太歳頭上動土(たいさいずじようどうど)
母が死んだのは、もう十三年も前のことだ。母の誕生日、果ては名前も顏も忘れて久しいのに、命日だけははつきりと覺えてゐる。
其れは何故なのか。
屹度あれの所爲だ。
故人は死んでも四十九日の間はまだ現世に留まると云ふのを知り乍らも、どうしてか無性に女が抱き度くなつて──買つたのだ、女を。
母の寢室でだ。
其れがどうしやうもなく後ろめたくて、けれどどうしやうもなく亢奮したので、私は今でも母が亡くなつてからの四十九日間の出來事はしつかりはつきりと覺えて、頭からこびり附いて離れずにゐるのだ。
はじめにこの国に西洋の文化が入って幾年月。男がちょんまげをしていた時代に生まれていない私でも今がどれだけ便利な時代になったのかなど想像に難くない。
しかしここに置いてあるのはどれも便利さなどとは甚だかけ離れた次元にあるものばかりだ。私の慧眼をもってしてもそれらはどれも瓦落多にしか見えないし、きっとおよそ瓦落多なのだろう。
「ほう、言うでないかい優司郎。つい最近まで学生服に鼻を垂らしていた坊やだったくせして」
「いつの話だ、それは。それに俺は鼻など垂らしてはいなかったぞ」
「杉の花粉にやられてくしゃみばかりしていたのはどこの誰だい。あまりにきついってんで薬を調合してやったというのに」
私はそれに何も言い返せなかった。
この女、神林ようことはもう随分長いつき合いになるのではないだろうか。彼女と出逢った頃の私はまだ帝國高等學校に入って間もない、人生の右も左もわからない純粋無垢な少年だった頃の話だ。この女と出逢ってしまったことで、極楽から垂れ下がった蜘蛛の糸を切られ地獄へと突き落とされたカンダタもかくやのそれは酷い人生を送るはめになめになったのだ。
「それでも食っていけているのはわたしのおかげだろうに。感謝されこそすれ恨まれる覚えはないはずさね」
いったいどの口が言うのだ。どの口が。
そう思ってあいつの口元を見てみると長い煙管を銜えていた。厚ぼったい唇に桜色の紅、そしてその下には黒子が一つ付いている。不覚にも五秒と凝視してしまうとその色香に惑わされてしまう。
実際この女が飯の種となっているのは悔しいかなおおよその事実だった。私は出版社に勤めている。ただし零細出版社の娯楽雑誌の記者だ。そのため日々記事になりそうな奇想天外なネタを探すのだが、この骨董店、雨月堂へ赴けば有閑婦人が巷で起きている殺人事件の真相から愉快犯の心理素行、果ては海を越えた異国の宗教儀式や言い伝え、細かな噂話まで逐一把握し私に聞かせるのだ。こちらはネタが欲しい、あちらは暇を潰したい。持ちつ持たれつ、ギブ・アンド・テイクと謂うやつだ。
「〝美人女店主と冴えないカストリ誌記者の秘密の逢い引き〟ってのはどうだい?」
「何の話だ」
「あんたの次に書く小説さ」
ようこは上目遣いでこちらを見上げてくる。
「くっ、俺はもう官能小説など書かん!」
「あら、そうなのかい?」
「そうだ、あの時はたまたま作家の空きが出来たから編集長に書かされただけで俺はあんな話、断じて二度と書く気はない!」
「勿体ないねえ、そこそこ面白かったのに」
「俺は純文学作家になりたいのであってあんな俗流なもの、ただのお遊びだ!」
「ふぅん。で、あの女学校教師とはわたしのことだろう?」
刹那、目の前の棚にあつた大陸の皿がぐらりと傾き足元で碎け散つた。
「あ~あ、何してくれるんだい優司郎。こいつは買い取りだからね」
「お前が変なことを言うからだ!」
「まったく。安心しなそいつは安物さね、あんたの安月給でも充分お釣りのくる代物だい」
「勤め人に向かって安月給とは何だ安月給とは」
私は渋々ようこに金を払った。先刻は肝を冷やした。だからあいつはあの時大笑いをしながら読んでいたのだ。正直言うと、私は官能小説を書くのが嫌いではない。むしろ好きだ。大好物だ。女が頬を染め、股を濡らし、男の下で喘ぐ姿を想像するだけで心が躍る。逆に女に虐げられるのも大好きだ。
が……私の小説で脱ぐ女は、なぜかみんなようこになってしまうのだ。
ようこはいつも朝令暮改の如く一貫性のない様々な服を着ている。今日は楚々とした長着を身に纏っていれば、この前は足の出た大陸のドレスで盛装していた。私は以前彼女が着ていた短いスカートに肩口から袖のないワイシャツ姿を見て、横浜で見た女學校のお雇い外国人と重ねてしまったのだろう。だからおかしいことなど何ひとつ存在しない。無意識にそれらを繋げてしまっただけで、断じて私はようこと御洒落関係を望んでいる訳では決してない。
「ん?」
ふと、落としてしまった皿の飾られていた棚の奥に、光る何かを見つけた。
手にしてみると、それはほんの小指の先ほどしかない赤い色をした石塊だった。不思議と私はこの石に惹き付けられた。浜辺に落ちている瑪瑙片に見えて、宝石のようにも見えなくもない。
「おい雨月堂」
「あん? 何だいお前さん」
これはいったい何なんだ──と言いかけて私は口を噤んだ。こんなものが商品であるはずがない。もしこいつに変な好奇心を持たせてしまったら、虫をいたぶり殺す猫宜しく何をされるか知れたことではない。
「いや……、何でもない。というか〝お前さん〟とか言うな気色悪い」
私はそっと石をズボンのポケットへしまった。
仕事を切り上げ、木造築五十年の平屋安普請、愛しき我が家へ帰宅した。
夕餉は外で済ませてきた。誰かこの旧くて暗くて陰気な家に嫁へ来てくれればいいのだが、如何せんそのような好事課家、私の周りには一人だっていやしなかった。
私は酒の入った虚ろな頭で、今日雨月堂で拾った石のことを思い出した。見れば見るほどこんな小粒な石に心を躍らせている自分がいるのだ。
「そうだ、思い出した」
これは紅亜鉛鉱という亜鉛族元素の仲間だ。
これと同じものを子供の頃よく鉱石ラヂヲで使っていた。これは余りにも純度が高過ぎるので結晶の形や透度が宝石と遜色ないくらいなのだ。
しかしこんな綺麗な石、ラヂヲを作っては友人らへ売っていた私でさえ見るのも触るのもはじめてだった。
だからこそなのか、私はこの赤い石で鉱石ラヂヲを作ってみたくなっていた。
材料はすべて押入れに仕舞ってあった。几帳面だった母が私の幼少期のものはすべて大切に保管しておいてくれていた。コイルもアンテナ端子もコンデンサーも、みんなあの頃のままだ。クリスタル・イヤホンも部品を納める容物さえ残っている。昔はこれらをよく瓦落多を分解して探したものだ。
ダイオードの中身をゲルマニウムから拾った赤い石と取り替えるのには少々難儀したが、それでもやはり手が覚えているものだ。すべて組み立てるのに一時間とかからなかった。
今夜の月は酒のいい肴になった。
焼酎を呑みながらつまみをまさぐり電波を探す。昔から縁側が一番電波の入りやすい場所だった。
ザ、ザザザザ、ザ、ザザザザ。
電波の無機質的な荒涼感を漂わせる雑音に、私はしばし聞き惚ける。
『……ウ……シロウ』
イヤホンの奥から、どこかで聞き覚えのある声がした。
『優司郎』
それは私を呼ぶ声だった。
『優司郎、お団子ができたわよ』
「母さん」
そしてこの声は、わたしの母のそれだった。母が私を呼んでいるのだ。
これは私がまだ十ほどの歳だったろうか、母はよく月見団子を作ってくれた。月に一度の御馳走に私はよくはしゃいだものだ。
期せずして今晩は、十五夜の満月が頭の上で煌々と光っていた。
今はもう亡くなって久しい母の声を聞きながら酒を呑んでいると、ほろと涙が頬を伝った。
何故、父は母の葬式に來てはくれなかつたのだらうか。
「よう優ちゃん、久しいな」
雨月堂の扉を開けると、白スーツを着た長身痩躯の男が店主のようこと話していた。
「何だい優司郎、昨日の今日でもう来たのかい。大尉さんと三人で集まるんだったら菓子の一つでも持ってくればいいのに、本当甲斐性のない男だねあんたは」
「煩いな、俺がいつここに来ようと俺の勝手だ。それに菓子を用意するなら店主のお前の仕事だろうに」
ここまで来て引き返すことが出来ず、私は不承不承に店の中へ入った。
「お前は何しに来んだ虎彦」
「ああ、女将にこいつの改造を頼んでいてな」
そう言って手にしていた布の包から自動式拳銃を取り出した。
「やっぱり二梃揃ってないと締まらんな」
今度は後ろ腰から回転式拳銃を出し交差して構える。どちらも南部製の軍で使っているものと同種だ。
こいつは探偵のはずなのに、なぜこんな物騒な得物を持つ必要があるのか、ほとほと理解に苦しむ。
虎彦は気さくで軽妙なやつだったが、私はどうもこいつのことが好きになれなかった。元々私たちは幼少の頃からのつき合い、所謂竹馬の友というやつだった。虎彦の家は没落した士族の家系で、とても厳しく育てられたためか生真面目と勤勉が服を着て歩いているよう男だった。が、家を再興するのだと陸軍士官學校に入り少尉として大陸の戦争に出兵して帰って以来、今のいい加減な性格になってしまった。
どうもこいつは戦争時に本隊とはぐれて五年も独りで大陸浪人をしていたらしく、その時に相当きつい経験をしたようですっかりヤクザ者になってしまった(軍では戦死扱いにされているため今では二階級特進の大尉殿だ)。
軍から横領した拳銃で探偵とは名ばかりの荒事で日々の糧を得ている。この間など女房の不貞の調査を頼まれたはずが、その女房を揺すってネンゴロして金までふんだくったと言うではないか。
このような派手な純白スーツで上辺ばかり着飾った伊達男ばかりなぜこうも甘い汁を吸えるのだ。私だって性欲を持て余した人妻の爛れた捌け口にされてみたい。
「ところで優ちゃんは何しに来たんだい? まさか女将としっぽりまったりするつもりだったんじゃなかろうな」
「馬鹿なことを言うな! 誰が雨月堂などと──」
「昔はこの子も〝ようこさんようこさん〟と眼を輝かせながらわたしことを見てたのにねぇ、今じゃもうただの助平親爺さね」
これだから厭なのだ。女狐に鴉天狗といったこの面子では、私の個性など芥子粒に萎んでしまう。
「ところでお前たち、太歳なるものを知っているかい」
「太歳? 知らんな、何だそれは、藪から棒に」
「曰く、不老不死の妙薬と言われているあれのことか、女将よ」
「おお、さすが虎の字。伊達に大陸を放浪してないねえ」
「まあな、その手の類の話はどこへ行っても耳に入るさ。他にもいくら食っても減らない肉の視肉や仙人が食す丹薬の玉膏。あとは肉芝なんて霊薬もあるな」
私は少々この男の碩学さに驚いた。こいつの頭の中には暴力と情事しかないものだとばかり思っていたからだ。
「大陸の人間は遥か四千年も昔から不老不死なんて子供の絵空事にほとほとお熱になりやすい人種なんだよな~。で、その太歳がどうかしたかよ、女将」
「何さね、わたしも久々に本腰を入れて作ってみたのさ」
「太歳をか!?」
思わず、声を荒らげた。以前から魔女、妖怪変化。妖狐、玉藻御前の成れの果てではないかと冗談半分で疑ってはいたが、まさかそのまま正鵠を射ていたとは……。
「金持ち相手に商売するんやったら、それだけ大仰なのがいいってことや」
ようこは店の奥から何やら水槽に浮かぶ海月とも毬藻ともつかないぶよぶよとした摩訶不思議な物体を持ってくる。
「雨月堂よ、こいつはいったい……」
「だからこれを成金連中に売り付けるのさ、不老不死の妙薬として。あのさんたちは戦争景気で儲けて金がある上に、いつ身を崩すか心配で堪らないのさね。そこでこの太歳の出番って訳さ。こいつを隠し財産兼不死の不安を取り除いてやる精神安定剤にしてやるのさ」
「「…………」」
私は言葉をなくした。あの虎彦ですら中折れ帽の鍔下の表情は本当の本当に白けたものだった。
結局、私はあの赤い石の出自をようこから聞けないまま店を出た。あの空気ではとてもではないがまともな話を切り出すのは至難の技といえた。今日は星の巡りが悪かったのだ。また今度聞けばいい。
もう陽も暮れ泥み出した夕刻のことだ。帰路についていた私は路面電車の停留所にいた。
これに四十分揺られて、さらにボンネットバスに乗って田園風景が見えてくればやっと私の家に着く。
「……ん?」
肩かけ鞄の中から何やら雑音めいた音が聞こえてきた。街の雑踏に掻き消えそうだが、確かに私の鞄から何かが音を立てている。
開けてみるとそこにはなぜか入れた覚えのない鉱石ラヂヲが入っている。これはいったいどういうことだ。
神妙な思いで耳にイヤホンを入れると暫くすると子供の啜り哭く声が聞こえてくるではないか。
しかも聞こえてくる音には方向がある。私の視線に合わせて音が大きくなったり小さくなったり、雑音が濃くなったり薄くなったりしている。まだ電車が来るには時間がある。気になった私は、停留所から離れ大通りを一回りすることにした。
その先に行き着いたのは一本の電柱だった。下には花束が献花されていた。
私は妙な胸の痛みを感じた。
「すみません」
隣に構えていた自転車屋の店主に声をかけた。
「このお花って……」
「ああ、こないだ子供が轢かれたんだよ、自動車でな。ったく、店先で人死なんて縁起が悪いってのによ。ただでさえうちは二輪だって扱ってるのに」
「えっ?」
私は言葉をなくした。胸板の裏側から錐を刺されているような錯覚が襲った。あまりに厭な痛痒さに、私は胸を掻いた。
「はっ!」
手に持った鉱石ラヂヲを凝視する。
もしかしたらこれは、棄ててしまった方がようのではないだろうか。
旧い我が家。暗い我が家。陰鬱な我が家。
烏賊の塩辛が旨かった。最近酒ばかりで飢えを紛らわしてまともに腹が膨らむものを食った記憶がない。
私は卓袱台に載ったそれを見詰めながら一口酒を煽る。
「…………」
私は、礦石ラヂヲを、持つて歸つて、しまつた。
これは死者の声を、幽霊の怨嗟を聞くものなのだろうか。しかし昨夜は確かに母の声を聞いた。これは過去の音を聞くものではなかったのか?
わからない。
だがあの子供の啜り哭く声を聞いてしまっては、もうこの鉱石ラヂヲを使う気は、起こりそうにない。
ああ、しかし焦がれる。
またあの優しかった母の声が聞きたい。声に包まれていたい。
そんな葛藤をしている間に時間ばかりが無為に流れる。気付けば日付が変わってそこそこの時間が経とうとしていた。
もう酒はとうに切れてしまっているのに、寝つけなくて苛立っている時だった。またあの鉱石ラヂヲが独りでにスイッチを入れて音を垂れ流す。
灯りを消して世界に緞帳を落としたが如く静まり返った我が家では、小さな物音ひとつ、それこそ家鳴りが少し軋んだだけでも酷く耳に気障りで、寝ていても眼を醒ましてしまうというのに、寝られずに研ぎ澄まされた神経は、ああこんなにもよく聞こえてしまう。
私は堪らずスイッチを切った。
けれどまたすぐにスイッチが点く。
また消す。
またまた点く。
またまた消す。
またまたまた点く。
その繰り返し、その堂々巡り。
壊してしまおう。
それしかない、きっと。
縁側に立って庭の地面へ叩きつけようとしたその時だった。
高い、女の声がした。
私は咄嗟にイヤホンを耳へと押し入れた。
「…………」
女の嬌声だ。
一も二もなくにべもなく、私は縁側の廊下沿いにある寝室の前に立った。私の寝室にではない、母の寝室の前にだ。
矢張りだ。この声は、この部屋から聞こえてくる。
此の聲は母の喘ぎ聲で、今母は父に抱かれてゐるのだ。
私の母は、所謂内縁の妻というやつだった。この家も、父が母に宛てがったものだ。父は月に二度ほど、この家へ母を抱きに来た。
幼い頃催して厠へ行こうとこの廊下を歩いている時遭遇したのだ、父と母の情事に。
狂おしいほどに妬ましい。
この薄い障子がとんでもなく厚く感じてしまう。
母が病に伏せると、父は私たち母子を見捨ててしまった。晩年、母は父の話ばかりしていた。
私はその話を聞くのが堪らなく厭だったのを、今でも覚えている。
かたりと障子戸へ手をかける。
私はもう子供ではない。餓鬼ではないのだ。
そしてここの家主は私だ。
そう決意して戸を勢いよく開けようとした時だ。
ばりばりばりばり。
無数の腕が障子を破って私に襲いかかって来た。
腕らは一瞬で浴衣を剥いで、生白い私の肌に爪を立てた。
障子の向こう、母の寝室へ引っ張られると、そこには無数の亡者がいた。鬼だ。死霊だ。屍鬼だ。餓鬼だ。
その亡者たちを統べるように部屋の中心──女の胎のかたちをした孔にいたのは女の鬼だった。
「母だ」と思った。
母の面影を持った、母の姿かたちをしている鬼だ。いや、あれはきっと死んだ母なのだ。
私の知っている母ではない。
引き裂かれ、食われ、私はきっと、母の一部に還ってしまう。
しかし無数の大きく乾いた音が轟いたかと思うと、腕々は血飛沫を吹き、骸どもは次々に崩れていった。
「魂天帰して魄地に帰さず、もって鬼と成り羅刹と成る──てか、女将よ?」
声は背後の庭から聞こえてきた。振り返るとそこには二梃拳銃を構えた虎彦と、煙管を銜えたようこがやおら歩み寄っていた。
「いんや、こいつは魂魄がなせる代物じゃぁないよ」
二人は土足で縁側から家へ上がり私の両隣へやって来た。
「そもそも六道なんて概念そのものが怪しいもんさ」
「ほう」
虎彦は二十六年式拳銃であごを擦りながら片手に持った十四年式拳銃で残った鬼を撃ち殺していく。
『う……あ、ああ……』
そして最後に残った虫の息の母に止めの一撃を貫く。
「こいつらは全部こいつのせいさね」
「あっ」
ようこは私の足元に落ちていた鉱石ラヂヲを拾い上げる。
「あんたわたしの店から勝手に持ち出したね」
「なんだぁ、そいつは?」
「おや、わからないかい、こいつが太歳さね」
なん……だって……?
「太歳は木星の忌名でね、占星術や陰陽道においてはそれ単体では吉なんだが他の星と会合するとみんな悪い意味になっちゃうのさ。それにね──」
ようこは人差し指と親指で詰んだ太歳をぱきりと潰してしまった。
「不老不死の代名詞だなんて言われちゃいるが、これは同時にそれ以上の厄災が降り注ぐようになってるのさ。西洋の賢者の石然り聖杯然りのね。強過ぎる願いは呪いと同義。人を呪わば穴ふたつってね。はぁ、まったく。四十年も前に作ったものの後始末をさせられるとはね」
やれやれと、ようこは溜息を吐いて夜空を見上げた。
「今夜は十六夜かい」
ああ、そうだ。私はこの恐ろしいほどに艶かしい女に、母の面影を重ねてしまったのだ。
其れから私は暫くして小説の單行本を上梓した。本はそこそこ賣れ、いつしか私は中堅作家としてぼちぼち食へるまでに成つてゐた。
ただし熟女物の官能小説家として。
出てくる女は相變はらず、みんなようこだった。