嫁(仮)です
私がレンに最初にしたことは、頬を引っ張ることでした。
「ひたたたたた!? おひ、にゃにをすゆ!」
「あんまり綺麗だから人形かと思って」
私はもちもちの頬から手を放した。そりゃあそうでしょう。目が覚めたらふかふかのベッドで、辺りを見回せばヨーロッパの宮殿の一室のようなインテリア。そして窓辺でビスクドールみたいなものが椅子に座り船を漕いでいたのです。まだ十歳くらいでしょうか。深い青の布地を金の刺繍がきらびやかに彩る服、袖には緑の宝石のカフス。くっそ高価そうなコスプレだなと感心しました。なにより、血が通っているのか怪しい青白い頬にかかるさらさらの金髪。癖っ毛の私は心の底から嫉妬しました。
結果、少し頬を引っ張る力加減を間違えたことは認めます。一応、これは夢なのかこいつは人形なのか確認する意図はありました。しかし大福餅のようにみょーんとよく伸びたのには少々驚きましたが。生きていました。
彼は赤くなった頬を擦り緑玉の瞳を潤ませて呟きました。
「全く、仮にも四大国のひとつ、オーラリネリア王国の王カルロヒューレンなるぞ」
「おー……? レン……? まあいいや。私は真理紗。笹森真理紗」
とんでもなく長い横文字が聞き取れず、最初のオーと最後のレンだけしか拾うことができませんでした。というか、王とかなんとか言っていた気もしました。まだ中二でもないだろうに随分拗らせてるなぁと彼を生暖かい目で見始めた頃でした。
「目が覚めたの?」
そう言いながら扉を開けた女の子に目を見張りました。そちらの子には見覚えがあったためです。白いマーメイドドレスに銀糸の刺繍が入ったヴェール。長い長い袖にすっぽり覆われた手で口元の押さえています。髪は床につきそうなほど長くて、大きな瞳と同じ煌めく青。彼女はエレーヌ。私の人生を決めた子と言っていいでしょう。
「あ、迷子の子だ」
私が指差すとこくこく頷いて、レンに目を向けました。
「どう? わたし、なるべく無関係の女を連れてこいって言われたから、異世界まで飛んで頑張ったの」
「い、異世界だと!?」
これにびっくりしたのがレンでした。私はポンと掌を打ちました。
「なるほど、私はあなたに誘拐されたと」
「まあ、その言い方が正解な気がするの」
おっとりと自白してくださいました。しかしエレーヌは単なる実行犯。指示したのはレンだとわかったので、説明を求める眼差しを向けました。レンはギギギと軋んだ効果音が似合う動きで私へ顔を向けました。
「すまないが……君がここに来る直前、なにがあったのか教えてもらえないだろうか……」
あらこっちが先なの。とは思いましたが、どうやらレンも想定外のことが起きている様子。ましてやまだ小さい子どもですし、私が折れてあげることにしました。
「高校が夏休みに入ったので、バイトをみっちり入れていたのよね。それでいつものようにコンビニのバイトが終わって帰る途中、その子を見かけて――」
その時の衝撃は今でも思い出せます。公園の寂れたベンチを囲むがきんちょ達。なにかと思って見てみたら、似つかわしくない格好の美少女がいたのです。暑さに相当参っているようだったので、コンビニでアイスを買って与えました。そしてお話していると視界がフェードアウト……いわゆる異世界転移ってやつをしたのですね。
「――というわけ」
「わたし、ちゃんと優しそうな人を選んできたの。青いガリガリの、美味しかったの」
余程気に入ったのか、エレーヌはあたり棒でもないのにこのアイスの棒を大事にしています。レンは頭を抱えていたのですが、ややあって声を絞り出しました。
「今すぐ元の場所に帰してやれ」
私は猫かなにかか? とツッコミを入れたくなりましたが、帰していただけるに越したことはありませんでした。
「そうねぇ。私も叔母の夕飯作らなきゃいけないから、帰れるなら帰りたい」
しかしエレーヌは首を横に振りました。
「今すぐはちょっと無理なの。世界を渡るには時を選ぶの」
「どのくらい待てばいい」
焦りが滲んだレンの声に、私は少し好感を持ちました。誘拐犯に好感というのもおかしな話ですけれど。しかし近所の子ども達とそう変わらない年に見える誘拐犯を警戒しろというのも、私には無理な話でした。
「ひと月くらいだと思うの」
「長いな」
ほら、こうして私を気遣ってくれるのです。警戒しろというのもおかしな話でしょう。そこで私は「あのぅ」と小さく手を上げました。二人が同時にこちらを向きます。
「ただ待ってるっていうのも性に合わないし、もう一回誰かを誘拐してくる訳にもいかないでしょ? 訳アリみたいだし、私もなにか手伝わせてよ」
レンがくわっと目を見開きました。
「本当か!?」
「やっぱり困ってるんだね。で、私はなにすればいい?」
「じゃあ余の嫁のフリをしてくれ!」
「いいよー………って、え?」
「余だけを信じ、従え! いいな!」
「は、はぁーい……」
勢いに任せて引き受けてしまいました。というわけで、ただの女子高生が王サマの嫁のフリをすることになったのです。