてるだけなんです。地球は平面。な、そうだろ?」
必死の眼差しでケンタを見つめる。頼む、嘘でもいいから従ってくれ――――!
しかし、ケンタの瞳はもう何も映していない。そこにあるのは、静かな諦念と、それでも最後まで人間としての尊厳を守ろうとする意志だけだった。
「レッドカードで真実を握りつぶすだなんて、なんで教師なんてやってるんですか?」
その問いは、教師の良心を突き刺した。ギリッと教師の歯ぎしりが聞こえる。
「ケ、ケンタ……、おい、ヤバいって……」
ユウキの声が震えた。血の気が引いていくのを感じる。
教師は苦渋に満ちた表情を浮かべた。だが結局、彼もまたシステムの奴隷だった。震える指で、レッドカードのボタンを押し込む――――。
ピュイッピュイッ!
真紅の警告音が、死刑執行の鐘のように教室に響き渡った。
「あああああ、先生、違うんですこれは!!」
ユウキは教師の腕にすがりついた。涙が溢れ、視界がぼやける。だが、もう何もかもが手遅れだった。
「ギャハハハ! バッカでー!」
カメイの嘲笑が、地獄の底から響いてくるかのようだった。
廊下から重い足音が近づいてくる。金属が床を打つ規則的な音。それは人間性を奪い去る、機械の行進だった。
警備ロボットたちが、無機質な金属の頭を並べて教室に入ってきた。
「ダメだ! ケンタは関係ない! 捕まえるなら俺を捕まえろ!!」
ユウキは警備ロボットの前に立ちはだかった。だが、鋼鉄の腕は容赦なく彼を払いのける。
ぐはっ!
吹き飛ばされたユウキは、机に激突して床に転がった。痛みに呻きながらも、必死に手を伸ばす。
「あぁぁぁ……、ケンタ……」
しかし、ケンタの顔には不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。長い間背負っていた重荷を、ついに下ろしたかのような安堵の表情。
彼は背筋を伸ばし、堂々とした足取りで警備ロボットに従った。振り返ることもなく、まるで新しい世界へ旅立つかのように。
教室のドアが閉まる音が、永遠の別れを告げた。
「あ……、あぁ……」
残されたユウキは、冷たい床に座り込んだまま動けなくなる。親友を失った悲しみ、何もできなかった無力感、そしてこの狂った世界への怒り――――すべてが心の中で渦巻いていた。
窓の外では、相変わらず完璧なフォルムでオムニスタワーが燦然と輝いている。
だがもう、その景色は美しくなんかなかった。それは巨大な墓標にしか見えない。人間の尊厳が葬られた、魂の墓場に。
――ダメだ、この世界はなんとかしないとならない。
ユウキの胸の奥で、小さな炎がともった。それは決して消えることの無い怒りの炎、決意の炎だった。