【第1章 日常】 第4話 獣画魔鏡
お守りには二種類ある。
よいことを招くものと、悪いことを遠ざけるもの。
あらゆる獣を避ける魔鏡は、果たして後者であろうか。
帝国の官僚である私は、夜の執務室で一人、古い鏡を眺めていた。ものの映る面ではなく、麒麟のつまみがついたほうである。鏡には円を描くように、さまざまな獣が鋳られていた。
龍、虎、鳳凰、亀、さらに、十二支も。
細かい毛並みや羽、甲羅の模様やひげまで、細かく作られ、銀色に光っている。
このような動物の配置は漢代のものが多いが、何百年も昔に作られたものが、まったく錆びずに残っているというのも奇妙だ。
――これをお持ちになるがよい。
朝、役所に来る途中で、老人に馬車を止められた。従者が叱るのも間に合わぬくらい素早く車内に鏡を差し入れ、そう言ったのだ。
――あらゆる獣を遠ざけてくれましょう。
とはいえ、ここは帝国の都だ。家々に犬や猫などはいるが、道ばたを虎が闊歩するようなことはない。むしろ、盗賊よけというのなら、まだ、わかるのだが。
老人は足早に立ち去り、私の手元には鏡が残された。そのまま役所に来て仕事をして、ほかの者が帰ってから取り出してみたのである。
鏡をひっくり返し、鏡面に顔を映す。
目の下に隈のできた顔だ。蝋燭の明かりの下とはいえ、瞳は黒々と顔の中に沈んで、感情も映しださない。
こんな顔で仕事をしていたのだ、と思うと、情けない気持ちになった。
――今日は、帰るか。
私は溜息をついて、書類を片付け始めた。家族と住む家は役所とは少し離れている。歩いて帰ってもよいが、鏡を見たせいか、どっと疲れが出てきた。役所付きの雑用係を呼んで、家の者に馬車を出してもらうよう、伝えてもらわねばならぬ。
「急ぎ、手配いたしましょう」
執務室の外から男の声がした。
廊下に出てみると、建物の前の土の上にひざまずく者がいるのがわかった。
私は面食らった。まだ誰も呼んでいないはずだ。馬車のことは、頭の中で考えたにすぎない。それなのに、なぜ。
「さあ、お迎えの馬車が参りました」
男はそう言った。
あり得ないことだった。思い浮かべただけの馬車が現れるわけはない。百歩譲って、この男がさっき手配をしたのなら、こんなに早く来るはずがない。
私は執務室に戻り、帰り支度をする振りをして鏡を外に持ち出した。
そして、男に向ける。
途端、人とも犬ともつかぬ叫び声がして、闇に消えた。
私は鏡を布で覆い、耳を澄ます。
男の姿はなく、辺りはシンとし、遠くで犬が遠吠えする声がうっすらと聞こえた。
「お迎えに参りました」
顔のすぐ横で声がした。私は飛び退き、部屋から漏れる蝋燭の明かりを頼りに目をこらす。我が家で働く者と同じ顔をしている。しかし、こんな話し方をする男ではない。
「程適、なぜここに?」
この辺りは、役人しか入れないはずだ。ここに来るまでの全ての門には番人がいる。屋根を伝ってきたわけでもなければ、ここに来られるはずがない。
「旦那様がお呼びになったからです」
流暢な都の言葉だ。
程適は出身地である東方の訛りの混じった話し方をする。都に長く暮らしているため、そのままの訛りではないものの、完全に都の言葉というわけではない。
「さあ、旦那様。こちらへ。その荷物はお持ちいたしましょう」
程適の姿をした何かが、鏡の包みに手を伸ばした。私はとっさに布を払い、そのものに鏡面を向けた。
相手の表情がゆがんだ。うなり声が聞こえ、程適の姿が一瞬、黒い煙に包まれた。
私は鏡を構えたまま、煙が消えるのを待つ。
再び、廊下が蝋燭のほの明かりの中に浮かび上がる。
床に横たわっていたのは狸だった。覗き込むと、胸元には白い毛が長く生えそろい、偉人のひげのようにつややかに光っている。尻尾も太くふっさりとして、体も大きい。
「何かございましたか」
見ると、黒い衣の男が松明を手に駆けつけてくるところだった。騒ぎが役所を守る兵にまで伝わってしまったようだ。
「仕事中に狸が現れて、驚いただけだ。別に」
ほうっておいてくれていい、と続けようとして、男の顔を見る。
松明に照らされた目は、夜の狐狸のように光っていた。
――この者も、人ではない。
私は懐に鏡をしまい、床を指さした。
「すまない、狸が気絶してしまったようだ。門の外に出してやってくれないか」
男が頭を下げた。その拍子に、松明の光が地面を照らす。
先ほど、車を手配したと言った男がひざまずいていた辺りに、貂がいた。目を閉じ、手足を地面に伸ばし、ぐったりしている。
男は貂にちらりと目をやり、次いで、私を見上げた。それから、無言で階をのぼり、廊下に上がる。
その瞬間を狙って、私は男を鏡で照らした。鏡に映ったのは猫だった。尾が二本ある。化け猫だ。
「よくもご覧に……長年の修行もこれまで」
男の口元には牙が生えていた。顔が毛だらけになり、みるみる猫に変わっていく。同時に体も小さくなり、狸の隣に倒れた。
「修行って、なんだよ」
私は思わずつぶやき、身震いする。なぜ、今夜に限って人に化けた動物が集まってくるのだろう。いったい、どこから来たというのか。
都は商人が多いとはいえ、役所で働く者や、人の家の使用人とは服装も違う。ほかの地方から来たのならば、言葉も違う。人に化けた狐狸であろうと同じだろう。それなのに、私の前に現れた化け物たちは、流暢な都言葉を話していた。
――まさか、都の人に化け物が多いというのではあるまいな。
鏡をしまいながら、逃げ出したいような嫌な気分になった。
「まあ、まだお仕事ですか?」
艶やかな声を聞いて、私は振り返った。背後から、女が近づいてきていた。首元に白い肌が見えている。高く結い上げた髪、わざとらしい位置に書き込んだほくろ、長い裳を着て、肩からゆるく衣を羽織っている。
今の時代の衣装ではない。
私は懐に手をやった。
「やだ。妾をそんなものでやっつけられるとお思いなの?」
女の目がぎらりと光り、指先を私の顔に突きつける。長い爪は鋭く研がれていた。
「鏡をいただきましょうね。せっかく何百年も続けてきた都暮らしが、台無しだわ」
執務室へ逃げようと思った。だが、足が動かない。女の目が赤く輝き、私を捉えて放さない。呼吸が荒くなる。首筋に冷たい汗が流れた。背中の筋肉は、雷光を浴びたように、びりびり震えている。
女は近づいてくる。甘い香りが辺りに漂い、私を包み込む。脱力しそうになる足を踏ん張って、女を睨む。瞳の赤色に吸い込まれそうになる。
……頭が、くらくらする。
「大声で笑え! 欧陸洋!」
突然、怒鳴られた。我が友、楊淵季の声だ。
夜に理由もなく大笑いするなど、狂っている。
だが、こういったときの、友人の言葉に偽りはない。
私は息を吸った。両手を大きく開き、腹の底から声を出す。
「わああ」
大声を聞いて、女が体を震わせた。
「借りるぞ」
楊淵季が私の懐に手を入れ、鏡を取り出した。
「失せよ、狐!」
彼は私の前に立ちはだかり、女に鏡を突きつけた。途端、女は悲鳴を上げて地面に転げ落ち、走り去った。
女だった姿は、白狐に変わっていた。
「……まったく、面倒な鏡を持っているのではないぞ、陸洋」
楊淵季が背を向けたまま、鏡を私によこした。指先だけで支えられた鏡は、今にも床に落ちそうだ。私は慌てて受け取り、布で包んだ。
「面倒、というと」
「どこで手に入れた?」
「朝、老人が馬車に突っ込んだのだ」
楊淵季が溜息をついた。
「やれやれ、おまえはうかつに馬車にも乗れないな」
「失礼な。私が悪いような言い方を」
「おまえは悪くないさ。運が悪いだけだ」
「よけい失礼なことを言われた気がするが」
私はムッとする気持ちを整えて、問い直す。
「淵季はこの鏡が何か、知っているのか」
「当然だ。それは、獣画魔鏡という。ずいぶん前に行方がわからなくなっていた。魔物を避ける力があると伝えられている。ただし、都では魔物が多すぎて、その鏡があるために狙われてしまうから、逆効果かも知れないが」
まさしく先ほど、私はこの鏡のために襲われていたのだった。
「しかし、都に魔物が多いだと?」
「獣も物も、修行を積めば人の形をとることができるという。彼らが紛れ込むには、素性の知れぬ人の多い都は、ちょうど良くてな」
したり顔で話す淵季は、いつもの彼だった。だが、数匹の動物に襲われた衝撃からだったろう。私は彼が横を向いた隙に、そっと鏡を向けた。
鏡の中には金の目を光らせた龍が、映っていた。
〈おわり〉
『唐代伝奇』(明治書院 新釈漢文大系44)という本がありまして、冒頭に、「古鏡記」というお話があります。
「古鏡記」では、妖怪を退治できる鏡が登場し、最後には消えてしまいます。そして、後の世で鏡を見つけた人のために、鏡をめぐる不思議な話を記す、と述べています。
今回は、その鏡が欧陸洋の元にわたったら、という物語でした。
『封神演義』にも登場するように、人ではないものが修行を積んで人の形をとるというのは、東アジアで割とある話のようです。
会ってみたいような、そうでないような。
それはさておき。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回もおつきあいいだけましたら幸いです。