第54話 小悪魔後輩の宣戦布告
「まぁ、ここら辺なら良いですかね~」
姫奈の二、三歩先を先導して歩いていた彩香が、本校舎と特別棟の間にある中庭の一角で立ち止まった。
それを見て、姫奈も彼我の距離を保ったまま足を止める。
まだ朝の早い時間。
現在学校にいる生徒の大半は、部活の朝練に励んでいるか、登校してきて各自教室に向かっているので、昼休み頃には人が集まるこの中庭でも、今なら内緒話をする場所としては充分役割を果たせる。
「それで、私に話って……なに?」
姫奈が首を傾げると、彩香はにこやかな表情を浮かべたまま振り返って言った。
「姫奈先輩、涼太先輩と仲直り出来たようですねっ!」
姫奈は少し驚いたように目を丸くした。
普段から学校での生活を共にしている蓮や結愛ならいざ知らず、学年も異なり時々顔を合わせる程度の彩香に、自分と涼太がギクシャクしていたことがバレているとは想像していなかった。
第一、涼太と口を利かなかったのは一日だけ。
その間に彩香と会ったのは、通学中の電車の中と、昼休みの食堂の二回だ。
「私、そんなにわかりやすかった?」
「うぅ~ん、そうですねぇ……どちらかと言うと?」
「それは……今度から気を付けよぉ」
些細な自分の態度一つで涼太とどんなことがあったというのが周囲に知られてしまうのは流石に恥ずかしいので、姫奈は今後少し意識して行動しようと誓う。
「でも、良かったです」
彩香がちょっぴり申し訳なさそうな笑みを浮かべて言う。
「先輩達をギクシャクさせたのって、多分私が原因だと思うので」
「そんなことは……」
――ない、とまでは言えなかった。
姫奈は口を開いたまま、言葉を飲み込む。
その反応を見て、彩香も微苦笑を湛えた。
「やっぱり、姫奈先輩も涼太先輩のことが好きなんですか?」
えっ、と姫奈の口から声が漏れ出る。
それは単純に好意の有無を突然聞かれたことに対する驚きでもあれば、何気なく『姫奈先輩は』ではなく『姫奈先輩も』という言い回しが選択されたことに対するものでもある。
「どういう、意味……?」
姫奈は僅かに眉を寄せて、訝し気な視線を彩香に向けた。
姫奈先輩も――というのは、涼太が自分に好意を持っているから自分も好きなのか、と言う意味なのか。
それとも――――
「ん~、私、涼太先輩結構アリかなって思っててですね~?」
姫奈が心のどこかで拒んでいた可能性が引き当てられたことが、彩香の口からサラリと告げられた。
「だから、涼太先輩の幼馴染で、仲良しで……なんなら涼太先輩に異性として好かれてる姫奈先輩はどう思ってるのかなって言うのが聞きたくて」
彩香の口許は相変わらず可愛らしく弧を描いている。
しかし、その赤みを帯びた黒い瞳はジッと真っ直ぐ姫奈に向けられていた。
冗談で言っているわけではない、というのは明らかだった。
姫奈の眉尻が下がる。
腹の下で組み合わされた両手にはギュッと力が籠る。
「私は……まだ、よくわからないっていうのが、正直な気持ち、かな……」
一種の覚悟のような光を灯す彩香の視線を受け止められるだけの想いに確信が持てず、姫奈は視線を斜め下に逃がした。
そんな一挙手一投足を、彩香の双眼がしっかりと見据えている。
だからこそ、彩香はまだここで言葉を挟むことはしなかった。
姫奈の胸の奥で渦巻く感情の吐露は、まだ終わっていないことをわかっていたから。
「でも、好きになりそう」
姫奈の顔が持ち上げられる。
二、三歩ほどの距離を隔てて、やや目尻が垂れ気味の榛色の大きな瞳が、彩香の視線と真正面から衝突した。
「好きになれる、好きになりたい……私がそう思えるのはリョウ君だけだから」
互いの視線が互いの想いを読み合うように無言で絡み合う。
数秒の沈黙を経て、彩香が肩を竦めた。
「それもうほとんど好きって言ってるじゃないですか」
「どう受け取ってもらっても、それは彩香ちゃんの自由ってことで」
呆れたように半目を向けてくる彩香に対して、姫奈は冷静に返した。
こうして彩香の質問に答えた今、姫奈が気になるのは自分の返答を踏まえて彩香がどう出るかだ。
それで――と、姫奈は口を開く。
「彩香ちゃんはどうするの? 私がリョウ君のこと好きになるかもしれないってわかったから、手を引くの?」
「あはは、まさかですよ~」
姫奈としては冗談を言ったつもりはない。
単純な疑問を投げ掛けただけなのだが、それが愚問とでも言いたげに彩香が笑った。
「最初から涼太先輩を狙っていくのは私の中で決定事項でしたから。ただ今回はライバルになるかもしれない姫奈先輩の気持ちを確かめておこうと思っただけです」
あくまで情報を入手するため。
ここで姫奈が好意を表明してようがいまいが、彩香が涼太にアプローチを掛けていくことに変わりはない。
そんなことをさも当然とばかりに笑って言ってのけるとは……姫奈の中で、目の前の可愛い後輩に対する評価を改めなければならなかった。
「彩香ちゃんは、リョウ君が好きなの?」
「ん~、まだそこまでは。何か良いなって思ってる段階ですかね」
頬に人差し指を当てて、何かを考えるように斜め上を向きながら答える彩香。
「まだ好きになってないのにアプローチするの?」
「そうですね、私は。付き合ってから好きになっても遅くないわけですし」
彩香は即答した。
「恋愛って椅子取りゲームなワケですよ。一人に対してたった一つの椅子を奪い合うゲーム。まぁ、一部椅子をいくつも用意してる人や同時に複数の椅子に座る人もいますが……それは論外として」
静かに耳を傾ける姫奈の視線の先で、彩香は首を横に振って続けた。
「一般的な椅子取りゲームと違う点は、参加人数は常に変数であること。早い者勝ちではなく最後に座ってた者勝ちであること……」
彩香の口許が弧を描く。
見る人によってはそれを嘲笑と受け取るかもしれないが、純粋に心の底から理解が出来ないゆえに自然と浮かぶ笑みに他ならなかった。
「とはいえ、目の前に座りたい椅子があって空席……この状況で座らない理由が私には思い付きませんね。早い者勝ちではないとはいえ、早々に決着を付けるに越したことはないですし」
決着を誰と誰で付けるのか言うまでもない。
彩香の視線は真っ直ぐ姫奈に向けられているのだから。
「じゃあ、何で私とリョウ君が仲直り出来て良かったなんて言ったの? 距離が出来てるならむしろチャンスじゃない?」
「それは単純にフェアじゃないと思ったからです」
ライバルが上手くいってない間に距離を詰めようとするのは、恐らく誰でも思い付く戦法だろう。
だからこそ疑問に思った姫奈だったが、彩香はそのやり方を呆気なく否定した。
「姫奈先輩と涼太先輩の関係性は、これまで二人が積み上げてきたもの。私はそれを否定しません。本来あるべき関係性が保てているときに勝負しないと、まるで弱り身を狙ったみたいで私が納得出来ませんから」
そう語ってみせる彩香の立ち姿は堂々としていて、表情には隠し切れない自信が滲んでいた。
「リョウ君は私が好きで、私もそんなリョウ君を好きになろうとしてる……その状態で、リョウ君を振り向かせるってこと?」
「まぁ、そういうことですね」
「それ、私に有利すぎない?」
「そうですよ? 姫奈先輩に超絶有利な舞台です」
でも……、と彩香は真剣な表情で言い放った。
「そんな舞台が用意されて、いつでも取れる椅子が目の前にあってもなおそれを取らないような人に、私、負ける気がしないんですよね」
「…………」
少しばかり怖さすら覚える真剣な表情を作る彩香と、こちらも冷静で笑み一つない顔の姫奈が見詰め合う。
実時間およそ十秒にも満たない、体感で数分にも錯覚する沈黙。
先にそれを破ったのは、彩香だった。
「というわけで、お話は以上です! 付き合っていただいてありがとうございました、姫奈先輩っ!」
真剣な表情はどこへやら。
普段通りの人懐っこくて可愛らしい笑顔をパアッと花咲かせた彩香が大きな挙動でお辞儀をする。
頭を上げ、足を踏み出す。
一歩、二歩、三歩……と歩き進めて姫奈の左隣に並んだタイミングで呟いた。
「うかうかしてる暇ありませんよ? 私、他人が心の準備を済ませるのを待ってあげるほど、お人好しじゃないんで」
言い終わる頃には、すでに彩香は姫奈の後ろを歩いていた。
姫奈はそんな彩香に振り返ることはせず、背中越しに伝える。
「私の背中を押したこと、後悔しないでね」
果たしてその声は届いたのだろうか。
先に本校舎へと戻ろうとする彩香との距離は離れていたし、姫奈の声量もさして大きくない。
振り返って確認もしなかったため、確かめる術もない。
だが、唯一確信を持てることがある。
それは、この瞬間に、彩香の宣戦布告が成されたということだった――――




