プロローグ ~8:2 決意と惰性のダイアグラム~
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突然だけれど、私の名前は本願寺輪廻。ニートよ。探偵でもなんでもない、そう、純然たるニート。純然たるといえば聞こえは良いわね。これが犬猫なんかの血統書に対する形容動詞であれば良かったのでしょうけれど、そうじゃないわ。端的に言えば、私は生粋の『落ちこぼれ』ということ。
ファッション界の第一線で活躍する有名デザイナーの母と、その仕事の一端を任され、東京の高校に通いながらブティックを経営する妹を持つ私は、常に二人と比べられて――いえ自ら比べて生きてきた。わざわざ地方の服飾系専門学校に通ったのも偉大過ぎる母親の権威やコネの影響を受けたくなかったから。まぁ結局中退してしまったのだけれど。
幼い頃は漠然と母親と同じ職業に着くと思っていたわ。それが夢だった。目標だった。でも時が経ち、現実が、進路が見えてくるにつれ私の夢は遥か遠くに離れていった。早い話が私には才能がなかった。生来の自分が不器用なことを差し引いてもお釣りが出るくらい、適性がなかったのよ。
テレビ画面の中で、でっぷりと太った中年が剣と盾を装備してダンジョンを歩き回っている。度々目の前に立ち塞がるモンスター達をバッサバッサと切り倒し、せっせとアイテムを拾い集めている。働き者ねぇ。でも操作してるのは私なのだから、私が働き者ということにならないかしら。ならないわよね。
緩慢な動きで窓の外に目をやると、白のカーテンの向こうに青空が広がっていた。私が起きてこのゲームを始めた時にはまだ外は暗かったから、かれこれ八時間以上プレイしていたことになる。この手のローグライクゲームってやめ時が分からないのよね。パズルゲームもそうだけれど。とことんモードとかしていると平気で半日経ってたりして驚き。
軽く伸びをしながら、ベッドに仰向けに倒れ込む。ぼふりと羽毛布団が沈み太陽光に照らされた微細な埃が宙を舞った。クーラーによって少し肌寒いくらいの室温が眠気を誘う。まぶたを閉じて昼寝の体勢に入ろうとすると、唐突にインターホンの音が響いた。
「空いているわー」
ぼそぼそと小さな声で呟くとそれに呼応したかのようにドアノブが回り、玄関の扉が開く音がした。
「お邪魔しまーあー涼しいー」
足音と、ビニールが擦れるような音に続き、カーテンドアが開かれる。若干猫背の青年がのそりと現れた。ぼさぼさの頭、だらしない黒のTシャツの上から半袖のドレスシャツを羽織り、少し大きめの黒いカーゴパンツといった出で立ちの、お世辞にも好青年と言えないその男は、死んだ魚のような瞳をこちらに向ける。
八九頭漆。私の唯一の友人にして、一蓮托生の落ちこぼれパートナー。
「おはよう。気持ちの良い朝ですよ輪廻さん」
ため息混じりに皮肉を交えてくる漆。そんな彼の言葉を一笑に付し私は事実を伝えてあげる。
「いらっしゃい漆。正確には『おはよう』ではなく『おやすみなさい』よ。今からシエスタるつもりだったから」
「シエスタるって何だよ昼寝って言えよ。てか鍵締めなさいよ物騒だよ。あと温度下げ過ぎ部屋寒いよ」
「来て早々注文の多い客人ね……図々しいと思わないの?」
漆はテーブル近くの白黒のクッションに腰を降ろし、手に持っていたビニール袋からパンを取り出しこっちに放り投げる。私は慌てて起き上がり、それを片手でバシっと掴み取ろうとして失敗、弾かれたパンはテレビに激突しベッドの上に転がり落ちた。
「注文じゃない忠告だ。友を思いやりあまつさえ食料まで調達してきた友人を、甲斐甲斐しいとは思わないのかい?」
「そうねー騒々しいとは思うわね。鬱陶しいとも言えるかしら」
転がったパンの表面をはたき、息を吹きかけながら言うと、漆は呆れた様子でため息をつき、テーブル上のリモコンでエアコンの温度をいじった。
こんな軽口を叩きあっているけれど実は今、私達は逼迫した状況にあった。先日、突然の母親の襲来により、勝手に専門学校を退学したのを糾弾された私は、東京の実家に連れ戻されそうになったのだけれど、漆と二人で必死の説得、懇願(実際は殆ど漆のおかげで、私は何もしていない)したことにより何とかここに留まることを許してもらえた。けれど、条件として家賃以外の生活費は全て自分で賄わなければならなくなってしまった。一人暮らしなら当然とか言わないで。私を誰だと思っているの?
「アルバイトを始めようと決意はしたものの、中々身体は動いてくれない……この過酷な就職難の現代社会に、私の居場所はあるのかしら……?」
「モノローグ口から出てるから。身体動かないってなんだよ」
「履歴書書こうとすると指が麻痺しちゃう病」
「あるある過ぎて困る」
二人して乾いた笑い声を上げる。収入がないと、せっかく守った一人暮らしの場もすぐに終焉を迎えてしまう。お母さんに啖呵を切った手前、今更実家になんて戻れるはずもない。私が自立出来る、最後のチャンスなのだから。
そんな私を心配して、こうして職場のパンを持ってきてくれる漆の気遣いが辛い。憎い。
「裏切りもの」
「は?」
「この間まで私のヒモだったくせに」
つい悪態が口から出てしまう。冗談めかして言ったつもりだったけれど、本気でショックだったのか漆は愕然としている。
「えーいきなり何この言われよう」
「私の知ってる漆は死んでしまったのね……」
よよよ、とわざとらしく泣き真似をすると、手に持っていた漫画をテーブルに置き、狼狽えた様子でツッコミを入れてくる。
「死んでないよ!? 目は普段の二割増しで死んでいるけどいつもの優しい漆さんですよー?」
「嘘。働いてない私を内心見下している。あと自分で自分のことを優しいとか言うのはどうかと思うわ」
「ひどいよ……こんなの絶対おかしいよ……」
がくりと項垂れる漆を横目で見ながら、パンをちぎって口に放り込む。咀嚼すると口溶け軽い甘味が口の中でじんわりと広がった。貴方は優しいのではなくて甘すぎるのよ。ともすれば、依存したくなってしまうくらいに。