第62話 初恋幼馴染の独白
涼太は自室のタンスから適当に引っ張り出した半袖Tシャツと短パンを持って、再び洗面所の扉の前に立った。
万一にも、洗面所の扉を開けてあられもない姿の姫奈と出くわす、などというお約束展開がないように、細心の注意を払ってスライド式の扉を開ける。
ガラガラガラ――――
「……ふぅ」
懸念していたことが起きなくて一安心だが、同時に浴室の扉の向こうから聞こえてくるシャワーの音が、少なからず胸の奥を騒がしくさせる。
それでも余計なことは考えまいと、雑念を払うように頭を左右に振ってから口を開いた。
「着替え、ここ置いとくぞ~」
浴室でシャワーを浴びている姫奈の耳にきちんと届くよう、薄い扉一枚越しにしてはやや張った声でそう伝えると、
「ありがと、リョウ君」
浴室内で反響してくぐもった姫奈の声がすぐに返って来た。
それを確認してから、涼太は無視出来ない居たたまれなさから早足で洗面所を出て、後ろ手に扉を閉めて自室へ戻る。
バタン…………
「ふぅ……」
部屋に入って扉を閉める涼太。
この短い間に、二度目となる安堵のため息を溢す。
「ホント無防備なんだよな、ヒメ……わざとやってんのか無自覚なのか……」
三度口から漏れ出たため息は、安堵ではなくほとんど呆れから来るものだった。
ベッドに腰を下ろす涼太。
体育祭では全員参加の綱引きと大縄跳びだけでなく、蓮の代走としてクラス対抗リレーにも出走し、想像以上に疲労が溜まってしまった。
こうして一息ついたタイミングで疲れがドッと伸し掛かり、訪れた睡魔が目蓋を重くする。
「ヒメ、風呂長いんだよなぁ……」
どうせ三十分――いや、気分によっては一時間近くは出てこないだろう。
「ふわぁ……それまで、寝るかぁ……」
大きな欠伸をしてから、涼太は力なくベッドに倒れ込むようにして横になった。
目蓋を閉じれば、睡魔が意識をみるみるうちに深いところへと引っ張り込んでくる。
完全に意識が沈み切るまで、そう長い時間は掛からなかった――――
◇◆◇
ガチャ――――
「リョウ君着替えありが、と……?」
湯上りの姫奈が、オーバーサイズな白Tシャツとショートパンツ姿で涼太の部屋の扉を開けた。
完全に下ろされた胡桃色の髪は、しっかりとドライヤーで乾かされながらも、いつにも増して瑞々しい艶を帯びており、雪のように白い肌は血色良く仄かに色付いている。
「もぅ、お風呂出たらちゃんと話すって言ったのに……」
ベッドに横たわって気持ち良さそうに寝息を立てている涼太を、姫奈はジト目で睨む。
すぐ傍まで近付いてみても、起きる気配がない。
姫奈は基本自分の入浴時間が長いことは自覚している。
だから、その間寝て待っていようという涼太の考えは、聞くまでもなく察せられた。
「シャワーだけだから、そんなに時間掛からないんですけどぉ」
実際、姫奈は十分程度で浴室を出た。
そのあとに身体を拭いたり、長い髪を乾かしたり――と、支度する時間を加味しても二十分くらい。
「でもまぁ……リョウ君、今日凄く頑張ってたもんね」
涼太が寝息を立てるベッドの端に腰掛けて、姫奈はくすりと笑いながらその頭に手を伸ばす。
そろそろ美容院予約する頃合いかなという黒髪は男子にしてはサラサラだが、やはり自分のものと比べると硬く、指先に絡む不慣れな感触が妙に可笑しく思えた。
また、目覚まし係としてとっくに見慣れたはずの寝顔だが、こうして改めて間近で見てみると、妙に無垢で幼げに感じる。
「……ふっ、何かちょっと可愛いかも」
立てた人差し指で頬を突いてみるが、眠りが深いのか眉一つピクリとも動かさない。
「リョウ君起きて~」
「……すぅ…………」
「くくくっ……」
起こすつもりなんてさらさらない囁きを掛けては、その無反応具合に笑いを堪える姫奈。
「大切なお話しますよぉ~」
「……んぅ……すぅ…………」
姫奈は涼太へ視線を落とし続ける。
一向に起きる気配のない涼太の顔を見詰め、自分の胸の奥でトクトクと刻まれるリズムが早まるのを確かめる。
「ふぅ……」
いつもより体温が高い気がするのは、シャワーを浴びて血行が促進されたお陰か。
そうでないことを、姫奈自身が一番よくわかっていた。
壁に掛けられたアナログ時計の秒針と、涼太の寝息と、自分の鼓動だけが聞こえる世界で、姫奈は心の内側へと目を向ける。
……。
…………。
……………。
いつからか、リョウ君のことを考える時間が日に日に増えていっていた――――
始まりは、そう――やっぱり失恋を経験した日。そして、翌日からだ。
リョウ君の好意を初めて知った。
私のことを好いていてくれながら、その気持ちを押し込めてまで私の恋を応援してくれていたことを知った。
傷心中の私に、心から寄り添ってくれた。
それこそ、やろうと思えば弱り身に付け込むことだって出来たはずなのに、私が前を向いて進んでいけるように支えてくれた。
そんなリョウ君の気持ちに向き合いたいっていう想いを、クリスマスイブの夜、煌めくイルミネーションの彩りの中で伝えた。
更に、リョウ君のことを考えるようになった――――
初詣で引いた大吉のおみくじに書かれていた内容で真っ先にリョウ君のことを思い浮かべてしまって、恥ずかしくなった。
バレンタインにはリョウ君に『来年は本命にさせてください』っていう気持ちを込めて本命候補の手作りクッキーをあげて、誕生日でもあるその日にアロマキャンドルをプレゼントされて…………
試しに灯してみたそのキャンドルの淡い光の中で、初めてのキスをした。
あのときの部屋の香りを。
リョウ君の唇の形を、弾力を、熱さを――今でも何一つ欠かすことなく、鮮明に記憶している。
ホワイトデーには一緒にマカロンを作って、リョウ君から初キスのお返しもしてもらった。
新学期になって、リョウ君とやたら距離感の近い後輩――彩香ちゃんがやってきて、私ははっきりと嫉妬という感情を抱いた。
誤魔化しようのない、リョウ君を誰にも取られたくないという気持ちの現れに他ならなかった。
そして、そんな彩香ちゃんにリョウ君を狙ってると宣言され、いつまでもリョウ君の一方的な好意に甘えてちゃダメだと気付かされた。
確かにリョウ君は私を好いてくれている。
その気持ちがそう簡単に変わるとも思わない。
でも、いつまでも続く確証はどこにもない。
このまま結論を先延ばしにして、リョウ君が他の誰かに取られてしまったら――と、考えるだけで怖くなる。
リョウ君には私を見ていて欲しい。
私だけを見ていてもらいたい。
もしかすると私、自分が思っている以上に独占欲が強いのかもしれない。
だって、嫌だから。
リョウ君が私の知らない表情を他の誰かに向けているのを見るのも、その手が私以外の誰かに触れるのも、その瞳が私以外を追うのも――嫌。
だから――――
……………。
…………。
……。
「あぁ~あ~」
もう観念するしかないな、と姫奈は諦めたように笑った。
指先で涼太の顔に掛かる髪の毛を避ける。
いつもどんなときでもすぐ隣にいてくれたその人に、微熱を帯びた榛色の瞳を注ぐ。
「馬鹿だなぁ、私……」
去年のクリスマスイブの夜に涼太に告げた言葉が、今一度姫奈の頭の中に流れる。
『一人で勝手に私のこと好きになってないで、私もちゃんと好きにさせてよ……リョウ君のこと』
姫奈の口許は、緩く弧を描いていた。
「本当にさせられてるじゃん。どうしようもなく、誤魔化しが効かないほど……好きにさ……」
実際に口にしてみたその言葉の馴染み具合に、姫奈は自分でも可笑しく思え、堪えられずにクスクスと肩を震わせた。
「まったく、もう……私の一世一代の告白が聞こえてないのは、どこのどいつですかねぇ~?」
姫奈はどこか嬉しそうに細めた瞳で、涼太の寝顔を飽きることなく見詰め続けた――――




