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優等生と落とし穴

 新学期三日目にして彗星の如く現れた、異例の転校生。

 やはりその日一日は、話題も視線も彼女が独占していた。


 国語の授業では、

「つららは汚い。だからもう舐めるのはやめよう……そう思いながら、ゴン太は家路につくのでした」 

 声優顔負けの朗読を披露。


 数学の授業では、

「これこれこういう式で……フェルマーの最終定理は解けるというわけです」

 明らかに高校生の範囲ではない数式を解き明かし。


 英語の授業では、

「Сердечно благодарю вас.」

 何故か最終的にロシア語を用いて。


 理科の実験では、

「こうすることで、小型の爆弾が作れるというわけです。ああ、殺傷力はないのでご安心を。ありとあらゆる場所に仕掛け、状況に応じて威嚇したり陽動するのが用途ですので」

 教師の仕事を奪い、授業をしていた。題して『猿でもわかる! 安心安全な爆弾の作り方』。

 

 明らかにカタギの者が持っていい知識ではないのだが、生徒は皆ヤンキー。優等生なら何を知っていてもおかしくない、という理解をしたようだ。


 放課後になる頃には、既に澪は。

『時時雨さん、お疲れっした!!』

「はい、お疲れ様です」

 クラスのドンとなっていた。


 成績が優秀で見目麗しい澪は、人を惹きつけるカリスマがあるのだろう。普通の学生のみならず、塵芥の如き不良共さえ従えてしまう。 

 

「……」


 壊涙はどこか薄ら寒い心地だった。なの程ではないにせよ、ちま高の生徒は頭が悪い。というか野生動物的な習性を持っている。

 知識をひけらかされたりすれば、むしろ反感を持ちそうだというのに。

 それに。


 一日かけて評価を上げたというよりは、最初から澪は畏怖されていたように見えた。転校生に対する好奇の目、というだけでは説明がつかない、恐れと警戒を抱かれていたような――


「お待たせしました。さあ行きましょうか、なのちゃん……紅蓮塚さんも」

「うん!」

「……お、おう」


 澪の爽やかな笑顔を見て、壊涙は首を左右に振った。

 沸々と湧き上がる疑問符を、振り払うかのように。



 そのまま三人で下校、とはならず。

 新参者の澪に、校舎の案内をすることになった。なのと壊涙も新参者なのだが……そこをツッコむのは野暮だろう。


 階段を下りて、三階の廊下。


『ヒャッハー!!』

『悪いヤツ、大体友達ィ!!』


 そこには一学年上、二年生の教室がある。放課後だから、というわけでもないだろうが、廊下はマリ〇カートのレース場と化している。

 愛車でしのぎを削り合う、妨害あり、何でもありの違法デスマッチだ。


「こんな感じで、皆レースしてるよ! 自転車で!」

「ふふ、微笑ましいですね」


 ――コイツ、肝が据わってやがる!?


 初めて目にするはずのディストピアにも、澪は眉一つ動かさない。

 ただ、傍らのなのに微笑みかけるばかりだ。


 三階隅に位置する生徒指導室から、

「ぐふっ……もう、やめっ……」

「吐け、首謀者は誰だ! 言わないなら、足の指も……」

「ぐっ……仲間は絶対、売らなぁぁぁぁあ゛ああ゛ッッッ!!」

 地獄のような会話が聞こえてきても。


「漫才の練習かな? 澪ちゃん、なのたちもコンビ組む? なのがツッコミね!」

「ふふ、では関西弁の練習をしなくちゃいけませんね」

「なんでやねーん! どないやねーん!」


 ――天然か、天然なのか!?


 楽し気に笑っている。どこまでレベルを上げれば、ここが地獄だと気づくのだろうか。いっそ本物の地獄に堕ちるまで気づかないのではないだろうか?

 壊涙は最早、目の前の少女に戦慄を覚え始めた。

 

 ――アタシの気のせいか? コイツ、手足を捥がれてもニヤついてそうな凄味があるような……。


「どうかしましたか、紅蓮塚さん?」

「ぅおっ!?」


 思案に耽っていると、いつの間にか澪の顔が視界をジャックしていた。

 

 ――アタシに気取らせずに、肉薄してきやがったッ!? 油断のせいか、まぐれか、それとも……。


 壊涙の心配など知らない澪は、澄んだ声を発する。


「私、紅蓮塚さんとも仲良くしたいなぁ、と思っています。なのちゃんがお世話になっている方という事は、私にとっても間接的に恩人なので」

「ああ、わりぃな。別に機嫌が悪いわけじゃないんだが」

「壊涙ちゃんは優しい子だよ! 静かでね、むすーっとしてるけど、笑顔が可愛い子なんだよ! ね、壊涙ちゃんっ」

「自分でそうだな、とか言うわけねーだろっ」

「照れてるのも可愛い~♪」

「う、うるせぇな」


 なのの言葉で、場の空気がぽわんと和らいだ。

「ふふふふ」

 澪も上機嫌に見える。どこか狂気を感じたのは気のせいかもしれない。うん、きっと気のせいだ。

 ポジティブに考え始めた壊涙の目を見据えて、澪はスッと双眸を細めた。


「……お二人は、大変仲がよろしいんですね」

「うんっ!」


 なのが即答してくれて、胸に心地いい熱が広がる。毛布に包まれるような安堵に支配され、壊涙は気づくことができなかった。

 

「……チッ」


 澪の喉、その最奥辺りで、空気が軋んだ事に。


 

 そこからはなのを介して、少しずつ澪と壊涙の会話も増えていった。

「そういや気になってたんだが、お前剣道でもやってんのか?」

 そう、澪は竹刀袋らしく物を背負っているのだ。ちなみに壊涙は即座に実戦へと移行することを考え、木刀を腰元の鞘に納めている。

「ええ、精進中の身ではありますが」

「澪ちゃんはね、凄いんだよ! おうちが剣道の道場でね、澪ちゃんね、日本一強いんだよ! 優勝なんだよ!」

「へぇ……凄いな」

「時の運ですよ。自惚れるつもりはありません」


 どうやら澪は、剣道を嗜んでいるようだ。それも全国優勝、というからには、かなりの実力の持ち主。

 壊涙も一時期伝説を築いた不良とはいえ、喧嘩の強さは技術に裏打ちされたものではない。ただただ生まれつき、並外れた膂力を持っているだけだ。

 故に純粋に、鍛錬の末に強さを磨いたという澪に敬意を抱いた。

 

「澪ちゃんは凄いけどね、でもね、壊涙ちゃんも凄いんだよ! いっぱいの人に囲まれてもね、ぼこぼこーって! しかもね、峰殴りだから大丈夫なんだって! 凄いでしょっ?」

「ちょ、小和水」

「壊涙ちゃんの凄さを、知ってほしいー!」

 

 こっぱずかしい事をのたまうなのの口を慌てて塞いだが、もう手遅れだ。

 しっかりと、澪の鼓膜へと届いてしまった。


「お強いんですね、紅蓮塚さんは。いずれ手合わせ願えますか? 正々堂々、刀で語り合いましょう」

「いや勘弁してくれ……」


 まさかの宣戦布告に、溜息を吐くことしかできなかった。ルールに則った試合ならまず勝ち目がないだろうし、ルール無用だとしても幻滅される勝ち方しかできないだろう。壊涙にとって何のメリットもない勝負の約束に、気分が重くなった。


 目先に突きつけられたそんな果たし状のせいで、またしても壊涙の目は曇っていた。気づけなかった。

 なのは、壊涙が強い、と言っただけである。

 木刀を使う、などと一言も言っていない。


『刀で語り合いましょう』


 木刀での打ち合いを前提にしたその言葉に、違和感を抱くことができなかった。これまで、シグナルは多数出ていたのに。

 胸の奥深くでは、アラートが鳴っていたのに。


 壊涙はどこまでも鈍く、迫りくる脅威に気が付くことが――とうとうできなかった。

 この時既に、切っ先が向けられていることに。

 壊涙はもう少し後、気が付くことになる。



 散策を一通り終えて。三人は校舎を後にしていた。頭上から降り注ぐ光は、既に赤みがかった夕暮れ色。

 カラスの鳴き声が、寂寞とした感傷を呼び起こす時間帯。


「はー、今日も学校楽しかったー! 明日からはもーっと楽しいよねっ♪ だってだってー、ぎゅっ!」

「あらあら」

 なのが、澪の腕にぎゅっと抱き着いた。恋人に甘える少女のように、慣れた仕草で。

「澪ちゃんがいるんだもんっ! えへへ~、澪ちゃん大好きっ!」

「もう……私もなのちゃんの事、大好きですよ」


 バニラ味のやり取りを一歩後ろから見て、壊涙は歯軋りしている。手の届く範囲に電柱などが存在していれば、もぎ取って澪の頭部を叩き割っていたかもしれない。殺戮のくるみ割り人形と化していたかもしれない。

 それほどに壊涙は、ギラギラと嫉妬の炎を滾らせていた。


 ――なんだよ、小和水の奴。アタシへの当てつけか? 見せつけてんのか? ヤキモチ焼かせようったってそうはいかねーぞ。別にアタシはお前とはただの友達だし何とも思ってな……って!?

 

 脳内で負の感情を垂れ流していた壊涙を、柔らかな感触が現実に引き戻す。ぽかぽかと温かい体温が、いつの間にか壊涙の腕を包んでいた。

「えへへ、壊涙ちゃんも大好き~!」

「……ッ」

 何の気なしにそんなことを言ってのけるなのは、ナンパの才能があるかもしれない。

 陳腐な口説き文句だが、今確かに一人の少女が心を射抜かれたのだから。


 ――何して、コイツ何して……!? つか大好きって、え、え!? そういう事!? 待て小和水、まだアタシらにはそういうの早いっていうかなんか当たって、クソ小さいけど柔らかい何かが当たって……! 


 小学生にしか見えないとはいえ、小和水なのはれっきとした高校生。どうやら、控えめとはいえ胸部に膨らみを備えているらしい。

 その背徳的な事実が、壊涙の脳髄を揺さぶった。アゴに拳を喰らったかのように、視界が揺らめく。


「壊涙ちゃん、お顔赤いよ? 熱ある? んー……?」

「へぁっ」

 なのの紅葉みたいな手が、壊涙の額にあてがわれる。限界だ。

 無自覚なスキンシップで、壊涙の心はもうブレイク寸前!


 そんなタイミングを見計らったかのように。

 校内放送のチャイムが鳴り響いた。


「ふにゅ? 何だろ」

 そちらに興味が移行したのか、なのの身体が離れていった。

 

 ――た、助かった……!


 九死に一生である。ありがとう校内放送。自分たちには無関係であるに決まっているが、君のおかげで一人の命が救われた。

 しかし、その放送は無視できる内容ではなかった。


『一年二組の小和水なのさん。大至急、職員室までお越しください』

 まさかの、なのを呼び出す放送だった。それを聞くなり、当人は。

「え!? なの、呼ばれちゃった! 表彰される? 早起き偉いで賞に選ばれた? これはいかなきゃ! ごめん二人とも、先に帰ってて~!」

 特売日の主婦を思わせる機敏な動きで、校舎へと駆けていった。


 あっという間に、唐突に。なのが消えて、残されたのは友人未満の二人。

「あー、えっと……小和水の事、待つか?」

 気まずい沈黙はごめんだとばかりに、壊涙から切り出す。

 澪はおとがいに指を当てて、「んー」と数秒思案した後、頷いた。

「ええ、そうしましょうか。きっとなのちゃんはすぐに来ますから……」


 間を置いて、校舎へと踵を返しつつ。

「少しお話しましょうか。二人きりで……ね?」

「……お、おう」

「決まりですね。では、あちらへ行きましょう。なのちゃんには、連絡しておきますから」

 有無を言わせぬ語気で、壊涙との対談を所望した。


 その時、澪は笑っていたが……瞳に輝きがないように、壊涙からは見えた。だがきっと、夕焼けのせいだろう。

 橙色の光が影を落としているせいだろうと、それ以上深く考えはしなかった。


 澪に導かれるまま、壊涙は校舎裏の日が当たらない場所へ誘われた。喧嘩に明け暮れる不良たちの声も、ここまでは殆ど届かない。

 ちま高にあるまじき静寂が、二人を等しく包み込んでいた。


「んで、話つっても……悪いけど、アタシは口下手だぜ?」

「ふふ……いいですよ。それも個性ですから、別にハナから期待していません」

「……? そうか」


 澪の言葉は、文字にすれば喧嘩腰だが。

 彼女が醸し出す上品な雰囲気と、穏やかな語り口調のせいか、壊涙の怒りを買うことはなかった。


「それでですね……紅蓮塚さん。貴女、随分なのちゃんと親し気みたいですね」

「いや、まあ。つってもお前の方がずっと仲いいじゃねーか」

「ええ……積み重ねた年月が違いますからね。何十倍も、何百倍も……なのちゃんの隣にいましたから」


 自慢か? と一瞬思ったが、壊涙がなのを好ましく思っていることを、目の前の少女は知らないはず。

 想い人の幼馴染、というポジションへの嫉妬が必要以上の警戒心を抱かせているのだろうと、壊涙は判断した。


「でも、ですね。紅蓮塚さん」

「あ?」

 澪はゆっくりと、ゆったりと壊涙に近づいてくる。壊涙も小さいほうではないのだが、澪は女性としてはかなり長身で、百七十センチ近くある。

 自然と、見下ろす澪と見上げる壊涙、という構図が完成した。


「貴女は、私の何百倍も何千倍も短い時間で、それも大した手間をかけることもなくその椅子に座ってますよね。なのちゃんの友達、という時代が時代なら玉座よりも尊い最上の椅子に」

「は? んだよ……おい」


 澪は笑顔を貼り付けたまま、整った顔をこれでもかと接近させてくる。

 既に二人は、鼻先が触れ合う程の至近距離、キスに最適な距離である。

 だが、人目を忍んでキス、などという微笑ましいシチュエーションではない。


「ねえ、どうやったんですか? これですか? この……」

「なっ……!?」

 胸倉を掴むような剣呑さで、澪は……壊涙の胸を、制服越しに主張する豊かな乳房を鷲掴んだ。


「この下品な乳房で誘惑したんですか? だらしのない、牛乳が出るわけでもない非生産的な脂肪の塊を駆使してなのちゃんを篭絡したんですか? 卑怯者。貴女は淫らで浅ましくて下品な売女です。卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者」

 

 呪詛に呼応するかのように、強まっていく握力。

 胸を引きちぎるつもりかもしれない。ゾクリと、壊涙の背筋が凍った。


「ッ……離れろ!」

「おっと」


 繰り出した拳を、澪は上体を反らしなんなく回避。だが、一瞬とはいえ隙が生じた。

 壊涙はひとまず、バックステップで距離を取った。


「んだよ、お前。人の胸まさぐりやがって……そっちの趣味でもあんのか?」

「自惚れないでください。貴女がぶら下げてるだらしない肉塊などに、蚊ほどの興味もそそられません。スーパーで配ってる牛脂の方がまだ煽情的ですらあります」

「っ……嫉妬かよ、てめぇ。確かにお前、背は高いけど……ねーもんな。崖かと思ったぜ。登山家でも匙投げるレベルの断崖絶壁な」


 不良の悲しき性か、本能が目の前の相手を『敵』と認めたからか。

 壊涙の舌鋒も鋭く尖る。

 ちなみに、壊涙が口にしたのは事実無根の誹謗中傷ではない。


 事実、澪は長身で誰もが羨むスタイルの持ち主なのだが……唯一、胸だけはなかった。人によってはドンマイと励ましたくなるほどのド貧乳なのだ。

 

「程度が知れますね。小さい胸を煽る……低俗な小学生男児ですか貴女は。まあいいです。問答は最早、無用。紅蓮塚さん、お願いがあるんです」

 澪は振り返ることなく、竹刀袋に手を伸ばした。そして、目にもとまらぬ速さで得物を取り出した。


「消えてください。なのちゃんの前から、永遠に」


 澪が取り出したのは、二振りの美しい刀剣。暗闇でさえ銀光を放つ、美しき日本刀だ。

 そう、日本刀。木刀ではなく、二本の日本刀。ダジャレでも、シャレでもない。


 澪はウォーミングアップとばかりに長剣で風を切り、告げる。

「ご安心を。刃が逆についている……逆刃刀というやつです。斬れないし死にませんよ、多分」


 おろろな流浪人が愛用する刀であり、不殺の象徴。だが現実的に考えれば。


「そ、それは漫画の話だろうが……! 鉄の塊だぞ!? んなもんで殴れば死ぬからな!?」

「じゃあ死んでください」

「ふざけんなッ!」


 澪の殺気が正真正銘本物であることを察して、壊涙は腰元の鞘に手を伸ばした。そして一気に、木刀を抜き放つ。


「どうやら痛い目見ないと分からねーバカみたいだな」

「バカは貴女ですよ。そんな木刀で、私の二刀流を突破できると思うだなんて。滑稽の極みです……本当に、死にますよ?」

「――!!」


 壊涙の脳裏に、剣道全国優勝という言葉が浮かんだ。あくまで試合における強さ。自分のように、泥にまみれる実践の経験はないだろう……そうどこかで思っていたのかもしれない。


 甘かった。

 瞬きすら、したつもりはない。

 だというのに壊涙の頬からは、一筋の朱が滲んでいた。

 攻撃を喰らってから認識するのは、生まれて初めての経験だった。

 それほどまでに、澪の太刀筋は鋭く、素早かったのだ。


「知っていますか、紅蓮塚さん。ちま高は名前さえ書けば入学できますが……転入してくる場合に限って」

 澪は剣先に付着した血液を、指先で拭いながら続けた。

「ランダムに選出された在校生相手に、五人抜きする必要があるということを」

「……!?」


 そう。壊涙は知らない仕組みだが、この学校に転入してくるためには実力を示す必要がある。それが、在校生との決闘。

 なのの前席にいた、今はなき生徒も澪と決闘を交わし……敗れた。

 そう、澪は圧倒的強さを示し、無傷で五人の豪傑をねじ伏せたのだ。

 だから、ここにいる。クラスメイトが澪を畏怖していた理由は、それだ。


 ――知らねえよ、そんな仕組み。でも……コイツが、マジで強いってことは分かる……アタシが戦った中で、一番かもしれねぇ。


 ここ数日の相手は雑魚のため楽勝だった。とはいえ、壊涙にはブランクがある。長らく実戦から遠ざかっていた、空白の時間が。

 全盛期でさえ厳しい勝負になるのは間違いないというのに……こんな状態で、勝てるのか?

 剣士として弛まぬ努力を積み続けてきたであろう、澪に。


「そして私は慎重ですので……貴女に関するデータを集められるだけ集めました。一夜漬けなので漏れは多いですが、戦闘スタイルくらいは、把握できているつもりですよ」


 壊涙のこめかみに汗が浮かんだ。

 対する澪は、平時と変わらない穏やかな表情。うっすらと微笑みすら浮かべている。

 壊涙は木刀を強く握り込んだ。


「やる気を出して頂けて嬉しいです。では、正々堂々試合と行きましょうか。ああ、そうだ」

 一触即発の雰囲気の中、澪がおもむろに刀を降ろした。


「少し間合いを開けましょうか。お互いに、これだけ肉薄していてはやりづらいでしょう? 二歩ずつ下がりましょう」

「……ハッ、お優しいことで」

「正々堂々が、時時雨流の信条ですから」


 先に、澪が二歩下がった。そして、二本の刀を構えて、待ち受けている。

 

「……上等」


 久しぶりの血沸き肉躍る闘争を前に、壊涙の口角が凶悪に吊り上がった。そして、壊涙は。待ちきれないとばかりに二歩下がり――


「え」


 そこで、地面が崩れた。澪を見据えていた視界が、ぐんぐんと降下していく。止まらない。落ちる。


 ――落とし穴!? ぐっ……!


「ぁぁ!」


 すんでのところで、縁に手をかけることに成功した。とはいえ、宙ぶらりんの状態だ。底が見えない程の深い穴。

 落ちればただではすまないだろう。


 しかし、壊涙ならばすぐに戻れる。片手で体重を支えることなど造作もない……妨害さえなければの話だが。


「ぐっ」

 グリッ、と手の甲を襲う痛みに、壊涙は顔を顰めた。グリグリグリ、と楽し気に痛みを与えてくるそれは、黒いローファー。

「馬鹿正直ですね、貴女は、私は今時時雨流の剣士としてここに立っているわけじゃありませんよ」

 澪が履いている、黒いローファーだ。硬い靴底に踏みにじられ、壊涙の手が悲鳴を上げている。


「ほらほら、痛いですか? 痛いですよね? でも私の方が痛いですよ、ずっとずっと、貴女とは比較にならない程……心に傷を負いました」

「ッ……アタシが、何したってんだよ!」

「なのちゃんに近づいた……立派な犯罪です。許しがたい大罪です」

「ふざけ……ぐぁ……っ!!」


 澪の瞳は、暗く濁って。奥の奥では、漆黒の炎が揺らめいている。その炎は、粘っこく忌々しいものではあるが、先ほど壊涙が抱いた感情と同質の物だ。

 澪は、それを隠すこともせず、壊涙の頭蓋に染み込ませるかのように語った。


「私はなのちゃんを愛しています」

 一片の疑いもなく、確信しているような口ぶりだった。どこか恍惚とした声色でさえある。


「友達としてではなく、恋愛対象として恋焦がれています。ずっと、ずっと……時を重ねるごとに募って募って、溢れてしまいそうなほど、愛しているんです。幼馴染ですよ? 誰よりも誰よりもなのちゃんを想い、幸せにするためのプランもあります。ですから……」


 ドスッ。壊涙の手のすぐ横に、刀が突き刺さった。次はお前を貫くと言わんばかりに、眼前に突き立てられた。

 壊涙はようやく理解した。


 ――コイツはやばい……最悪の敵だ。


 目の前にいるのは、悪鬼羅刹よりも質の悪い怨敵。


「消えてください、可及的速やかに。私となのちゃんの恋路に、虫けらの羽音は不要です……これ以上私たちの周りを飛び回るというのなら」

 敵は壊涙の手を踏みつけたまま、しゃがみ込んで言う。


「羽をもがれて死んでも、文句は言えないですよ?」

「……ッ!」


 転校生、時時雨澪は。

 なのにとっての大親友かつ幼馴染で。

 壊涙にとっては――


 

 相性最悪の、恋敵のようだ。

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