ふたさし
prologue
「いい香り」
私に顔を近づけ呟く言葉。
私はそう言われるのが好き。言われなくても、そういうような顔をしてくれるのが好き。私が私である自覚が湧くような、そんな感覚があるのだ。
私がもし青い色をしていれば、きっとそうされたとき、赤く染まることができただろう。しかし、私は風に揺られた瞬間、ちょうど花びらの先が見えて、自分がすでに赤いことを知った。だから人間でいう表情は、残念ながら私には表現できない。出来ることと言えば、がっくりと肩を落とすように、うなだれることだけだ。
「これをひとつ、下さい」
目を伏せて、味わうように私の香りを楽しんでいるこの女性は、どうやら私を気に入ってくれたらしい。毎朝丁寧に、キリフキを使って水浴びをさせてもらっているお陰かも知れない。
言葉や表情での表現ができないのならば。と、私はできるだけ美しく見えるように、凛と振る舞った。
私達花の世界では、喋ることをよしとしない。美しきものは語らず、その振る舞いで伝えるのだと、本能めいた何かが、私の奥のほうから訴えかけてくるのだ。
きっとここにいる皆も、そうした本能があるから一言も喋らないのだろう。皆が一様に凛としている光景は、花である私から見ても、それはそれは美しいと思う。
背筋を正し、顔を上げ、まるでこの世のすべてを受け止めんとするような、そんな姿勢だ。花としてこれ以上に美しい姿勢があるだろうか。
しかし、この光景も今日で見納めとなる。ここから離れるのは少々心残りだが、それも仕方がない。むしろ、私はこの女性に気に入られたのだから、嬉々とするべきなのだろう。
花として、美しさや香りを評価してもらうこと、また、認めてもらうことは、身に余る光栄なのだから。
皆、さようなら。私に花としての在り方を教えてくれて、ありがとう。もしまた巡り会えるのならば、私はその時を楽しみにしていよう。
monologue
私は今、小さな水差しに飾られている。いや、正確に言うなら、水差しを模して作られた花瓶だと思われる。
ガラス製の滑らかな表面は、この上なく肌触りがいい。そこへ、水面に青い絵の具を垂らしたような、なんとも風情のある一本の筋が、底の方から花瓶の形を示すように、緩い螺旋を描いている。
デザインだけでなく、大きさをとってもあまり背の高くない私にちょうどよく、なかなか気に入っている。
また、私には名が与えられた。前の生活では考えられなかったことである。愛おしげに私の名を呼び、ふんわりと柔らかく微笑んでくれるのだ。
それは今まで与えられたどんな水分補給よりも、また、どんな日差しよりも、心地の良いものだと思う。
とどのつまり、確かに前の生活も捨てがたいものではあったのだが、私自身、今の生活を実に気に入っている。これが幸せというものなのか、私は満たされているのだ。
願わくば、私はこの窓際で、この花瓶で、あの女性のもとで、ずっと暮らしていたい。
女性は毎朝出かけるとき、決まって私をちょんと指先でつつく。心の中までくすぐったくなるような感覚だ。
玄関とはまったく真逆であるのだが、彼女はわざわざ窓辺にいる私のほうまで来てくれる。
それは習慣化されているようだが、もしこれがなくなるとすると、私の一日のモチベーションは、多分翌朝まで持たないぐらい下がってしまうと思われる。
今日も彼女は私にちょんと軽やかなタッチをすると、部屋を出て行った。
閉め忘れていったのか、窓が浅く開いている。もしかしたら、開いているのに気づかなかったのだろうか。まったく、おっちょこちょいな人だ。
ふわっ、と風が私を優しく撫でる。
ああ、なんて清々《すがすが》しい朝なんだ。私にはきっと、太陽なんていうものは必要ないんじゃないだろうか。
そう思ったところで、私は胸の辺りに、何かもやもやしたものを感じた。
おかしい。いや、きっと気のせいだ。ああ、そうか、これが幸せぼけというものだろうか。
dialogue
「やあ、こんにちは」
「……こんにちは」
「なんだい、機嫌でも悪いのかい?」
「いや、そうではないが……失礼だが、きみは?」
「ええ? 僕を知らないのかい? 花のくせに」
「いや、知っているには知っているが……生来関わったことがなくてね」
「そんな! ……ああ、なるほどなるほど……そうか、きみは……」
「いったいなんだい。そんなにジロジロ見て」
「いやいや、失礼。なにしろきみの佇まいを見たら、どうも勘違いしてしまって」
「勘違い? それはなんのことだね」
「いやあ、きみ、そこらの花より魅力的だよ。今まで生きてきて、造花を本物と見間違えてしまったのは初めてだ」
「……造花……? いったい、何を言ってるんだ、キミは……」
「何をって、きみ、造花だろ? きみこそ何を言ってるんだい?」
「馬鹿な! 私はれっきとした花だ!」
「……そうかねえ、きみ、その花瓶、空っぽのようだけど」
「み、水は、毎日キリフキでもらっているんだ!」
「キリフキ? ははあ、それでこんないい匂いがするんだね」
「匂い……? それはいったいどういう……?」
「フレグランスさ。基本的に苦手だが……ああ、こいつはいい匂いだ」
「そんな……じゃあ私はずっと……」
「もしかして、気づいてなかったのかい?」
「私は……いったい……どういうことなんだ……」
「それは僕も聞きたいね、造花が口をきけるだなんて」
「そうだ! 私は口をきいている! だから!」
「だから本物の花だって? その花びら、綺麗な色はしているが、よく見たら綿か布だろう。ちょうど、僕らが吐き出すような」
「そんなはずはないんだ……そんなはず……」
「これは……余計なことを言ってしまったかな。本当にすまない、悪気はなかったんだ、信じてくれ。……きみは充分魅力的だよ。本当に。……すまない、僕はこれで、失礼するよ……」
epilogue
やつがひらひらと去っていくのを、私はただ茫然自失としながら見ていた。
ぐるぐると頭を巡る私の記憶は、事実を拒否する反面、殊に言及されずとも、現実として合点がいくものばかりだったのである。
いつの間にか表情を変えた日の光が、部屋を朱く染めている。
風に揺られてくるりと振り返ると、部屋には私の影だけが、朱い部屋の中で黒く、私の背丈よりも何倍も大きく佇んでいた。
それはまるで、筆舌に尽くし難い今の私の心境を、一枚の絵画に描き留めたかのような光景であった。
造花なんていう偽物は、この世界に必要なのだろうか。いい香りなんて、フレグランスさえあればいいじゃないか。わざわざ造花に含ませなくとも。そもそも、生花さえあれば、香りも。その存在も。
悲しい、なんていうことはなく、私は自分が造花であると認めていくにつれ、体が透明化していくのを感じた。
この水差しには何も飾られておらず、ただ、窓辺に空の水差しが置かれているだけ。その画が私の頭に強くイメージされるのである。
しばらく呆けていたせいか、私は朱い部屋にもう一つの影があることに、気がつけなかった。
彼女はいつものように私を見やると、ちょん、と指先でつついた。いつもは出掛けるときだけなのに。
きっとそれは気まぐれなのだろうが、私にとってのそれは、いつものとはまったく違ったものだった。
ふと、私はこんなことを思った。
私は造花であるが、もしも生花であったなら、果たしてどうだったのだろう。
私にとっての私の幸せとは、彼女がこうしてちょんとつついてくれるものであり、毎朝彼女を見送ることであり、今日みたいに窓を閉め忘れたとき、それを仕方ないなあ、なんて思うひとときなのだ。
そしてそれを、彼女が枯れて散ってしまうまで、ずっと積み重ねていくことなのだ。
彼女が何かひらめいた顔をして、コップに注がれた水を指につけ、私にそっと垂らした。
それは私を伝い、水差しを伝い、私の足下に数ミリの層を作る。
生花であれば、私の顔には数粒の雫ができて、つるんとこぼれ落ちただろうが、残念ながら私は造花だから、すぐにじわりと吸い取ってしまった。
彼女はそれを見て、「野蚕の繭から作ったって本当だったんだ」と感心した。そして私も、野蚕に食われた花はどんな花だったのだろうか、と、そう思った。
それがもしも不幸せな花であったなら、せめてきっと、その花のぶんも、私はこの幸せを謳歌してやろう。私はせっかく、こんなに赤い花びらをしているのだから。