4 宮が春成と見合うこと
それほど長い時間気を失っていたのではないらしい。
楊泉宮が目を開けると、そこはまだ転がり落ちた渓流の淵であった。伊惟が泣き出しそうな顔で見つめている。宮は口の端に水気を感じたと思う間もなく、唇がこじ開けられて、冷たい水が流し込まれた。
「ちょうどよいところへ通りかかってくださいました。もしもわたししかおりませんでしたら、どうしようもないところでした」
寺男らしい声がする。誰と話しているのかと目を動かすと、寺男より先に初めて見る白い顔が飛び込んだ。
「都人にはこの山道はちと難儀でしたね。幸い怪我などはなさそうですが、歩けそうですか」
まだ元服前の少年のような声音ながら、一人前のような口利きをする。楊泉宮はこのような山の中で遭うにしては雅やか過ぎる美しい顔に、釘付けとなった。
この奥深い山中で白いあこめを着ているのに、汚れ一つ見当たらないところが、この世の者でないような気品を感じさせた。返事のないのを具合の悪さととったのか、すっきりとした眉がひそめられ、涼やかな目許が伊惟に向けられる。そこで宮の呪縛も解けた。
「ご心配なく。どうにか歩けるとは思います」
「それはよろしゅうございました。わたしが身を寄せる山荘がすぐ側にございます。少しそこでお休みになられた方がよろしいでしょう。威麿、この方に肩を貸しなさい」
「はい」
美しい少年が身を引いたので、寺男と話していた者の姿が見えた。
威麿と呼ばれた男はいかにも山の民といったがっしりとした逞しい体躯で、山伏と見紛える格好をしていた。実際、山伏の修行をした者かもしれなかった。
楊泉宮は擦り傷以外にどこも怪我などしていなかったが、少年の言葉に甘えて威麿に手を引いてもらい歩くことにした。沢を越えると、本当にすぐ側にこぢんまりとした山荘が現れた。
建物自体は年季の入った様子であるが、手入れは行き届いて鄙びた味わいのある家である。
少年は山荘が見えてくると、宮達を残して先に家の中へ入っていった。ほどなく、中から下働きが出てきて、威麿から宮を引き継いだ。
女六の宮はすっかり剃髪して尼になっていた。橘典侍よりも年上であることには間違いない。身だけでなく、世俗から離れてすっかり心まで法師になっている様子が、御簾越しに見て取れた。楊泉宮は命拾いしたことの礼を述べ、伊惟に手土産を広げさせた。
「ご丁寧なご挨拶、傷み入ります」
女六の宮は楊泉宮が身元を明かすと喜んだ。
「わたくし、母君でいらっしゃる麗景殿女御様とはいささかお文のやりとりなどしておりました。本当に、あの方は気持ちのやさしい方でいらっしゃいまして、しきたりの多い宮仕えをするにはお体が弱すぎていらしたのでしょう」
「もし、母の文などお取りおきしていらしたら、ぜひ拝見したいものです」
「そうですね。少しお待ちくださいまし」
女六の宮は自ら席を立って奥へ入った。入れ替わりに、先ほどの美少年が入ってきた。部屋に残っていた女房があれ、と目を見張る。美少年は口元に微笑を漂わせた。
「露君、叔母上はいかがされたか」
「ただ今、楊泉宮様の母上が認められたお文を探しに、奥へお入りになられました」
「ああ、宮様でいらしたのですね。これは失礼致しました」
滑らかな動作で平伏し、下がりながら部屋を出ようとするのを、宮は留めた。
「どうかお気遣いなく、お顔を上げなさい。先ほどはわたしどもを助けてくれて、ありがとう。実は始めから女六の宮様を訪ね申し上げるつもりだったのだ。名は何と言うのです。宮様とはどのような関係でおられるのか」
宮の言葉に、美少年はこころもち顔を上げた。山の中に住んでいるとは思われないほど白く抜けるような肌が、緊張のためか上気してほんのり赤味を帯びているのが、また艶に美しい。
「春成と申します。前右大臣の所縁の者にございます縁で、女六の宮様にお世話になり申しております」
はきはきと答える様も好もしい。女六の宮は前右大臣を婿取りしていた。恐らく、前右大臣が身分の低い女に生ませたのを、寄る辺がないのに同情されて引取られたのであろう。これほど美しく成長しては、露君という女房がおろおろするのも道理である。
やがて奥から女六の宮が戻ってくる気配を察すると、春成は楊泉宮が引き止めるのも聞かずに部屋から下がっていった。
「山育ちでございまして、堅苦しいのは苦手にしております。宮様のような風流な方がいらっしゃるのはお珍しいことで、女六の宮様もさぞかしお話しするのをお喜びになるでしょう。何もない所ではございますが、どうか無聊を慰めて差し上げてくださいまし」
女六の宮が文箱を携えて戻ってくると、露君がさっと御簾をくぐって注進に及んだ。
「春成様が宮様をお助け申されたそうでございます」
女六の宮の返事は聞こえない。しかし驚いている様子ではあった。驚きのあまり声が出ないのか、気まずい様子で露君も女六の宮も言葉を出さない。おそらく、春成が楊泉宮に失礼な振る舞いをしたとでも思い込んでいるに違いない。楊泉宮は、女六の宮を安心させようとした。
「春成殿はとてもかわいらしいおとこの子ですね。幼いのにとてもしっかりしておられる。あのような子どもが世を離れて引きこもるのは世の中のためにも残念なことです。もし私に預けてくださるのならば、よくお世話をして宮仕えもさせましょう」
御簾の奥で女六の宮が慌てたように腰を浮かす。露君が素早く側に寄り、宮の言葉を伝えた。
「宮様のお志はとてもありがたく身にしみて感じ入りますが、春成は卑しい出自で、長い間山の中で気ままに暮らしておりましたものですから、今さら都へ下りましても性根が直ることもなく、宮様のお手をわずらわすばかりと存じます。また、春成が私の縁者と知れれば、世間から隠れて暮らしております私の恥にもなりますので、どうかお考え直しいただけないでしょうか」
あまりに真剣に答えられたので、楊泉宮は冗談めかして言い出したにも関わらず、却って春成を連れ帰りたい気持ちが強くなってしまった。
それでも考えてみれば年老いた女六の宮にとっては、春成が心の支えなのだろう。このような物の怪が跳梁しそうな山の中では、他に心慰むものも見つかるまい。無理に春成を連れ帰って、女六の宮が仏の修行を投げ出すようなことにでもなれば、女六の宮ばかりでなく、春成も楊泉宮の後生も悪かろう。
そのように考えて、ようやく宮は春成を連れ帰ることを諦めたが、再び女六の宮を訪れることを約束した。母にゆかりのある女六の宮に会いたいのももちろんではあるが、春成の顔をまた見たいと考えたのである。