【第2章 異郷】 第3話 月光玉璧
これは北方への旅の話。
二代皇帝の十八年、楊淵季は命令を受けて北方に派遣された。
月のない夜でも月光を宿す璧があるのだという。
我が帝国の皇帝は、宝物好きである。
すぐに献上するよう命じたが、応じる気配はなかった。
建国から半世紀近くになるが、北方におけるわが国の統治は不安定で、かつての国を慕う者たちが言うことをきかぬという。
困難を見越して、私も淵季についていくことになった。
「しかし、なぜ、夜中に山に入らなければならないのだ」
私は前方を歩く淵季と、呂凜花に呼びかけた。
二人が振り返って、しい、と言う。
「やめろ、夜の山では人の声は妖怪を呼ぶと言うぞ」
淵季は顔をしかめ、ようやく聞こえるほどの小声で言った。
その隣で、凜花の持つ偃月刀の刃が、きらりと光る。腕の立つ若い娘だ。幼い頃から、楊家で雇われている。身を守る程度にしか武術の心得のない淵季や私などより、三十倍は強い。
「早く。時間が決まっているのでしょう?」
凜花が淵季を振り仰いだ。淵季がうなずく。
偃月刀の刃に映る月影は、山を登り始めたときより、ずいぶん淡くなっていた。
私は空を見上げた。
今宵は、月食である。
木々の梢の先に見える月は、普段の満ち欠けとは違って、へんに丸い欠け方をしている。
「あそこが山頂だ。岩が突き出ているだろう」
淵季の側により、指先を見つめる。山道はあと少し行ったところで途切れていた。その先は、草木のない、岩場である。
淵季が歩き出した。凜花があとに続き、私も山道の最後の数百歩を急いだ。
山頂に出てみると、月はずいぶん小さくなっていた。新月明けの細い月とは違う。輝きは闇に押しやられて月の端に集まっているが、もう、弱い。
「間に合ったな」
「淵季様、どうぞ」
凜花が背負っていた袋から、一抱えもある丸い璧を取り出した。玉でできているのだろうが、水差しを置く小さな円卓ほどもある。天板と違って、真ん中に丸い穴があけられていた。
璧といえはこの形だ。しかし、表面に彫刻を施すものも多いのに対し、こちらはよく磨かれている。鏡のようだ。
「よし」
淵季は璧を受け取り、月に向かって捧げ持つ。
傍らで、凜花が偃月刀を構えた。
月光はいよいよ弱くなり、見守っているうちに金色の輝きが消えた。
刹那。
雷が淵季に落ちた、ように見えた。
見上げると、月は金色を失い、満月の形に赤く光っている。
一方、淵季が抱えた璧には金色の光が宿っていた。
「欧先生、さがって!」
凜花が緊張した声をあげた。私はとっさに飛び退き、岩の後ろに隠れる。偃月刀が風を切る音が聞こえた。
覗くと、凜花が青白く光るひとがたと対峙している。ひとがたは、小さい。目をこらすと童のように髪を耳の上で結い上げている。ずいぶん、線の細い男児である。
いや、ただの男児ではあるまい。妖怪か、妖精か。
「よけいなことを」
男児の方から厳かな声がした。子どものものとも思えぬ、低くて空気を震わす声だ。男児は淵季の持つ璧に手をかざすと、ふっと肩のほうに払った。淵季が、がくりと膝をつく。表情をうかがおうとするが、うつむいていて分からない。ただ、金色に輝く璧を抱えたまま、地面へと傾けられた腕からは力が感じられない。
気を失っているのかもしれない。
男児が再び、淵季に手をかざした。凜花が二人の間に入ろうとし、男児が凜花に視線を振る。
「やめろ!」
私は岩陰から飛び出し、凜花と男児の間に入る。びりっと体がしびれた。男児はまっすぐに私を見上げている。
「欧陸洋と申す。そなたは」
「吾を見てわからぬものに名のる名はない」
男児が私の心臓に手をかざした。
「待て。そなたは誰だ。さきほどの轟音と共にやってきたのか。淵季に何をした」
「淵季?」
「璧を持っている男だ」
背後の気配をうかがうが、淵季のほうからは動きが感じられない。ほんとうにかけらも意識がないのだろう。
この男児は、さきほど月の光が消えると同時に降りて来た何かに違いなかった。璧の輝きに引き寄せられたのだろう。辺りは暗く、ほかに目印になるようなものはない。
「時間がない。あの璧を壊す」
男児はいらいらと赤い月を見上げた。
「おまえに用はない。殺す時間が惜しい」
男児が手を払った。とたん、私は脇腹に強い衝撃を受け、横様に倒れる。
私には目もくれず、男児は淵季へ向かった。凜花がしゃがんで、淵季の肩を支えていた。彼女は男児に気づき、偃月刀を向ける。淵季の手許の璧はというと、まだ金色に輝いている。
「璧を渡せ。それがあっては、わたしは月に戻れぬのだ」
男児はそう言って、凜花の頭に手をかざした。
そのとき、偃月刀が光った。
空を見上げると、月の端が金色になっている。
「ああ、馬鹿め」
男児はうめいて、璧のほうに数歩、ふらふらと進んだ。
かと思うと、そのまま、璧に吸い込まれる。
淵季の持つ玉璧は、金色を失い、淡く青白い光を放った。
まるで、あの男児の肌の色である。
「……終わったか」
淵季の声がした。私は立ち上がる。脇腹がまだ痛く、十分に力が入らない。
「淵季、無事か」
月光を浴びた淵季が、あの男児のような青白い顔でうなずいた。
「前に噂を聞いたことがあってな。例の璧は、月光玉璧という。月食の晩に月から弾かれた一光が地上に降り、山頂にあった璧に宿ったものだとかいう話だ。月光は月に戻りたがったようだが、その璧を抱えた男が許さなかった。まあ、その男は璧を手放すことはできなかっただろうがな」
淵季は淡く光る璧を、凜花の背負う袋にしまった。手は震え、未だ立ち上がる気配がない。私の視線に気づくと、淵季は、はは、と小さく笑った。
「その男はな。遠い先祖が王家に連なるものだった。まだ、皇帝などいない時代の王家だ。家に唯一残された璧は、命よりも大切なものだった。それを時の権力者に渡さず、刑を受けて歩けなくなり、山頂に埋められかけても、やはり璧を手放さなかった。その晩は月食で、刑吏が男を殺そうとしたところ、空から大きな音が響いた。刑吏は気を失い、目が覚めると、男は璧を抱きしめたまま死んでいたという」
淵季は両手のひらを、自分の顔の前にかざした。
「俺は、死ななかったな。月光が降りてくる間際、岩の上に璧を置こうとしたのだが、璧が腕に貼りついたようになっていた。さすがに死んだかと思ったよ」
「欧先生が、がんばってくださいました」
凜花が涙声で告げた。おや、というように、淵季がこちらを見つめる。
「おまえ、月光とやりあったのか。案外、胆力があるな」
死にそうだった男に言われたくはなかった。
私は脇腹をさすりながら、彼に近づいた。
「月光を宿した璧を、命がけで得て、どうするつもりだ。すでに月光玉璧は目指す先にあるんだろう?」
「俺の話を聞いていたか? そんなに念のこもった璧を俺たちに渡すとでも思っていたのか」
「そう簡単には行かないのはわかっている。だから、私がついてきたのではないか」
「俺は元から交渉する気はないよ。奪う気もない」
いやな予感がした。
「まさか、淵季。明日には帰途につくとかいうんじゃないだろうな?」
「よくわかったな」
つまり、淵季は今得た月光玉璧を、命を受けて取りにいった璧だと偽って渡すつもりなのだ。
「陸洋は、それらしい北方での冒険譚でも考えておいてくれ。いずれにせよ、俺が得たのは月光玉璧だ。問題はあるまい」
ようやく体が戻ってきたのか、淵季は立ち上がり、伸びをした。
「いくら難しい仕事だからって、命をかけて偽物を作ることはないだろう」
「何を呆れているんだ。例の璧は、ぜったいに入手不可能なんだよ」
「どうしてだ」
「璧を守っているのが、例の男の子孫だからだ。先祖がそこまでして守ったものを渡すと思うか? 北方でのわが国の統治がどうこう以前の問題だ」
淵季が月を見上げた。
私もつられて上を向く。
空高くのぼった月は、すでに満月の形を取り戻していた。
〈おわり〉
お読みいただきありがとうございます!
今回は、「璧」の話。
穴の小さいドーナツ型のもので、翡翠で作られたものなどがあります。大きさも、三十センチを超えるものから、手のひらサイズまでさまざまのようです。
璧といえば、「和氏の璧」という話が有名です。
楚という国にいた卞和という男性が石を王に献上しようとするのですが、よい石だとなかなか認められず、逆に刑を受けてしまいます。
実際、磨いてみたら、よい石であり、王はそれを「和氏の璧」としたのでした。
後にこの璧は、趙の国に渡ります。秦王が壁をほしがるのですが、藺相如が守り抜いたくだりは、「完璧」という故事成語の由来としても有名なものです。
まあ、人の璧を奪うものではないよ、というお話でした。
では、またお会いできることを願って。この度はほんとうにありがとうございました!




