鯛に釣られる
起きたら時間は七時半だった。あ、午後ね。家に帰り着いてすぐ睡魔に襲われ爆睡してしまったようだ。
布団から起き上がると、後頭部にじわりと血液が浸透する感じがする。目の焦点が徐々に定まり暗闇から少しずつ、視界に自室の景色が形作られる。
「腹減った……」
当然か、昨日から何も食べてないからな。立ちくらみと格闘しながら、おぼつかない足取りで部屋から出る。目的地は台所、目標は冷蔵庫。到達時間徒歩五秒。
リビングに顔を出すと祖母がリビングで韓国ドラマを見ながら、蜜柑を入れる網袋を袋詰めする内職をしていた。
「…………」
「…………」
会話はない。今日は機嫌が悪いようだ。間違えた、今日もだ。しわだらけの顔の眉間にさらにしわをよせ、赤いネットを黙々と数えている。さて、銃撃をくらう前に目標を達成せねば。
食器棚から底の浅い丼を取り出し、炊飯器から御飯をよそう。
「ちっ、日がな一日寝てばかり……」銃撃はじまた。
冷蔵庫を開けておかずになるものを探す。卵が目に留まったが、今は卵かけ御飯の気分じゃない。
「高校出て就職も進学もせんで……」
チルドの奥にご〇んですよを見つけた。
「仕事も本気で探そうとせん。毎日どこ行きようか知らんけどほっつき歩いて……」
ごは〇ですよ! 君に決めた!
「なんであたしがこんな馬鹿みらんといかんのかね」
「ッ!?」
手から滑り落ちたごはん〇すよが右足の小指に直撃した。ごはんで〇よは落ちるもんじゃないですよ、食べもんですよ。痛みに悲鳴をあげそうになるが必死に噛み殺す。
物資補給完了。戦線を離脱します。触らぬ神に祟りなし。早足で部屋に戻り扉を閉める。
「はは、何も言えねぇ……」
言葉の弾丸が的確に心をえぐる。何とか致命傷は避けたが、あのままあそこにいたら確実に蜂の巣だったな。真実は時として凶器になる。自宅警備も楽じゃない。
働きたい気持ちはあるんだけどなぁ。でもめんどくさいんだなぁ。どちらも本心だから始末が悪い。
「しかし中々上手いな……自分が馬鹿をみるってのと、俺という馬鹿の面倒をみるをかけたのか」
何が一番厄介かって直接言ってこない事なんだよ。あくまで独り言の体を装っているのがまた辛い。話しかけても無視とかされるし。
心底恨めしげな祖母の小言が、呪詛のように壁から聞こえる。まだ言葉の銃撃は続いているようだ。
うちのマンションは壁が薄く、リビングのテレビの音も俺の部屋に届いてくる程だ。これじゃおちおち彼女も呼べない。
「へへ、いねーけどな。今までも、そしてこれからも」
独り語りも絶好調だぜ。
微かに聞こえる祖母の小言をBGMに夕餉を食べる。中々に乙なもんですな。二つの意味で。
丼に盛った御飯の上にごはんです○を適度に乗せて、完成。漢の料理である。
布団の上でごはん〇すよ御飯を黙々もぐもぐ。行儀が悪いのは分かってるんだけど、これがやめられない。一人の時にしかしないから許して下さい。あ、常に独りだったわ。失念☆
「家族で食事かー、何年前にしたっけ? そもそもした事あったか?」
訳あって今は祖母と二人暮らしである。団欒の食卓というものから随分と遠く離れてしまったもんだ。別にいいけど。どうやら俺の心は当の昔に枯れてからからに乾燥しているらしいや。このまま乾燥してひび割れて、惰性に任せて風化していくのも悪くない。そう思えてしまう。人生に潤いを求めても、俺は多分、急激な環境の変化に耐えられないだろう。
晩飯を食べ終わりシャワーを浴びた後、部屋でゴロゴロしているともう深夜一時だった。
ちっとも有意義じゃないのに時間は無情にも過ぎ去っていく。相対性理論なんか嘘っぱちじゃないか、半ページ分も稼げなかったぞ。
全く眠くないので散歩という名の深夜徘徊に出かける事にした。 実は結構な頻度で徘徊に出掛けている。趣味といっても差し支えないだろう。何の目的もなく、ただぼんやりと近所をほっつき歩くのだ。
いつものように祖母にバレないよう(ぶっちゃけバレバレなんだけど気分的に)こっそりと玄関から外に出る。ギギィーと扉が軋むが毎度の事なので気にしない。
目の前のエレベーターをスルーして通路の一番端の螺旋状の非常階段から地上を目指す。特に意味はない。
頬を撫でる生温い風が若干汗ばんだ首筋の熱を奪う。もう夏がすぐ後ろに迫っている事を実感させる。空を見上げると粗悪な真綿をちぎったような雲がちりばめられていた。
アスファルトで舗装された道をふらふら歩く。都会でも田舎でもない中途半端な町並み。大した高さもないマンションと典型的な日本家屋が共存している。統一性の欠片もない。数年前までは、田んぼが散見していたのに軒並み住宅地になってしまった。
近代化の煽りを受けて少しずつ街も装いを変えているのに、俺は変わらないなぁ……何も成長していない。背丈は伸びたが中身は昔のままだ。
「ネバーランドの住人かっての。やぁ、僕はニーターパン、社会奉仕なんかくそくらえさ」
救えねぇ。
「くっ、ははは……ひっははふへほは」
思わず笑いが込み上げる。自虐、自嘲は淀みなく心から溢れ出る。原因は全て自分にある事は分かってる。だけど、それを改善しようと思わない。何に対しても本気になる事が出来ない。燻る事もなく、ただ惰性に身を任せ悪戯に日々を過ごす。不燃ごみだ。
「ひはっはっはっ、はっはっははははふははくはあひはははははははふはははへふへははっははひひへははひゃはくひりははははははははははははしはははははははははははははははははははははははははははははははははははにははははははははははははははははははははははははははははははははははははたはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははいはははははははははははははははははははははははは」
自分の滑稽さに爆笑が止まらない。テンションのギアがハイに入る。ぴょんぴょんととち狂ったバッタのように大地から離着陸を繰り返してみた重力に逆らい必死にホップステップジャンプ視界をメリーゴーランドしながらフルーチェばりにだらけてとろけた脳みそをさらにシェイキング撹拌遠心分離いっそちぎれろははは通報されていいレベルむしろして下さいしてしろしなさいしやがれちくしょうぁいたたたたひぎぃ。腹がよじれ過ぎて攣った。日ごろの運動不足が痛祟った。
「はっははははひっーひはははぁっ、はぁっ……ぐぇ」
堪え切れずアスファルトに膝をつきくずおれる。車道に前転で転がり出る。頭皮に石片が食い込み、涙が出た。
「……………」
テンションは上昇する力を失い、重力に身を任せるように自然落下を始める。混乱は早々に解け、脳みそは冷静に現実を直視する。
いつからだろう? いつからこんな無気力になった?最初からこんなだった気がしないでもない。何もかもどうでもいいとすら感じる。
車道に俯せでぐったりとへばり付く。日昼の熱が残っているのか、微かに暖かい。不快だ。百メートルくらい先で信号が黄色く点滅していた。まるで黄泉の国へと俺を導いているように。錯覚だ、仮に死後の世界があったとして、そこに俺の居場所はない。なんの役にも立たない人間風情を置いておく程、悪魔も閻魔も優しくはないだろう。
「車が俺に気付かず轢いてくれねーかなー」
「何を、やっているの……?」
「あ?」
声がした方向に首を捩曲げる。がりりと頬が削れた。
そこには黒衣に身を包んだ少女が俺を見下ろしていた。
雲の切れ間から月の光が少女の顔を照らす。
整った顔立ち、死に化粧のように病的なメイク、本願寺輪廻だった。
「いやぁハンバーグにでもなろうかなと」
即席の愛想笑いを顔面に貼付け、力無く答える。
「食品にジョブチェンジなんて、どんな了見よ」
やれやれといった感じで肩を竦め、首を横にふる。所作が一々大袈裟だ。てかすごいな、車道に転がっている変人と言葉のキャッチボールをする勇気が。
「尊敬するヒーローはアンパン〇ンです」
「そう、私は嫌いだわ」
「そりゃまたどうして?」
「長時間外気に触れた常温放置されたあんパンなんて食べたいと思わないもの。きっと表面は埃とか塵とかでびっしりよ」
「……こども向けファンタジーにリアリティ求めちゃダメでしょ」
「こども向けだからこそよ。食べ物はとても身近な物……問題が起きてからでは遅いの」
「わー、理屈をこねるの上手ですねー。僕がミンチになったらこねこねして下さいよ」
「遠慮するわ。料理苦手だし、作れても食べ切れないもの」
そういう問題なのか。
右手で髪を掻き上げ、立っていた石段を蹴るように跳び俺のすぐ側へ降り立った。スカートがふわりと舞い上がり黒に覆われた膝小僧がちらりと顔を見せる。ウホッ、良いおみ脚。
「所で、今暇?」
淡々とそう言って垂直に俺を見下ろす。月光を背にしていて、表情は見えない。返事は決まっていた。
「逆ナンに二つ返事でついていくくらいには」
そう言って半笑いで起き上がると、急暴落していたテンションも多少持ち直していた。
―――――
本願寺輪廻に付き添って歩く事、十五分。近所の川の側まで来ていた。
川の幅は二十メートルくらい。藻で車体をコーティングされた自転車が水面から顔を覗かせ、哀愁を漂わせている。川岸はコンクリートで護岸され、川というよりは巨大な排水溝と言った方がしっくりくる。
左前を歩く彼女の横顔を観察する。例に漏れず全身黒ずくめのロリィタファッションでコーディネート。ポンチョ型のコートを羽織り、黒いてるてる坊主みたいだ。女性ってのはお洒落を我慢だと思っている節があるよな。昼間にこんな格好してたなら影だけ残して蒸発してしまいそうだ。深夜にばっちりメイクが決まってまぁ、肌荒れとか大丈夫かしら。もしかしたら夜のバイトとかしてるのかな、余計な詮索か。何もかもが謎な人だ。
カツッ、カツッと厚底の黒靴で軽妙な音を奏でながら、アスファルトの道を先導する彼女に、努めてフレンドリーを装い話し掛けてみる。
「よく車道に寝そべった人間に話しかけようと思いましたね」
「寝そべる前から見てたわ」マジでか。
「……どのくらい前から?」
「急に笑い出して飛び跳ねながら回りだすとこから」一部始終じゃねぇか。
何食わぬ顔で告げられた真実に、溜息が零れた。本当に変わった人だな。
「だったら尚更声かけたくないでしょうに」
「別に。私もたまに似たような事するから」
サラっとなんかカミングアウトしたな。取り合えずスルー。
「へー」
「未知の生物に追い掛けられるという状況を仮定して走り出したりするの」
「聞いてねーし、一緒にすんなし」
そんなシミュレーションが必要な程スペクタクルな生活なんて送ってないから。
「ところでそれなんすか?」
彼女が抱えているそれ――人の背丈の半分程の長い筒状の袋――を指差す。
「もうじき分かるわ……」
含みを持たせた言い方に首を傾げる。そこから歩く事、五分。
「目的地はここ」
到着したのは橋の上だった。アスファルトで補強された何処にでもあるようなありふれた橋だ。
橋の真ん中まで歩くと彼女はおもむろに筒状の袋のチャックを下ろし中身を取り出し始める。中から出てきたのは二つに分かれた釣竿だった。
「釣りとかするんですね」意外過ぎる。
「した事ないわ」
「は?」
「今から始めるの」
彼女は黒い外套のようなマントの下から黒いポシェットを取り出す。
「……何でまた釣りなんて?」
「鬱屈して眠れない夜を乗り切る為の素敵な趣味を作ろうと思って」
そう若干声を弾ませる彼女。小悪魔を模した翼としっぽが生えた可愛らしいポシェットの中から、ルアーやらワーム、釣り針、鉛で出来た錘等が入った半透明のプラスチックケースを取り出した。ギャップぱねぇ。
釣りねぇ……何気なく橋の欄干に立て掛けられた濃緑の釣竿を手に取ってびっくり。八九頭漆の驚愕。
「凄い良い奴ですね。これ」
首を高速でぐりんと捻り上げて、こちらを向いてきた輪廻さん。目がキラッキラしてるんだけど。
「分かる? 安物だとすぐ壊れてダメになるらしいから奮発したの。カーボン製で軽くてしなやかだけど折れにくいんだって。レビューに書いてあったわ」
紫色のワームを指でぐにぐにしながら得意げに話す。てか通販かよ。よほど誰かに聞いて欲しかったんだなぁ。不覚にも可愛いとか思ってしまった。
「ちなみにおいくらで?」
「ロッドだけで三万円」
「ぶっ!?」
鼻水噴き出しそうになった。初心者の初期投資にしては額がデカすぎないか? ブルジョワの考える事はわからん。
リールは滑らかな深紅色をしたベイトリール。橋の街灯の光を浴びて蠱惑的な光沢を放っている。これもどうせお高いんでしょう?
「ベイトリールって難しいんですよねー、僕も初めて使った時はすぐバックラッシュばっかさせちゃって」
ふふ、こうみえて小学生時代はルアーフィッシングにハマったものだよ。竿は五千円だったけどな!
お年玉はたいて買ったシーバス用の釣竿。中学に進学した頃に近所の川の主(木の根)との激闘の末に折れてしまった。それ以来釣りはしていない。ほろ苦い記憶だ。
「べいとりーる? ばっくらっしゅ?」
首を傾げ抑揚なくぶつ切りの音を並べる輪廻さん。こんな玩具あったな。押したら喋る五十音マット。てか、え? 嫌な予感しかしない。
「えっと、投げ方分かります?」
ふるふると力無く首を振る。
「糸に餌付けて投げればいいんじゃないの?」
「全国津々浦々の釣り人さん達に謝れ」
ツッコミ時に丁寧語添付機能が働かなくなった。いかんな、目上の人は上辺だけでも敬えって学校で習ったのに。まぁ怒られたら謝ろう。
仕方がないので糸の結び方や投げ方を一通り教える。久しぶり過ぎて俺もうろ覚えだったけど。
―――
一時間後、橋の上で優雅に釣りを楽しむ俺と、地面に両手両膝を着いてうなだれる輪廻さんの姿があった。輪廻さんはその、何というか……致命的に不器用だった。
夜で手元が見えなかったのもあるだろうけど、ルアーの金具に糸を通すのに五分近く費やし、八の字結びを教えても全く出来ず(結局固結びにしていた)、彼女がルアーを川へ投げ入れる事はなかった。本当に服飾系の専門学生なんだろうか。
ヒュン。シュルルー、チャポン。キュルキュルキュルキュル……ヒュン。シュルルー、チャポン。キュルキュルキュルキュル。
「釣れませんね、ポイント変えます?」
足元で体育座りしている輪廻さんに軽く提案してみる。
「………」無視。
「ルアーよりワームの方が釣れるかも。餌変えても良いですか?」
「………」
ガン無視。どないせいっちゅうんじゃ。釣竿を欄干に立て掛け、彼女から尻一つ分の間を開けて座る。
目の前で月の光が水面に反射し、たなびいている。幻想的といえなくもないけど、視界の端に映るゲオの明かりが幻想的な風景をぶち壊していた。
「分かってるわよ……自分が要領悪い事くらい」
ぽつりと、隣で憎々しげな呟きが聞こえた。
横目で顔をチラリ。唇を真一文字に結びながら恨めしげに、車道と歩道の境、白線に三白眼を向けている。
よっぽどショックだったんだなぁ。それもそうか、三万もする釣竿を買ったのに釣りを出来ないのは残念過ぎる。フォローを入れるべきか迷ったが、取り合えずスルーしてみる。
「はぁ……はぁ……はぁ」
別に俺がハアハア言ってる訳じゃないからね。輪廻さんが隣で膝に顔を埋めながらため息連発してるだけだからね。
「まぁ得意不得意は誰にでもありますから」
笑いながら、当たり障りのないフォローをしてみる。
「そんな取って付けた様な慰めなんていらないわ。憐憫は相手を傷つける結果しか生まないのよ。そこのところを理解して頂戴。全く、気の利かない男ね」
フォローは瞬時に叩き落とされ、跡形もなく砕けちった。あまりに理不尽なとばっちりに、思わず渇いた笑みが零れる。
「興が冷めたわ……帰りましょう」
凛とした声調で帰宅を提案する。彼女はすくりと立ち上がり腰の辺りの埃を払う。
さっきまでの陰欝な雰囲気が微塵も感じられないところをみると、俺に対するエイトアタック(八つ当たり)によりストレスを体外に放出したようだ。オヤクニタテテナニヨリデス。
「結局、何も釣れませんでしたね」
言われっぱなしのままも釈然としないので慇懃に傷口をつつく。我ながらちっちぇな。
「貴方が釣れたから満足よ」
釣竿を分解しながらそう淡々と宣う。落ち着け、俺のポジティブ脳。あれだから、他意はないから! からかわれてるだけだから! 別に『貴方と一緒に過ごせるきっかけになったから満足よ』とかそういう意味じゃないから!ちょっとした言動に過剰反応して希望的観測に繋げたがるのはモテない男の悪い癖だ。相手の言葉を勘繰り、さも相手が自分に好意を抱いていると勘違いしてしまう、そんな思春期男子の悲しい習性に、俺は全力で抗いますよ!
「家まで送りますよ」
緩みたがる表情筋を制し、無表情を懸命に構築する。
「ありがとう」
月光に映える彼女の柔らかな微笑みに、俺の無表情は瓦解した。
鬱と悦の間を右往左往。忙しい夜だな。俺にしては中々どうして、有意義じゃないか。そんな漆の、夏の夜の夢。