狐の嫁入り
「傘はいらんかえ」
「傘ぁ?」
俺は耳を疑った。この晴れ渡る青空をこの老婆は見ていないのか?この辺りは長年干ばつの被害にあっている。池は干上がり、川は流れず、田畑は砂ぼこりをあげるだけだ。それとも老人特有の病に骨の髄まで侵され、こちらの世界から逃げ隠れているのだろうか。この病は誰にも治せない。老いという病は。
「傘があんたには必要さ」
老婆は手に持った黒くて分厚い傘をこちらに差し出してきた。その傘は一見すると何の変哲もない傘だが年季が入っているように見える。材質は何だろうか。まるで闇を織って作ったようなその布は、たしかにどんなものでも通さないような風格を与えている。傘としては高級品の部類に入るであろうことは、俺にも分かった。
「俺に傘が必要ってのはどういう意味だい?」
俺は好奇心に負けて聞いた。
「あんたの行く地には雨が降っているってわけさ。そこは雨が止むことのない地。この世のあらゆるものが流される地なのさ。そこであんたは雨に打たれることになる。この傘は私からあんたへのプレゼントさ。あんなに打たれちゃあ、あんたの頭がたとえどんなに硬かったって、まいっちまう。あの地に降る雨は、この世のどんなものも穿つ力を持っているのさ」
「ほほう。雨だれの一滴岩をも穿つってやつだね。でもなぜ俺はそんなところに行くんだい?俺はそんなところべつに行きたいとも思わないがね」
「そりゃあんたが雨を連れているからさ。ほらごらん。この太陽に焼かれた街を。この街には全く雨が降らなかった。でもあんたが来た。雨を連れて。じきにこの街は雨に恵まれる。これはあんたのせいなのさ。あんたは雨と共にある。そんな人があの地に導かれないわけがないのさ。さあさ、この傘を持って出かけてごらん。この地はもう大丈夫さ。あんたが雨を連れてきてくれたからね。この傘はそのお礼だよ」
てんで話が見えない。雨が降るって?長年雨の降らなかったこの街に?だめだ。疑問がどんどん湧いてくる。頭が沸騰しそうだ。暑さのせいかもしれないな。どうすっか。
「ありがとう、ばあちゃん。くれるってんならありがたくいただいていくよ」
まあ日傘がわりにはなるかもしれない。そう思った俺はその老婆の傘をもらうことにした。どうみても普通でないその傘もこれから先必要になることがあるかもな。崖から落ちるときのパラシュートとか。
「気を付けていきなよ。その街には何もないのだから」
「ありがとな、ばあさん。お礼になにかほしいものはあるかい?食料とか」
「いらんよ。あんたは雨をくれた。それだけで十分さ」
「そうかい」
俺は老婆から傘を受け取ると、思った以上にズシリとくる重量に驚きながらそれを背中のリュックサックに刺した。
「じゃあな、ばあさん。はやいとこ逃げなよ。西の方はまだここよりはましだったぜ」
「あんたも気を付けな。流されるんじゃないよ。流れに逆らってこそ生きるってもんさ」
「さすがだな、ばあさん。肝に銘じておくぜ。じゃあな」
その街を出て、頭上を仰いで見るとやはり雲一つない晴天だった。
「ほらな、雨なんて降らねえじゃねえか」
そう言ったときだった。雲一つない青空から水滴が落ちてきた。
「嘘だろ」
ぽつりぽつりと雨が降り始め、最初はまばらだった雨も次第に強くたたきつけるようになっていった。
雨が降ったので俺は傘を差した。その風貌通り、傘は激しい雨にも負けず、俺を雨から守ってくれた。俺は傘を差しながらポツリと言った。
「狐にでも化かされたかな」