【第1章 日常】 第7話 仙女の簪
壊れたものの価値は、壊れる前からの持ち主にしかわからない。壊れてから得た者は、せいぜい来歴を承知するのがやっとだ。
同じことは、我が帝国の仕事でも言える。三十にならぬうちに高官になった私には、仕事の約束事も壊れたものの価値と同じ、察することでありがたがることしかできない。
衣を扱う人たちは、すでに秋模様の上衣を用意し始めている。とはいえ、私は一日の大半を仕事用の衣装を着て過ごしている。
今日も,残業である。
私は席に着き、懐に手を入れた。
先ほど、廊下で涼んでいて見つけた、金色の簪である。鳳凰の飾りが付いていたらしいが、ちょうど半分に割られている。割れ目のそばには、刃物で付けたらしい線状の傷が引かれていた。誰かが痕をつけて、ちょうど半分になるようにしたのであろう。
今は一本の長い金の棒があるだけだが、おそらく、二又の簪だったのだろう。割れた鳳凰の飾りとともに、誰かに渡されたに違いなかった。
私がこうも想像を巡らすことができるのは、ある伝説のせいだった。
前の大帝国の末期、皇帝が寵姫を失った。その妃は蓬莱の仙女となったが、皇帝の悲しみを知り、以前、賜った簪を二つに割り、訪ねてきた道士に託したというものだ。
もし、その皇帝が手にした簪ならば、我が国の宝物として管理しなければならないものである。しかし、私が担当の官吏に渡さないのは理由があった。
件の半分の簪は、すでに宝物庫にあるのだ。
しかも、私は担当官である楊淵季の誘いで、密かにその簪を見たことがあった。ちょうど、私が手にしているものと対称になるものである。
つまり、これは、蓬莱の仙女が持っていた簪の片方、ということになってしまう。
「還俗の娘うるわしく、笑めば虚空に花が咲く。金の簪、光を集め、寵愛をして凝脂に纏わしむ」
当時の詩人が歌ったと伝えられる詩の一節を口ずさむ。
有名なものではないが、くだんの寵姫を歌った詩としては、最も好きなものだった。
「どうした、欧陸洋。妻が恋しくなったか」
突然、友の声がした。
振り返ると、楊淵季が柱に肘をつき、呆れた顔で立っていた。
「いや、役所でそんなことは」
「別に構わん。おまえの結婚式をとりしきったのは俺だ」
そうだった。
いい気持ちで酒を飲んでいたと思ったら、いつの間にか結婚式を挙げていた、というのが私だ。
とりしきってもらった、というより、はめられたという方が近い。
「でも、ほんとうにそうではなく」
「じゃあ、なんだ。浮気か。何を持っている」
楊淵季が近づいてきて、手元を覗き込んだ。
金の簪を握っているのを見て、おやおや、と声を上げる。
「女物じゃないか。しかも、半分に割れている。……これは?」
楊淵季が眉をひそめた。
途端、背後に寒気を感じる。
「金の簪、地に落ちて、白き顔に息はなく、天子の眼前暗転す」
先ほどの詩の続きだった。
歌い上げるのは、か細い女の声だ。冷え冷えとして、聞いているうちに首筋に当たる風が吹雪の音に変わっていく。蝋燭が一つ消えたのか、辺りが暗さを増した。
寵姫は、人の手にかかって亡くなった。皇帝は生きる気をなくすくらい、落ち込んだという。そのころを思い出しているのか、女は泣いている。
すすり泣く声は、すべての音を押しのけるように私の耳に入ってきた。悲しい調子ながら艶やかだ。
私は女の顔を見たいという衝動に駆られた。
「だめだ、陸洋」
楊淵季が私の肩に腕を回し、抱え込むように押さえつけた。
「見てはならん。……その簪は、その昔、皇帝の寵愛を受け、死後、蓬莱で仙女になったと言われる女のものだな」
彼は簪に触れた。
とっさに、私は手を懐に突っ込んだ。
「どうした、陸洋。それをかせ」
背後にいるのが仙女だとしたら、その持ち物を俗人である私が握っているというのは、蓬莱の怒りに触れても仕方のない行いだ。
だが、私は、なぜかこの簪を手放したくなかった。
そっと懐を覗き込むと、暗さが増した室内で、簪は光を放つように輝いている。わずかな光を集めては弾き、全体を金色で包み込んでいる。
私は、ほう、と息をついた。
美しい簪だ。持ち主の美貌は詩に歌われる通りだが、当時の皇帝が贈ったという簪も、それにふさわしくきらめいている。
この簪を、手にしていたかった。
皇帝と寵姫の間に水を差そうというのではない。ただ、手放しがたく、美しい。
「陸洋!」
楊淵季が怒鳴って、私の手から簪をもぎとった。強く握ろうとした手のひらから血がほとばしる。
簪に血が付いた、と思った瞬間、目の前が真っ暗になった。
どのくらい、倒れていたのだろう。
体を起こすと、白い石の敷き詰められた道の上にいた。
空気は冷たく、水の香りがする。左右の木々は大きく育ち、枝は白い石の道に屋根をかぶせるように鬱蒼としている。
……シャリ、シャリ
石を踏む硬質な音が近づいてきた。
振り返ると、女がいた。
高く結い上げた髪、薄手の柔らかそうな衣を身につけている。衣は木漏れ日の具合で桃にも碧にも見えた。
私は石の道に座ったまま、女を見上げる。
すぐに、仙女だ、と思った。
まばゆくてはっきりしない顔は艶然として、表情はわからなくとも、空気の揺らぎで笑ったことがわかる。髪に挿した枝に、梨に似た花が開く。
「あなたのような、不思議な力を持った人を待っておりましたよ」
仙女が手をさしのべた。
私はその手に触れようとした。
あと一寸、というところで、腰から下げた帯玉が、キインと音を立てた。私は耳をふさぐ。
私の帯玉は、円形に削られ中央に穴を空けられただけの玉だ。少年の頃、世話係だった人からもらったもので、毎日妻が磨き上げていた。
「それをいただかなくては」
仙女が屈み、帯玉に触れた。
突風が吹いた。
ピシ、というヒビが入るような音がした。砕けるか、と思ったら、陽炎のように姿を変え、仙女を押し戻した。
「耐えろ、陸洋!」
遠くから、楊淵季の声がした。
私の周りをつむじ風が取り囲み、大きな渦となって私を飲み込んだ。
叫んだだろうか?
再び目を覚ますと、元の執務室だった。
私は床に横たわり、楊淵季が覗き込んでいる。いつになく、心配そうな顔だった。
「どうした」
体を起こすと、手に痛みが走った。先ほど、簪で切った手のひらには、白い布が巻かれていた。
「いちおうの手当はしたぞ。でも、家に帰ったら、程適に見てもらえ」
「簪は?」
「忘れろ」
淵季は厳しい口調で一息に言う。
「しかし、美しい簪だった。おまえは、魅了されなかったのか」
「……されないように、壊したさ」
彼の指さす先には、蝋燭があった。燭台には、金の塊が溶けたままの形で固まっている。
「金だけでできていて助かったよ。金なら蝋燭の炎でも溶けるからな。じゃなきゃ、おまえもろとも、蓬莱に囚われるところだった」
「蓬莱、だと」
私は、白い石の道や、繁茂した木々を思い返す。
「あれが、蓬莱だと? しかし、徐福の伝説にあるだけの島だろう」
秦の始皇帝の頃、不老不死の薬を求めて海を渡ったというが、神仙の住む山には辿りつけなかったという。そんなもの、最初からありはしないのだ、というのが、私たちのような試験を経て役人になった者たちの常識でもある。
「実在といえば、実在するのだ。現におまえも魂が飛んでいったではないか。そのまま囚われ戻ってこなければ、体が滅びるまでずっと寝ていたぞ」
「魂、が?」
私はぞっとした。つまり、金の簪を入り口にして、魂が蓬莱に飛ばされていた、というのが楊淵季の説明らしい。
「欧陸洋。宝物の中にはな、人の心を捕らえて自らの体のように使おうとするものもある。美しいものにのまれるな。役所の中も陛下のお住まいも、魑魅魍魎の跋扈する魔境だと思え」
そう言うと、楊淵季は燭台に溜まった金を溶かし、小さな金属の小箱に流し入れた。それから書類の端を破いて何かを書き付けると、小箱をくるんで懐に押し込んだ。
「やれやれ、それにしても仙女と戦うとは。あとで、道士に頼んで非礼をわびてきてもらわねば」
楊淵季のつぶやきに、私は首を傾げる。
理屈に反することが嫌いな男だ。まさか、世間ですら能力に疑いの目を向けられる道士というものを、重んじるとは思わなかった。
「道士よりも、おまえのほうが仙女と話が通じそうだけど」
冗談のつもりで、そう返す。楊淵季は低く笑った。
「ともかくその帯玉を大切にしておけよ。そこまで完全な玉も、そうそうあるまい」
私は帯玉を手に取った。割れた音がしたにも関わらず、傷一つない碧玉だった。
〈おわり〉
お読みくださりありがとうございます。
今回は、「長恨歌」で有名な楊貴妃をモデルにした話です。よく知られているように、玄宗皇帝の寵姫であった人で、殺された後、仙女となって暮らしていたという話になっています。悲しみに暮れる玄宗皇帝のために、ある方士があちこち探したところ、仙山にいる楊貴妃に出会います。その際、楊貴妃は方士に箱と、金の簪を、二つに割って渡した、というもの。
「仙女の簪」は同じような境遇の寵姫がいたら、この世界ではどうしただろう、という想像によるお話でした。
お楽しみいただけたら幸いです。