001
スィースタン大陸を統治するメルクルシア聖教国は、その国号にも冠しているように、聖教と呼ばれる神の教えを国教として掲げている。
唯一絶対の神のみを信仰の対象として、他者への博愛や献身、寛容を説く聖教の教えによってメルクルシア聖教国がこの大陸を統一すると、その信仰は国民の義務となった。
以来、三百年余り。
平和を尊ぶ聖教の教えによって、大陸からは人と人との争いが根絶されたといって良い。
だが、それでも。
未だ、この国の民は平穏とは言い辛い生活を余儀なくされていた。
初夏の陽光を浴びて輝く、緑豊かな平原と森の広がる、スィースタン大陸南部の牧歌的な風景の中。
その日、ラクト少年は襲われていた。
神様、神様、どうか助けて!
息を切らせて走りながら、首から吊っている聖印の銀細工を力いっぱい握りしめて、心の中で何度となくそう祈る。
ここ数日で一気に夏らしくなってきた陽射しの下を全力疾走しているのだから、額からはとめどなく汗が噴き出してくるが、それを拭っている暇すらない。
走るラクト少年の後を追いかけているのは、巨大なハサミムカデだった。
ハサミムカデはその名の通り、ハサミのように大きく発達した顎を持つムカデだ。
スィースタン大陸全土に幅広く生息しており、それほど珍しい虫というわけでもないのだが。
「ひ、ぃぃいいい……」
よせばいいのに、走りながら背後を盗み見たラクトの口から悲鳴のような声が漏れる。
突き出した一対のハサミの奥にある口をギチギチと鳴らしながら彼を追うハサミムカデは、少年の身長とほぼ同じほどの大きさがある。
ハサミムカデは本来であれば、どれほど成長したところで大人の掌から少しはみ出す程度の大きさにしかならないはずだった。
だが、異常なのは大きさだけではない。
身を包む外殻は黒鉄の鎧のように分厚く、同の両脇から突き出す無数の足は一本一本が鉄杭のように太い。
体とともに肥大化したハサミの付け根辺りでは、目と思しく部位が真っ赤な妖光を放っていた。
これが、尋常の生物であるはずがない。
呪骸だ。
ラクトの脳裏に、この恐ろしい怪物の正体が過ぎった。
神の敵である妖魔によって呪われ、狂わされた生き物の成れの果て。
妖魔が操る悍ましい妖術によって呪骸と化した生き物は、肉体が酷く強靭になり、死に難くなる。そして、人間を見境なく襲うようになるのだと、彼は教わった。
ラクト少年の住んでいるここ、テッサの街周辺では、このところ呪骸による被害が頻発していた。
事態が解決するまで、聖堂騎士の護衛もなしに街の外へ出てはいけないと固く言いつけられてもいた。
だというのに、彼は今朝早く、大人たちの目を盗んで街の外へ出たのだ。
悪魔や悪霊が蔓延り、怪物が跋扈していた神代の昔ならばいざ知らず。
数多の英雄たちの活躍によって、そのほとんどが討ち取られた今となっては、妖魔や呪骸というのは英雄譚の中に語られる存在でしかない。
少なくとも、彼にとってはそうだった。
遠くの街で妖魔が出ただとか、呪骸によって街が一つ滅んだだとか。
そういった話を年に一度は耳にすることがあっても、それを現実の話として聞くことができなかったのだ。
実際に襲われることとなった、今日、この時までは。