第09話 初恋幼馴染は“負けヒロイン”
「私のこと、メチャクチャにしてよ……?」
「…………は?」
風呂に向かうため部屋を出ようとしていた涼太は、思わず言葉を失って振り返った。
姫奈は相変わらず右腕で顔を隠したままベッドの上で仰向けになっている。
外で降りしきっているはずの雨音はこの部屋の中から完全に掻き消され、涼太と姫奈を耳が痛くなるほどの静寂が包み込んだ。
「メチャクチャ……って、ヒメ……何言って……?」
「……わかんない?」
姫奈がゆっくりと上体を起こす。
「わかんないワケないよね。子供じゃないんだから……」
「…………」
姫奈が顔だけを振り向かせてくる。
生気がなく、無機質ながら、冗談を言っているようには見えないその表情に、涼太は咄嗟に視線を斜め下に逃がした。
姫奈は完全に自暴自棄になっている。
すべてがどうでもよくなって、今はとにかく失恋の痛みを上書きするために、手段を選ばなくなってしまっている。
(そりゃ、わかるよ……意味くらいは分かるけどさ……!?)
ドキドキしているような場合ではない。
しかし、それを承知でもなお、状況はどうあれ、やはり密かに好意を寄せる相手からそんなことを言われて冷静でいられるわけもない。
涼太が騒ぎ立つ心臓を必死に落ち着かせようとしている間に、姫奈がベッドから降りる。
ペタ……ペタ……ペタ……と部屋のフローリングをゆっくりと素足で踏みながら、気付けば姫奈は涼太のすぐ目の前まで来ていた。
「っ、ヒメ……!?」
ジッ、と姫奈が垂れ気味な榛色の瞳で見上げてくる。
普段ハーフアップにされているセミロングの髪はすべて下ろされており、風呂上りということもあってその胡桃色の艶が際立っている。
パーカーの襟元からはチラリと鎖骨が見えるし、涼太がこのパーカーを着ているときにはない膨らみが、胸に出来ている。
「……目、やらしいね」
「元々こういう目なんだよ……!」
「そう? てっきり私は――」
姫奈が片手をパーカーに滑らせるようにして胸から鳩尾、腹、下腹部、そして脚の付け根辺りまで下ろして、囁くように呟いた。
「履いてるかどうか、気になってるのかと思ってた」
「……っ!?」
確かに涼太が用意した着替えはパーカーとジャージのズボンのみ。
あれだけ雨に降られていれば下着も濡れているはず。
そして、濡れた下着を着用するかどうかは疑問だ。
だから、もしかすると今、姫奈のそのパーカーの裾で隠れているところは――――
「……確かめてみれば?」
「じょ、冗談キツイって……」
正面から姫奈と見詰め合ったらどうにかなってしまいそうだと、自分の理性の危機を感じた涼太は、苦笑いを浮かべて顔を背ける。
「冗談じゃないよ」
どこまでも淡々とした口調で、姫奈が言ってくる。
もしここで涼太の理性が決壊し、姫奈の言う通りに手を出してしまえば、もう幼馴染三人の関係性は完全に崩壊する。
今の姫奈には何かに依存しようとする危うさがある。
ここで手を出すことで涼太がその対象になれば、恋愛関係とは程遠い歪んだ共依存が誕生し、どんな形であれ強い結び付きを得た二人のもとに、蓮が戻ってくることもなくなる。
(そんなことになってたまるかっ……!)
涼太は心の中でそう叫ぶ。
しかし、本能と理性がせめぎ合っているのもまた事実。
本能に従うか理性に従うか……その狭間で揺れ動かずにはいられない涼太にトドメを刺すように、姫奈がピタリと身体を寄せてきた。
髪からふわりと香る姫奈の良い匂い。
パーカー越しに伝わる大きすぎず小さすぎない双丘の弾力。
触れ合ったすべての箇所からじわりと伝わってくる体温。
それらがまとめて涼太の理性を殺しに掛かった。
だが――――
「私、別にリョウ君なら良いよ……」
その一言に、涼太の目は完全に覚めた。
あれだけ高鳴っていた鼓動が収まり、熱くなっていた顔が冷め、騒めいていた心が凪ぐ。
(リョウ君なら、か……はは……)
涼太の顔に呆れ笑いが浮かぶ。
「ふざけんな」
「あっ……」
怒鳴りはしないが、強い意志を込めた声と共に、涼太が姫奈の両肩を掴んで引き剥がす。
「ちょっとモテるからって調子乗んな。何が『俺なら良い』だ。どんだけ上から目線なんだよ。『俺が良い』ってその口が言うまで、絶対に手なんか出してやらないからな」
そんな涼太の言葉に、姫奈は目を丸くする。
呆然とした表情のまま、その薄桜色の唇が震えながら動いた。
「なん、で……?」
姫奈の眉間が寄せられる。
「なんで? ねぇ、なんで?」
徐々に声量は増し、今度は姫奈が力強く涼太の両肩を掴んだ。
「なんでっ!? リョウ君なんでっ!?」
「……ヒメ」
「良いじゃんメチャクチャにしてよっ! 簡単でしょ!? 好きにしていいんだよ? やりたいようにヤッて良いんだよっ!?」
「ヒメ」
「お願いだから抱いてよっ! もう何も考えられないくらいメチャクチャにしてよ! 全部全部忘れさせて! こんなことリョウ君にしか頼めないよっ!!」
「ヒメっ!!」
「――ッ!?」
自分の肩に乗せられた姫奈の両手を掴んで下ろさせ、たまらず声を張った。
姫奈は薄く涙を湛え、悲痛に満ちた瞳を涼太に向けている。
「何で? やっぱり、私に魅力ないから? 幼馴染は異性として見れないから……?」
瞳の中にはやはり悲痛が満ちている。
しかし、同じくらい不安でいっぱいだった。
涼太はそんな姫奈の両手をギュッと握りながら、力なく笑って言う。
「アホか。お前が魅力的じゃなかったらこの世の九十九パーセントの女性は魅力的じゃないことになるぞ。悪いことは言わないから、そんな悲しい世界にしないでくれ」
続けて涼太は、少しでも姫奈の思い込みを正すことが出来るならと、一握りの覚悟を持って口にする。
「それにな、ヒメ。幼馴染は異性として見れないなんてことあってたまるか。少なくとも俺は……ヒメのことを女子として見てる。昔から、音瀬姫奈のことが好きだった。恋愛的に」
「っ、りょ……リョウ君……!?」
だからっ! と涼太は驚く姫奈に構わず言い放つ。
「全部アイツが――蓮が悪いっ! 何が幼馴染だから、だ。何がこのままの関係性が良い、だ。ふざけんな!」
ここにはいない。
ここに蓮はいないが、それでも涼太は直接蓮に言ってるような気持ちで思いをぶつける。
「お前がヒメの可愛さに気付けなかっただけだろっ! それをさも真っ当な理由をつけたかのような口振りで言いやがって……自分の見る目のなさをヒメのせいにしてんじゃねぇ!!」
「……っ、うぅっ……!」
ああ、そうだ。
全部蓮のせいだ。
蓮は周りをよく見ている。
気が利くし、優しいし、何でも出来る。
だが、そこに一つ付け加えなければならない。
「傲慢なんだよお前はっ! 俺の協力もヒメの努力も全部わかってますみたいな顔しても、ぜんっぜんわかってねぇ! わかれてねぇ! わかられてたまるか! ヒメの抱えてた想いも、それを口にした勇気も、今こうして感じてる痛みだって全部ヒメのもんだっ! お前に簡単にわかられるほど、ちゃちなモノじゃない」
蓮に言いたいことを吐き出し終え、涼太が改めて姫奈に目を向けると、その大きな瞳からは止まることを知らない大粒の涙が次から次へと溢れ出していた。
「だからな、ヒメ」
「うっ……うぅっ……!」
「そのちゃちじゃないモノと、今はしっかり向き合ってやれよ」
「っ……あぁ……う、うぁっ……!!」
涼太は嗚咽を漏らす姫奈の頭にポン、と優しく手を乗せた。
「全部ヒメだけのモノだ。それは蓮にだって俺にだって肩代わりできないから……ゆっくりでいい。ヒメが自分で向き合って、感じて、受け入れてやれ」
「うっ……うあぁぁあああああああああああっ!!」
堰を切ったように泣き出した姫奈。
想いの数だけ涙が零れ、想いの大きさだけ声が出る。
涼太の胸倉をギュッと握ってシワを作り、そこに顔を埋めて号泣する。
叶わなかったその想いの痛みを、涼太はやはり肩代わりしてやることは出来ない。
でも、傍で支えることくらいは出来る。
姫奈が泣き疲れるまでの間、涼太は自分の胸を濡らし続けた――――




