混乱-Confusion-
「ねぇ、私のヘアゴム知らない?」
「えぇ?貴女さっき使ってたじゃない」
「あ、そっか、ありがと!」
「もう、珠代ったら忘れん坊なんだから」
ニコニコと母が笑いながら言う。
「そういえば、昨日も聞いたけど私の守護守り知らない?」
最近、何故か複数のものが消えていく。
私の管理が疎かなだけかもしれないが、流石に消え方がおかしい…
今までに無くなったものは、霊封じの破魔札、霊魂を呼び寄せるための舞具、ガラスの封じ水晶など、母から昔受け継いだ効くかも分からない紛い物ばかりが紛失するのである。
そして今回は守護守り…
母によると、あの守護守りは今までに受け継いだものよりも更に霊力が強く、悪しき者から魂を護ってくれるそうだ。
いつも肌身離さず付けていなさい…そう言われ続けたのが懐かしい。
「知らないわ、あんな忌々しいもの」
それが母の答えだった。
彼女は確かに、そう言った。
確かに、この守護守りは人と人との心を繋ぎ、そして原点へと返すための道具であり、それを受け継ぐものはその重責を背負わなければならないと教えられた。
だが、それはただの言い伝えではないのか…?
───あんな忌々しいもの
確かにそうなのかもしれない。
しかし、私にとっては母から貰った大切な思い出の品でもあるのだ。
それにしても、最近の母の言動は少しおかしすぎる。
母は昔から几帳面な性格で、自らの物に加え私の物まで気になって片付けてしまうような人だった。
そのため、家の中は常に綺麗に整頓され、床には綿ゴミひとつない空間が保持されていた。
だがしかし、最近の母ときたらどうだ?
仕事である筈の家事は一切を放棄し、日々をダラダラと過ごしている。
無論、働く気配などあるわけもない。
長い髪はボサボサに乱れ、声をかけても反応が鈍い。
一体母に何が起きたというのであろうか?
あの日を境に、私たち家族は徐々に変わってしまった。
私は昔から、この家に母と二人で住んでいる。
互いに支えあいながら二人で生きてきた。
───…二人で?
「そうよ、珠代。二人でよ…今までも、そしてこれからも」
母の声が、重々しく響く。
心を…見透かされている?
そんな感覚が、体の中を鋭く駆け巡ったような気がした。
「うん…分かってるよ、そんなこと」
────違う、私は何も口にしてはいない。
それなのに…何故?
どうして分かるの…?私の思いが…
「どうして分かるのですって…?お母さんだからに決まっているじゃないの」
「そういう物なのかな…」
違う、そんな訳ない、親子でも口に出さないと伝わらない…そんな事くらい私にも分かってる。
「そういう物なのよ、受け入れなさい」
「う…ん、分かった」
どこか冷ややかで他人行儀な母の笑みを受けながら、ポツリと答える。
少しずつ変わっていく生活と、少しずつ変わっていく母…
母は一体どうしてしまったというのか?
そして、私はどうなってしまうのだろうか。
今までにいろんな物が変わっていった。
しかし、その中でも度を越えて変わってしまったものがある…それは紛れもなく私自身だった。
自分の思考と矛盾する言動…既に自分で自分のことが分からなくなりつつある。
あんなに大好きだった母の優しい笑顔も、今では醜く歪んで見える。
母が怖い…そう思うまでになってしまっていた。
母に見つめられると、恐怖に身がすくみ、歯向かうことができないのである。
無論、昔はこのような事はなかった。
昔の優しかった母はもう居ない…今目の前にいるのは、笑顔の醜い支配欲旺盛な唯の人間。
そんな母を見ているのが何よりも辛かった。
───どうしてそうなってしまったの?
何度も、何度もそう思った。
でも、そんな変わり果ててしまったのだとしても、私の母に変わりはない。
だから私は…だから私は、逃れられない、離れられない…
こうなった今でも、母から離れることに未練と後ろめたさを感じているから。
私はどうやら、頭がおかしくなってしまったようだ。
きっと私は、もう普通の子ではない。
頭がボーッと霧がかったようになり、意に反する行動をしてしまう事もしばしばある。
この間なんて、真夜中に包丁を持ったまま母の部屋付近を徘徊していたなんて事もあった。
意識を取り戻した時には恐怖に手が震え、足元に包丁を取り落としてしまったほどだ。
その時の記憶はほとんどなく、気がつくと私は朝を迎えていた。
「いい子ね…貴女は私の言うことだけを聞く操り人形でいればいいのよ」
虚ろな意識の中を彷徨う娘を静かに抱きしめ、撫でながら優しい口調で語りかける。
「ねぇ…お…母さん」
「なぁに?どうかしたの?」
切れ切れになりながらも、珠代は必死に声を絞り出す。
「本当に…私達は二人なの…?何かが…足りない」
「(バチィィン!!!!!!)」
室内に、激しく肉を引っ叩く鋭い音が響く。
柯夜は、勢いよくドサッと床に叩きつけられる娘を冷ややかな眼差しで蔑み、嫌々そうに眉をひそめながら無機質な声で言う。
「珠代ぉ…貴女…何言ってるの?私に逆らうの?」
「痛いよ…随分と酷いことするんだね」
一方の珠代はというと、赤く腫れ上がり熱を帯びた頬を手で押さえるでもなく、只々虚ろな目で虚空を仰ぐ。
生気のない、あたかも死んでしまったかのような目…
痛みすら感じないかのような、薄い反応。
泣くでもなく、叫ぶでもなく…少しずつ心だけが壊れていくのだろうか。
───どうして…私は
心が弱いせいで自分と向き合えず、抗えなかった。
それこそが現実。
もう、自分が何をしたいのかも分からない。
分かったとしても、それが本当の気持ちなのかすら分からないだろう…それでも、心の中では泣いていた…助けを求めて、叫び続けていた。
求めても手の届かない、そんな幻想に向かって。
「これも…貴女のためなのよ」
喉から絞り出したような、乾いた声が言う。
そのまま床に崩れた体に覆いかぶさり、乾いた唇を珠代の顔に寄せていった。
そして、ゆっくりと口を大きく開けていく。
徐々に柯夜の口角からこめかみにかけて、ひび割れた亀裂が走り始め、遂には口が大きく裂ける。
もはや、柯夜の顔に人間らしさの欠片は存在していなかった…珠代は、虚ろな目でその光景を見つめながらも決して逃げようとはしない。
ハァと柯夜だった物の口から生暖かい空気が放出される。
逃げなきゃ、一瞬はそう思った。
だがしかし、体が言うことを聞かない、抵抗できない。
そっか…私…死ぬんだ────
生臭い匂いが鼻を突く。
動物の血と肝のような強烈な匂い…
頭がガンガンと鳴る…激しい目眩と吐き気にも襲われ、徐々に全身も麻痺していくのが分かる。
どんどん視界が霞んでいく────
全身に毒が回り、体が痺れる。
もう、何の感覚もない。
これほど死を身近に感じたことは、これが初めてかもしれない。
私は多分、もうだめだ。
瞼が重い…もしかすると、もう二度と目覚めることはないかもしれない。
───これが私の定めなのかもしれない。
嫌だ…嫌だ…死にたくない。
私にはまだやり残したことが沢山ある。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
まだ私は死にたくない、やるべきことが残っている。
私はまだ、生きていたい…そう思った。
死ぬのは怖い、死にたくない。
誰だって死ぬのは怖い、それでもいつか人は死ぬものだ。
分かっている、それが少し早まった…ただそれだけの事。
暗い…なにも見えない、もう何も…感じない。
そして私の世界は、黒く染まった────