エッセイの感想欄で「議論」しちゃダメなのかな?
ビブリオバトルという遊びをご存じですか?
簡単にいってしまうと、誰かが紹介した本の中でどれが1番面白かった? というのを決める遊びです。
スマホで気軽に検索できるし、SNSなんかでも欲しい情報は浴びるように手に入る。
そんな時代だから、自分の興味関心から少し離れたところにある物事に触れる機会って減ってきていませんか?
ビブリオバトルに参加すれば、自分じゃない誰かが熱くまたクールに紹介した本の中から、自分の裾野を広げる1冊が見つかるかもしれませんよ?
さあ、あなたのイチオシ本も紹介してみてくださいな♪
ちなみにビブリオバトルの公式ルールは以下の通りです。
(以下 Wikipediaより引用)
1. 発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる。
2. 順番に一人5分間で本を紹介する。
3. それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを2~3分行う。
4.全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員一票で行い、最多票を集めたものを『チャンプ本』とする。
(引用おしまい)
というわけで、ビブリオバトルという遊びが私は好きです。
たまーに、紹介者の話術が上手すぎて、自分が本から受け取ることの出来る感動を越えちゃう紹介などもありますが、そこもまた、一期一会なところが面白い。
紹介者が紹介される人と本を繋ぐところが大変興味深いので、機会があればみなさんも参加してみてくださいね(2回目)
先日、よそ様のエッセイにてビブリオバトルを非難している項目がありまして。
内容を拝読したところ、ビブリオバトルについて誤解されているように感じたので
ビブリオバトルは本そのものに優劣をつけるものではない点。
誤解があるように思えて気になりました。
「どの本が1番興味深く紹介されていたか」ということと、本の内容に優劣を付けることを混同されてるように見受けました。
紹介者のプレゼン力に優劣をつけるものなので、本そのものに格付けするようなものではないですよ。
と、感想を送りました。
その後、ご返信をいただけたのですが、ご納得はいただけてない様子。
こちらの思うところである「本の紹介する技を競うものですよー」という所を再度アピールしてみたのですが
『どの本が一番読みたくなったか?』という題目での投票は、論評そのものが得た票ではない、といった内容のご返信。
どうやら「紹介された本が読みたくなること」と、本を紹介した人のプレゼンは全くの別物と捉えておられるようで、これはどうしたら伝わるのかしら? としばし悩みました。
論評という普段使わない言葉も出てきたことで、少し硬質に要点をまとめて再度投稿しました。
こちらからの本文は以下の通り。
>『どの本が一番読みたくなったか?』
ということは
「どの論評に最も説得されたか」ということです。
よって論評の質を競っており、論評に票を投じるという競技がビブリオバトルですよ、というお話をしています。
正直なところ、こんなに通じないというか、引っかかるお話になると思っておらず。
感想欄に連投するのも嫌だけど、誤解を招く文章を挙げられ続けるのも辛いので祈りを込めてボタンを押しました。
作者の方としても感想欄が荒れるのは良くないことだろうし、もうお返事もいただけないかもしれないと思っていたところ、丁寧にお返事をいただけました。
それは詭弁ではないか、本に票を投じているというスタイルである以上とのこと。
まさか詭弁扱いされるとは思わず、衝撃を受けました。
詭弁、道理に合わない話をしているつもりはなかったので、どこが詭弁なのだろうと、せめて教えていただきたくてまたも投稿ボタンを押しました。
この時、個人宛メッセージにするべきかとかなり葛藤しましたが、作者の方が返信されている以上、感想欄を場にするしかないと心を決めました。
そして、この文章を書くに至る返信を頂きました。
内容は「感想欄」は議論する場ではないということ。
エッセイの小項目についての感想ではあるが、エッセイのタイトルにそぐわないので、もう関わらないでほしいこと。
また、ビブリオバトルについての章を他のテーマに差し替えること。
その旨の連絡でした。
追伸として、ビブリオバトルの章を差し替えたので、後日私が始めたやり取り、一連の感想を削除する旨、返信をいただきました。
この連絡を確認した時点で、ビブリオバトルに関するお話は別の項目として差し替え済でした。
誤った情報が配信され続けるという、こちらが最も懸念していた事態が避けられたので、結果としては良かったのですが、こんなこともあるのだなぁと、人生日々勉強させられる気持ちになりました。
すでに今まで書いたやり取りの履歴はどこにも残っていません。
もちろん作者の方からの連絡通り、やり取りの原因となったエッセイの一項目もすでに読めません。
作品の管理者である作者にも、感想の投稿者にも等しく感想を削除する権利があります。
一方的に感想を削除される例はいくつか見聞きしたことがありましたが、関連文章ごと感想を削除するケースには初めて接しました。
正直、衝撃的な出来事でした。
この件で考えたのが、感想欄のあり方についてです。
ここでお話するのは物語の感想欄についてではありませんので、その点はご了承ください。
エッセイやその他ジャンルの作品では、作者の思っていること考えたことが物語の形を取らずに文章として提示されます。
「私はこんなことを考えていますよ」と世の中に放つわけです。
その考えに賛同する方もいるでしょう。
もちろん反対する方も、疑問を持つ方も、もっと知りたいと思う方も。
その思いどこに行くと思われますか?
評価や感想、あるいはメッセージになると思うんですよね。
面白かった!
ためになった。
それは違うんじゃないの?
え、そんなことあったの?!
いろんな声があると思います。
作者は考えを世の中に投げたのだから、ある程度は読者からの反応を受け止めるべきじゃないのかな、と個人的には考えています。
考えたことを一般公開するという事は、他人からのリアクションを期待していないとは言えないはずです。
例えば今回の例のように、ある物事を非難・批判するようなものであれば、もちろん反論だってあるでしょう。
先般「あいちトリエンナーレ」の表現の不自由展について書かれたエッセイの作者がとった感想欄での対応は大変見事なものでした。
さすがにあの方のように……というのは、望みすぎだとは分かってはいるのですが。
書いた作品を1部とはいえ削除することについても、webという媒体ならではの行動力だなぁ
と若輩ながらに、世間の潮流に寂しいものを感じました。
間違ってないと思うなら公開し続けるべきだろうに、と。
これが物語であれば、作者の考える世界を享受するという基本スタンスを持っているので異論を唱えたりはしません。
物語ではなく直接の考えを世の中に放ったのだから、感想欄で議論をしてもいいのに、と私は考えます。
議論は誹謗や中傷ではないのだから。
その事に感想欄がふさわしいかと言うと、我ながら疑問ではありますが、他にふさわしい場所もこのプラットフォームには見当たりません。
スレッド式の掲示板でもあればいいのにと思ってしまうのは、SNS以前のネット感覚が残っているからでしょうか?
以上、を考えるきっかけになった、一連の流れのお話でした。
お付き合いありがとうございました。