目覚め-Waking-
徐々に意識が戻っていくのを感じる。
私は一体、どうなったのだろう?
そうだ…私は────
靄がかかったようにはっきりしない頭で必死に思考を巡らせるのだが、体に回った毒の影響かどうも上手くいかない。
────…い…お…
遠くで声が聞こえる。
誰…?
分からない…よく聞こえない。
────…たま…
あぁ、だめだ…
体の力が抜け、また意識が遠ざかっていく。
ゆらゆらと意識の境界を彷徨う事しかできず、不甲斐ない自分にはほとほと嫌気がさしてくる。
だが、そんな気を持ったとして体が動くわけでもなく、只々ぼやけた天井を見つめる事しかできない。
その時だった。
「おい、珠代!!起きろこのアマ!!」
誰かがこちらに向かって大声で話しかけながら、軽くぺちぺちと頬を叩いている。
「んぁ?」
じっと相手の顔を認識しようとしてみるものの、やはり視界がぼやけてはっきりとは見えない…
そこで、珠代は両方の手の甲でゴシゴシと目をこする。
「んぁ?じゃねぇだろ戯け者が」
少し怒ったような声が聞こえてくる。
「そんなこと言われても…困るし」
「困るしぃ、じゃねえよバカ」
どうやら私は、あの暗闇の世界から脱したようだ。
そして私は再び目覚めた。
しかし、目覚めを密かに喜ぶのもつかの間…私の前に奴は現れた。
失礼で、いつも怒ってるみたいで、無神経な口の悪い男…それが私の彼に対する第一印象。
「こんな言葉を知ってる?バカって言う方がバカなのよ」
むっつりと頬を膨らませながら、珠代が言う。
「あぁん?!うっせぇアマ」
青年は負けずに厳しい口調で腰に手を当てながら言い返す。
薄い水色でウェーブのかかった長い髪は、薄暗い部屋の中でも美しく輝いて見えるような気がした。
「ねぇ…お兄さん…綺麗な顔してるね」
ボソリと小さな声で珠代が呟く。
「っ…はぁ?!…こっ…あ"ぁっ」
少し照れてでもいるように、青年は手の甲を鼻に押し付けるようにして顔を素早く隠そうとする。
「目も綺麗な黄色だし、髪だって…本当に綺麗…」
「るっ…せぇ!!!やかましい!!知るか!!!」
私はどうやら、顔や耳を真っ赤にしながらそっぽを向いているこの青年に助けられたようだ。
「あ、それとね…お兄さんに質問があるんだ」
それは、とてつもなく素朴で、必然的な疑問。
「な…なんだ」
少し警戒しながら青年が聞き返す。
「お兄さん…誰?なんで此処にいるの?」
「誰って、さっき話しただろうが」
少し戸惑いながら青年が言う。
どうやら、彼の中では珠代は当に自分の事を理解した上で話している…そう誤解していたようだ。
そうではないという事実を知り、青年はそわそわとその場を行き来する。
「さっき話した…?何処で?あなたとは今会うのが初めてよ?」
「…さっき…話したぞ」
青年はぶっきらぼうにそう告げると、ふてくされたようにドサッ、と音を立てて床に座り込む。
「そういえば…!!最近、連続誘拐犯が出たとか…」
「このアマ…殺す」
一瞬、素早く珠代の方を見やり、パッと期待に顔を輝かせた青年だったが、連続誘拐犯という濡れ衣をかけられて酷くショックを受けた模様であった。
悶絶しながら眉間にしわを寄せ、いかにも不機嫌そうに腕組みをする。
「そんなことより、まだ答えを聞いていないわ。此処は何処なの?」
丸い目をぱちぱちと瞬かせながら珠代は青年に問いかける。
「そんなこと、俺が知ったこっちゃねぇよ。ただ一つ言えることは…」
「役立たず」
「おい、最後まで聞きやがれ」
珠代はピシャリと青年の言葉を遮り、ふらつく足で懸命に立ち上がる。
「っ…あ」
しかし、やはりまだ毒が抜け切ってはいないようだ。
足をガクガクと震わせながらその場に崩れ落ちて膝をつく。
床にへなへなとへたり込み、暫くぼうっとする…
「おいおい、無理すんなよ。まだ毒が抜けきったわけじゃねぇんだ、そんなことお前が一番分かってんだろ?」
少し心配したように青年が声をかけてきた。
先程の厳しい表情とは違う、優しい表情…
どうやら彼は、このような顔を見せることもあるようだ。
「そうね…分かってるわ。でもね、少し立ちたいの」
儚げな表情で、青年の切れ長で怪しい光を放つ黄色い瞳をじっと見つめる。
「おいおい、大丈夫かよ…手ぇ貸そうか?」
珠代の目の前に、スッと青年が手を差し伸べる。
大きくて白い、綺麗な手だった。
「あり…がと」
礼の言葉を小さく発し、その大きな手を小さな手でぎゅっと握り締める。
彼の手は温かく、そして優しかった。
そしてそのまま珠代の体は、力強い腕に引っ張り上げられて地に足をつく。
「…軽」
「うっさい、お兄さんが重すぎるのよ」
そんな会話を繰り返しながらも、目覚めた頃よりは青年に対する警戒心が和らいだようだ。
「俺そこまで重くないぞ…本当に」
青年がまたもや戸惑いながら言う。
正直なところ、青年は太っているというわけではなかった。
実際見た目も細身と言った方があっている。
「そうなの?…でも身長高いし重いんじゃない?」
「お、前、が、チ、ビ、な、ん、だ、よ」
にこにこしながら迫りよる珠代の頭を大きな掌ですっぽりと掴み、珠代の進行を妨げながら青年が言う。
「私、ちびじゃないわよ」
「チビだろうが、チビ」
青年は白い歯をにぃっと剥き出し、意地悪そうな表情を浮かべながら珠代の顔を覗き込む。
珠代はというと、むっつりしながらも未だ青年の腕にぶら下がっているのであった。
「お兄さん…あなた意地が悪いのね。それにしても、これはどういうことなの?」
目の前の光景に、一瞬は愕然とした。
こんなことがあっても良いものだろうか?
廃れた天井に埃まみれの床、ボロボロで所々に長く、深いヒビの入った家具…
そして一番目を疑ったもの…人間がつけたとは思えないような爪痕がいくつも室内には残されていた。
「人の話は最後まで聞くもんだぜ、お嬢さん」
「一体此処で…何があったというの」
意味ありげに口元を歪めながら前に進みでる青年と、辺りをしきりに見渡し、状況を探る珠代。
「おい、お前…俺の話を聞く気あるのか?」
「そうよ、そうよね、きっとこれは夢なのよ」
混乱のあまり人の話を聞かず、ペラペラと独り言を発し続ける珠代。
そんな珠代に懸命に話を聞くよう勧める健気な青年の姿が虚しく見えて仕方がない。
「おい、俺の話聞けよ」
「あのドアから何事もなかったかのように家に帰るわ」
「おい、聞けよ」
青年の声が、虚しく周囲にこだまする。
「どうしてそんな事に気が付かなかったのかしら?とにかく、こんな汚い場所から一刻も早く離れなければ…」
そう言いながら、珠代はそそくさと隙間風の吹くドアの方に歩みを進めていく。
ドアに近付くにつれ、どんどん珠代の歩くスピードは加速していった。
しかし、その時だった。
「珠代、待て!!」
一際大きな声で青年が言う。
足早にドアへと向かう珠代の襟首をがっしりと掴み上げ、ぐいっと勢いよく引き寄せる…
「ちょ…何?!」
突然の出来事に珠代は慌てふためき、状況を把握できずにきょとんとしている。
「うるせぇ、黙って俺の話を聞け!」
困惑する珠代を大声で制し、力強い腕で珠代の方をがっしりと掴む…そしてそのまま、激しく揺さぶるのであった。
「がっ…!はぅ…やめ…やめてっ」
激しく四方に揺さぶられ、焦点の合わないまま助けを求める珠代…しかし、青年が止まる気配はない。
「俺はただ、お前を守るために忠告してやろうとしているのに、お前ときたら…!!」
「あの…ちょ、気持ちわる…ぐはっ」
「あぁ!?気持ちわりぃだぁ!?この俺がか?ことごとく失礼なアマだなぁ、おい!!」
必死に青年に助けを求めようとする珠代であったが、あまりの気分悪さにうまく言葉が出ない。
しかも、運の悪いことにその言葉を青年は自分への侮辱であると受け取ってしまう…
そのせいで彼女は、さらに激しく揺さぶりをかけられる結果に陥ってしまったわけである。
「ち…違…ウプッ、気持ちわる…おぇっ」
完全に白目をむき、もはや抵抗する気力もなしとでも言うように脱力したまま動かない珠代。
いや、動かないのではなく、動けないと言ったほうが正しいのだろうか?
未だ我を忘れて怒りに身を任せ、ハァハァと荒い息遣いで喚き散らす青年…
自分より背の低い小柄な少女の肩をがっしりと掴み、激しく、更に激しく揺さぶりをかけていく。
「ア"ア"ア"、俺がどれだけお前の言葉で傷付いたか分かるか?分かれ、分かれこの野郎!」
相当興奮しているらしく、珠代の声は一切彼の耳には届いていないようだ。
どうして自分がこんな知らない男のせいで、こんなに気分を害さなければならないのだろうか?
そして私は、いつまでこんな思いを続けなければならないのか…珠代の不安要素は募るばかりであった。
「もう…ダメ、気持ちわる」
ついに限界がきたのか、珠代の体は青年の手を離れて下へ、下へと落下し始める。
「あ」
途端に青年の口から、あ…という短い声が漏れ出す。
珠代の落ちる加速スピードも中々ではあったが、青年の反応速度もまた、速かった。
珠代の体が地面に叩きつけられる数秒前…
青年は素早く身をかがめ、勢いよくズボッと珠代の膝裏に腕を差し込みながら、もう片方の空いた手を珠代の背中の中央あたりに添える。
「え…なっ!?」
腕の中でバタバタと手足を動かして暴れる珠代をよそに、青年はそのまま珠代を抱えたままスクッと立ち上がる。
「おいおい、大丈夫か?」
まるで無自覚な様子で青年が言う。
「誰のせいでこうなったと思ってんの…」
珠代はむっつりとした様子でそう答え、そっぽを向く。
「…はて?何のことかな?」
目線を泳がせながら青年が言う。
「とにかく、早く下ろしなさいよ」
「断る」
「いいから下ろしなさいよ!」
再び珠代がじたばたと暴れ始める…
しかし、青年は何の問題もないといった様子で只々そんな珠代の姿を見守る。
結果として、珠代の下ろしてくれという願いを彼が聞き入れることはないのであった。
それから暫くしてのことだった。
「なぁ、何でお前こっち向かないんだ?」
そう青年が問いかける。
「…えーと」
言葉を濁す珠代…
一向に青年と目を合わせようとはしない。
「なぁ、こっち向けよ」
「下ろしてくれたら向いてあげてもいいわよ」
「そんなに俺に抱きかかえられるのが嫌か?」
珠代のそっけない態度にむっつりとしながら、青年がぶっきらぼうに言う。
「嫌とか…別にそういうんじゃないし」
ぽつりと小さな声で珠代が答える。
だがしかし、やはり青年と目を合わせようとはしない。
「じゃあ、何、俺が嫌いなのか」
「はぁ…?好きとか嫌いとか…そういうんじゃ…」
「じゃあこっち向けよ」
「いや…それはちょっと」
何故こんなにも自分の方を向きたがらないのだろうか?
それだけが疑問だった。
「なぁ、珠代」
何でこっち向かないんだよ…
「おい、聞いてんのかお前」
もしかして嫌われたのか…?
「おいってば」
何なんだよ、もう。
「なぁ、珠代…」
「なぁ」
「なぁ」
「なぁ」
意地でも此方を向かせようと躍起になった。
でも、だめだった。
彼女は一向に視線すら合わせてはくれない…
必死に問いかけた…それでもなお、受け入れてはもらえなかったのだろうか?
「…………… 」
それが彼女の答えだった…
終わった…詰んだ。
だめだな、俺…初対面で嫌われるとか…ありえねぇ。
「そのままで良いから、話だけでも聞いてくれないか」
珠代の体を、ゆっくりと床に下ろしながら青年が真面目な視線向ける。
「わ…分かった、いいよ」
小さく頷き、珠代が答える。
やっとまともな口をきいてくれた…そう思うと、少しばかりは青年の心の傷も癒えるのであった。
相変わらず此方を向いてくれることはなかったが、それでも聞いてもらえるだけマシである。
「そうか…そうか、聞いてくれるか!」
せいねんがパァッと表情を明るくしながら珠代にぐいぐいと顔を寄せていく。
「聞く…聞くけど近いって!」
珠代は少し困ったように眉をひそめながら、迫り来る顔を両方の手の平で逆らうように押し退ける。
「何だよ、照れてんのか?お前照れてんだろ」
「違う!誤解だ!!」
珠代は顔や耳を赤くしながら、その細腕で青年の胸をポカポカと殴り付ける。
「ふふっ…かわい…って痛っ…痛いたいたいたい!!」
「うわぁああ、誤解だぁああああ!!!!」
青年の叫びも虚しく、珠代は尚も殴り付けるのをやめようとはしない。
「痛えって!お前、絶対本気で殴ってんだろ!!」
「ああああ!!私は絶対認めない、ああああ!!!」
珠代は涙目になりながら青年を殴る、殴る、殴る。
只々夢中で青年を殴り続ける。
「やっ、ちょ、お前!顔はやめろって!!」
暗い室内に、青年の虚しい叫びと少女の羞恥の声だけが響く。
「それで、話って何なの?言いたい事があるんでしょ?」
「あぁ…そういえばそうだったな、悪い」
ぼーっとした様子で考え込んでいると、珠代が不思議そうに紫色の瞳で此方を見つめてくる。
「私の方こそごめんね…?ちゃんと聞くから話してよ」
「じゃあまずは、此処が何処なのかという質問からお答えするとしようか」
「お…お願いします」
青年は得意げにそう言うと、早速説明を開始しようと意気込んだ。
顎をグイッと上に向け、スッと大きく息を吸う。
さぁ、お待ちかねの説明を開始するとしよう。
「まず此処が何処なのか?その答えはこうだ。此処はお前が桐ヶ崎邸だと錯覚していた場所だ」
「え…そんな」
「まあまあ、とりあえず黙って聞けよ」
青年は得意げに続ける。
青年の話を聞くうち、色々と今まで積み重なった違和感の正体が明らかになっていくのが分かる。
まず、第一の謎…なぜ此処を自宅だと思い込むはめになったのか?
あまりにもボロボロで、雨風をしのげるかすら危うい廃墟を自宅だと思っていたなんて、未だに信じられない。
だがしかし、話はいたって簡単。
シンプルな答えだった。
彼が言葉を濁した為に明確には聞き出せなかったのだが、どうやら私は何者かに幻術を掛けられていたようだ。
かなり強力な幻術で、術者や術をかけられている当人、建築物なども事細かに細工を施していたようだ。
次に、第二の謎…守護守りや霊符などの霊具が日に日に消えていくのはなぜか?
どうやら、私をこの家へと誘き寄せた何者かが、毎日少しずつ持ち出していたようだ。
それは何故か?
理由は一つ…私の持っていた霊具は、上手く扱えば幻術を解く事など容易な代物であったから。
そこまで念入りに手を入れるとすれば、よっぽど私に逃げられては困るという事なのだろう。
そして、最後の謎…母だと思い、共に過ごしてきたあれは何だったのか…?
しかし、この謎に関しては青年は口を固く閉ざした。
「今は…その…言えない」
それが彼の答えだった。
青年は気まずそうに視線をそらし、もぞもぞと体を動かす。
「だいたいの事はわかったわ。でも、これからどうしたらいいのかしら」
「此処から抜け出して、お前を柯夜のもとに返す。それしかないだろ」
ぎこちなく、ゆらゆらと体を揺らしながら青年が言う。
「貴方…お母さんの知り合いなの?」
「ああ…まあな」
どうやら彼は、母の知り合いらしい。
ただ、柯夜…と呼び捨てにするあたりがどうも引っかかる。
この青年の見た目は、何処からどう見ても10代後半から20代前半といったところだろう。
普通、自分より目上の相手を呼び捨てにする事などあるだろうか?
悪意を持っているならばまだしも、この青年からはそんな様子は全く感じられない。
「へぇ…そうなの」
珠代は、探りをかけるような目線を青年へ送る。
「年上…か。そうか、俺はそんなに若く見えるのか」
笑ながらぽりぽりと?茲をかき、白い歯をニィッと剥き出す。
「どうして分かったの…?私は何も言ってない…それなのにどうして…?あり得ないわ」
自分の思考を読まれた事に対し、珠代は戸惑いを隠せない様子で言う。
超能力でもない限り、人の心を見透かす事なんて…そんな事ができるはずはない。
「俺は俺であり、俺はお前でもある。だから俺にはお前の内心なんて丸見えって事よ」
そう言いながら、青年は得意げに胸を張る。
どういう事だろう、この男が私でもある…?
あり得ない、非現実的だわ。
そもそも、同じ場所に同じ人間が存在している事自体があってはならない事…やはりあり得るわけがない。
「…私にも、お兄さんの心…見透かせる?」
「いいや、残念ながら今のお前にはそんな力はないだろうよ」
青年は切れ長の鋭い目を一段と細め、じぃっと悪戯っぽい光を湛えた黄色い瞳で珠代を見つめる。
「もしかしてお兄さん…」
「何だ、どうした?」
珠代はハッとした表情でゴクリと息をのみ、静かに言う。
「私の心を垣間見て、何かいやらしい事でも考えてたとか?…不潔だわ」
「ば…ばか、んなわけねーだろ!」
「あら、レディーに対して失礼ね」
「めんどくせぇな…そうだ、そうそう、考えてました考えてました、がっつり考えてました」
青年はやれやれ、と首を横に振りながら投げやりに言った。
「ひぃ…じゃあ貴方は、清らかな乙女の心中をねっとりと睨め回すように見透かした挙句、卑猥な妄想で思考を満たしていたというのね?」
珠代が口に手の甲を押し当て、よろよろと後ずさりながら眉をひそめる。
「そういう言葉が口からドバドバ出る時点で清らかじゃねぇと俺は思うぜ」
青年は白い目で珠代を見つめる。
「ど…ドバドバ…ですって?!卑猥だわ!」
「…お前、卑猥だわって言う事自体にハマったろ」
もう、完全に青年は白けきっている。
「ひ…卑猥だわ!」
「俺、まだ何も言ってねぇんだけど…」
「嫌よ!私をどうする気なの?!来ないで!!」
そう言いながら、珠代はじわじわと後ろへ後退する。
「俺一歩も動いてねぇんだけど…お前失礼な奴だな」
「ふん、そんな事ないわ」
珠代が堂々と胸を張って言う。
「威張るなよ…褒めてねえし」
「え?聞こえない、よく聞こえないわ」
「…志乃ババァとは大違いの人種だな、これは」
青年は、くるりと珠代に背を向けながらくぐもった声でそう呟いた。
しかし、その言葉はしっかりと珠代の耳に届いていたのである。
「…志乃?」
きょとんとした顔で、青年の言葉を繰り返す。
「ああ?知らねぇのか、お前の祖母って奴だろ。あいつはいい女だったな、逆らわねぇし」
「いい女って、そんなに年上の人を…もしかしてそっち系の人なの?それ以前に、貴方そんなに歳いってないじゃないの」
平然とそう告げる青年に対し、珠代は冷静な返答を返す。
今まで以上に強く突き刺さる珠代の視線…そして今までの不審そうな目に加え、哀れみの念すら感じて取れるものだから青年としてはたまったものではない。
「痛い…視線が痛い、俺の心に突き刺さる…痛い」
青年は左手の指で眉間を抑え、右手の平を珠代の方に突き出して待ったのポーズをしている。
「ひぃ…」
それを見た珠代は、青年の突き出した手から逃れるべく後ろへと後ずさる。
「あ…あいつ、若い時はいい女だったんだぜ、本当」
目線を珠代と合わせないようにしながら目を泳がせ、少しどもりながら青年が言う。
「ふぅん…そう」
「分かってくれたか、良かった」
「ええ、貴方が途轍もなく痛い人なんだっていう事だけは理解したわ」
珠代は、オブラートに包みもせずに青年に冷たい視線を向けている。
「はぁあ!?痛く…っと、こんな話してる場合じゃねぇか」
必死に珠代の誤解を解こうと食らい付くも、どうやら虚しい結果に終わるであろう事は目に見えている…
「話を逸らす気ね、お兄さん」
「と…とにかく今は現状把握が先だろ?ほら、ここから出たら全て洗いざらい話すから」
「お兄さん、今また全てを教えるといったわね?という事は、さっき話した情報は全てではなかったと解釈してもいいのかしら?嘘つき」
無表情で、淡々と珠代はそう告げる。
痛いところをつかれた青年はというと、暫しの沈黙を貫いていた。
しかし、ふとその沈黙を青年が破る。
「よし、じゃあこうしよう。今は俺の事はどうでもいいから今すぐここを離れるぞ」
衣服のポケットを仕切りに弄り、小さなガラス玉のようなものを一つ掴み出す。
「ねえ、何してるの?」
興味を惹かれたのか、ちょこちょこと小股で青年に近寄りながら珠代は口を開く。
「これはあれだ、見た目はただの小せぇガラス玉だが、一応は霊具の一種だ」
「霊具?私の継いだ守護守りみたいな?」
「ああ、そうなるな」
「確か、守護守りが受け継いだものの中の最大霊値だってお母さんが言ってた気がする」
青年の手元を、じぃっと見つめながら珠代は言った。
すると、青年は珠代の言葉を訂正するようにこう付け加える。
「そいつは違うな、桐ヶ崎の受け継がれる最大霊値を誇る霊具は守護守りなんかじゃねぇ。確かに守護守りも強い霊力を兼ね備えてはいるが、頂点に達するのは守護刀という宝刀だ…」
青年は忙しなく手を動かしながら、丁寧に珠代に説明を施す。
そして今度は先程とは違うポケットに手を突っ込み、札を一枚取り出す…どうやらこの二点を使って、この廃邸から脱する模様だ。
「じゃあどうして?母は言ったわ。この守護守りが私が貴女に受け継げる、唯一の霊具だ…と。お兄さんの話が本当なら、私は守護刀を受け継いでいたということになるのよね?」
「まぁ、そうなるな」
青年は、さらっと涼しげに言う。
「どうして私は受け継いでいないのかしら…?」
「守護刀ってのは、桐ヶ崎の人間になら誰にでも扱えるような代物じゃねぇからだ」
「それはつまり…そういう事?」
「あぁ、桐ヶ崎 柯夜…すなわちお前の母親は、宝刀を所持するに相応しくないと判断されたわけだ」
青年は、少し沈んだ声でそう言う。
「守護刀を受け継ぐにあたっての審査基準って、何なのかしらね」
「基準?そんなもんは無いさ」
「じゃあ、どうして母は継承者に選ばれなかったの?」
「んー、なんつーか…フィーリング…的な?とにかく、その話は後だ。さっさと外に出ようぜ、この場所は…あまり良くない」
急にそわそわと体を動かしながら、小声で青年が声をかけてくる。
「分かったわ、それで何をしようというの?ここから出るなら、そこのドアや窓から出ればいいじゃない」
「いや、だめだな。お前は気付いていないようだが、この邸には強力な結界が張ってある。臭いからして、柯夜が張ったもんだろうよ」
腕を組み、くんくんと鼻をひくつかせながら青年が言う。
「お母さん…霊具の由来はよく教えてくれていたけど、家が祓い屋の家系だったなんて一言も言っていなかったわ」
「祓い屋が…間違ってはいないが、正確には成仏師ってとこか?多分お前に話さなかったのは、真実を知られると咒いの効力が弱まるからだろうな」
「まじない…?」
戸惑いを隠せない様子の珠代を、横目でちらりと垣間見ながら青年が言う。
「ああ、咒だ」
「真実を知られると効力が弱まるなら、今こうして私に告げ口のような形を取ってしまって大丈夫なの?」
不安そうに珠代の顔が歪む。
「大丈夫だ、咒の効力はすでに切れていた…お前がこのボロ邸に迷い込んだ四年前からな。既に限界だったんだよ、あいつの霊力は」
「どういうこと…?」
「お前がこの邸に迷い込んだと同じ日…あいつの霊力が消失し、咒の効果は無効となった。そういうことだ」