第56話 初恋幼馴染は許せない
「リョウ君お待た、せ……?」
開かれた教室のスライド式の前扉。
姫奈は彩香との話を終えて戻ってきたが、一歩教室に踏み込んだところで足を止めた。
席に座る涼太と、そんな涼太の胸倉を正面から掴む真緒の姿を交互に見やり、呆然とする。
「お、おう、ヒメ。お帰り……」
グッ、とシャツを掴まれた状態のままで、涼太は剣呑な雰囲気を和らげようと微苦笑を作って姫奈の方に向いた。
しかし、姫奈はまるで時が止まったかのように立ち尽くしたまま、微動だにしない。
いつもどこか胡乱としている目尻の下がり気味の目は大きく見開かれ、榛色の虹彩を小刻みに揺らしながら、涼太と真緒をジッと見詰めている。
「はぁ~あ、やっとお出ましってワケね」
「うおっ……!?」
掴んでいた涼太の胸倉を感情任せで乱暴に離した真緒。
片手を腰に当てて、不機嫌さを露わにした鋭い視線を姫奈に向けた。
「いやぁ、ホント凄いわアンタ。名前の通り本当にお姫様みたいね」
真緒は一度涼太を横目に一瞥してから、挑発的に口角を吊り上げ、姫奈に言った。
「さっきコイツ、ウチにさ、アンタに手ぇ出したら許さない的なこと言って脅してきたんだよね。ははっ、マジウケるわ。んで、アンタはこんなんに守られてる哀れなお姫様ってワケ?」
こんなん呼ばわりと共に人差し指で指されるが、涼太は微動だにしない。
代わりに、姫奈の眉がピクッと動いた。
「アンタもさぁ、見る目ないね。守ってもらうにしてももっとマシな奴いるでしょ。他に男なんかいくらでも言い寄ってくるんだから選びなよ。幼馴染だかなんだか知らないけどさ、アンタとコイツじゃ単純に――」
顎を持ち上げ、馬鹿にするようにニヤリと笑いながら、下目で姫奈を見下しながら言い放った。
「――釣り合ってないでしょ」
「……っ!!」
姫奈の瞳が大きく見開かれる。
ブワッ、とハーフアップに結われた胡桃色の髪がなびき、気付いたときには大股で歩き出していた。
「あははっ、なに? もしかして怒っ――」
パァン!!
「…………」
「…………」
「…………」
乾いた音が三人きりの教室に響き渡った。
その残響が、静寂を一際際立たせる。
驚愕に目を剥き、開いた口が塞がらずにいる涼太。
その視線の先で、左頬を押さえて一歩後退った真緒。
そして、真緒の正面で、右手を振り払った状態で静止している姫奈。
まだ平手打ちの音が耳に残る間、三人はその状態で静止していた。
「ひ、ヒメ……?」
時間の流れを忘れてしまったかのような静寂の中で、涼太がようやく喉の奥から声を絞り出せたときだった。
「っ、アンタ……!!」
パァン!! と二度目の乾いた音。
僅かに音が違うのは、叩いた側と叩かれた側が入れ替わったからだろうか。
姫奈は左頬を張られた衝撃で一度右を向くが、気にした素振りも見せず、すぐに真緒の前で居住まいを正した。
「見る目ない? 面白いこと言うね。リョウ君のこと見てすらない人が」
真緒が左頬の痛みと平手打ちを喰らった屈辱から威嚇するように姫奈を睨むが、対峙する姫奈に気圧される様子は一切見られない。
語り口調は冷静。
こんな状況でも、平時の声のトーンを保っている。
その端々に怒りが滲み出ていることがわかるのは、この場では涼太だけ。
「貴女の価値基準ってなに? その人がみんなの人気者かどうか? 目立ってたらいい? イケメンだったらいい? お洒落さん? それとも勉強出来たり運動神経良かったり?」
姫奈は真緒が持っていそうな――というよりは、よく言われるような相手に求める条件をいくつか列挙してから、肩を竦めた。
「そんなの全部、その人を作り上げる一つの要素でしかないのに」
くだらないとばかりに頭を横に振る。
「確かにリョウ君は人気者でも、目立つような人でもない。自分から率先して何かをやるタイプじゃなくて、何もせずにいられるならそれに越したことはないなんて思ってる感じの人ですからね」
でも、と姫奈は続けた。
「リョウ君は傍に居る人を一番に大切にしてくれる。困ってる人は見過ごせないなんて正義は持ってないけど、自分が大切にしているものを全力で守って支えてくれる人」
「ヒメ……」
姫奈の口から語られる自分の姿に、涼太は目元が熱くなる感覚を覚える。
「そう考えたら、本当に釣り合ってないかもね。リョウ君は、私なんかには本当にもったいないくらいの人だから」
「……っ!?」
真緒が不愉快な心地を露わに下唇を噛む。
やり場のない憤りは握った拳を震わせて、怒気の籠った鋭い目付きで姫奈を睨みつける。
「なに、幼馴染同士で仲良く庇い合ってるってワケ!? 普通にキモいんだよっ……!」
バッ、と真緒が再び感情任せに手を持ち上げる。
姫奈もその動きを捉えながらも微動だにしない。
今、まさにその手が振り払われようとしたが、咄嗟に伸ばされた涼太の手が真緒の腕を掴んだ。
「朝比奈、そこまでだ。ヒメも落ち着いてくれ」
先程は姫奈から先に手を出してしまったため、真緒のやり返しを止めることはしなかった。
だが、もう互いに一発ずつ喰らった状況。
これ以上の暴力はもう必要ない。
いかに喧嘩がヒートアップしても、感情任せに手を出す行為は決して良いとは言えない。
「このまま言い争っても何も生まない。俺はただ朝比奈がヒメに危害を加えずにいてくれるならそれでいい。上っ面の良好な関係なんて必要ない。気に喰わないなら気に喰わないなりに、上手くやろう」
話し合えばわかり合える。
相手の気持ちになって考えれば解決する。
そんな綺麗ごとは言わない。
人に心がある以上、相性というものが生まれる。
パズルのピースが全ての組み合わせで当て嵌まることがないように、万人が万人と仲良くすることは不可能。
だから、嵌まらないピース同士は無理に関わり合わず、適切な距離を保って上手くやればいい。
「っ、離せ……!」
涼太が出来る限り穏やかな口調で諭すと、真緒は自分の右腕を乱暴に振って掴まれていた涼太の手を払う。
そして、涼太と姫奈に一度ずつ睨みを利かせてから、鼻を鳴らして姫奈の横を通り過ぎ、早足で教室をあとにした。
張り詰めていた空気が弛緩し、訪れる静けさの中で涼太がホッと息を吐く。
「ったく、殴ることはないだろ……」
「なんか……気付いたらやってましたねぇ……」
涼太が呆れたような半目を向けると、姫奈は気の抜けたような声で自分の右手を見詰めた。
「でもまぁ、そうだな……」
涼太は頬を指で掻いたあと、まだ教室に残るピリついた空気の残滓を換気するように、おどけた口調で言った。
「まさか、ヒメが俺のことをそんな風に思ってくれてたなんてなぁ~?」
ビクッ、と姫奈の方が微かに震える。
「えっと、何だっけ? 『私なんかには本当にもったいないくらいの人』でしたっけぇ~? いやぁ、感動に思わず涙するところでしたわぁ」
「う、うわ~。うわうわうっわ~。この人、私がその場のノリで言ったこと真に受けてるんですけどぉ~」
ぎこちない笑みを浮かべながら肩を竦めて首を横に振る姫奈に、涼太は興味深そうに顎に手を当てる。
「その割には随分と真剣な口調だったが?」
「流石、私。ナイス演技」
「だとしたら真に迫ってたなぁ。女優顔負けだ」
「未来の名女優にサイン貰っとく?」
「サイン持ってる人って結構いるじゃん? それより、未来の名女優にビンタされる方が貴重そうなので、そっちをお願いしても?」
ほらほら、と自分の左頬を突いて差し出す涼太。
「うわぁ、やっぱこの人ウザいわ~」
姫奈はそう言いながらもけらけらと可笑しそうに笑って、涼太の左頬に、静まり返った教室の中ですら音すら聞こえない程度の威力の平手を当てたのだった――――




