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地金の唄  作者: 河城真名香
地金の唄
15/17

たったひとつの冴えないやり方

 二日が経った。慧子さんが言っていた通りに事が運んでいれば、今日、輪廻の所に引越し業者が来る手筈となっているだろう。というか、来ている。


 そして、俺はどこで何をしているかというと、輪廻の住むマンションを、新幹線の高架線を挟んで向かい側のマンションの屋上から見下ろしていた。


 澄み渡る蒼天に小鳥達が飛び遊ぶ。絶好の洗濯日和。まだ午前十時半だと言うのに、夏仕様の日の光が容赦なく照り付け、俺の地肌と髪を焼き尽くす。白いペンキで塗り固められたコンクリートの照り返しがこれまたきつい。干からびるんじゃないだろうか。


 慧子さんと喫茶店で別れた後、俺は当てもなく街をさ迷いながら打開策を考え続けていた。家には一度も帰っていない。昨日はここに一泊した。おかげで腰痛が尋常じゃない。しかし、これと言った解決案も思いつかず今に至る。まだ私が本気ではないと言ったな? あれは嘘だ。


 この二日で俺が得たものは、無様なTシャツ焼けと、河原でのホームレスとの出会いだけだった。そんなことはどうでもいい。ホームレスのおっさんとの出会いはまた後日話すとして、今重要なのは、このままではあと数時間後には輪廻がこの街を去ってしまうということだ。


 それなのに、今の俺の心境は、頭上に広がる青空のように晴れやかで落ち着いていた。ま、今更ジタバタしたところで? 事態が好転するはずもないし? 諦めの境地って奴ですよ。


 勿論、輪廻が引越すのをこのまま見送るつもりはない。そんなことをしたら俺は一月前に逆戻り。いやそれより酷いかもしれない。ずるずると、掛け替えのない十代二十代を無作為に食いつぶし未来に希望を持てず世捨て人になった俺は空き缶古雑誌を集めながらその日暮らしを始めそして十数年後駅で自販機の下に落ちている小銭を拾おうとしゃがんで覗き込んでいたらそのままぽっくりと逝きその生涯の幕を閉じ。


「そんなのは嫌だぁあぁぁぁぁぁぁあぁ!」


 未来の自分をリアルに想像してしまい、頭を抱えながらコンクリートの上を転げ回る。


「あぢっ! 左腕熱! あっ、右腕がっ!」


 右と左を交互に焼き、身もだえしながら起き上がった。夏場のコンクリヤバい。目玉焼きが焼けるまである。汚くて食えないだろうけど。


「し、死ぬかと思った……」


 日焼け通り越して火葬されるところだった。金払って日焼けサロン行く奴の気が知れない。どんだけ苦行好きなんだ。修行僧か。


 さっきまで座っていたポジション(長時間俺がいた為、あんまり暑くない)に座り直し再び輪廻のマンションを見下ろすと、丁度入り口から慧子さんと輪廻が出てきた。というか俺マジストーカーだな。


 ここからじゃ顔は見えないが、ゴスロリとスーツの組み合わせはあの二人しかいないだろう。


「…………」


 砂漠のごとく干からびた口内から唾液を生成、飲み込む。喉が痛い。


 俺はゆっくりと立ち上がり下の階に繋がる梯子へと向かって歩き出す。策はない。それでも行くしかない。泣いても笑っても、これが最後のチャンスなのだ。


「ふふ、ははは……」


 不思議と笑みが零れる。膝も笑っている。ついでに言うと指も震えている。武者震い、ということにしとこう。そうしよう。



 屋上から降り、高架下を通って輪廻のマンションの前へと向かう。既に引越しトラックのコンテナは開かれ、引越しの準備は万端。その近くで慧子さんが業者と話している。その様子を輪廻が無表情で光のない瞳でジッと見ていた。怖い。


「なんちゅう顔してんだ」


「え……漆?……何でっ……」


 振り返りこちらに駆け寄ろうとした輪廻を片手を突き出し制止する。びくんと肩を震わせ、三歩前で止まった。そんな怯えた顔すんなよ。


「……あんま近寄んない方がいい。汗臭いから」


 二日風呂に入ってないからな。


 輪廻の方はバッチリとメイクを決め、いつもと同じ黒い……いつにもまして黒いドレスを着ていた。一切の差し色もなく、葬式に出るかのように全身を黒一色で統一している。


 俺の言葉にきょとんと目を見開く輪廻。しかし一秒後には柳眉を逆立て俺を睨みつける。慧子さんも俺の存在に気づいたようで、くるりと振り返った。


「そんなことはどうでもいいわ。電話もメールも無視しておいて、今更何しに来たのかしら?」


「電話? ああ、ごめん。電池切れてた」


「そんなの、家で充電すればいいじゃない」


「それがここ二日家には帰ってなくてさ」


「は?」


「こら。見送りに来てくれた友達にそんな態度取らない」


 慧子さんはぺしりと輪廻の後頭部をはたき、俺の格好をジッと見ると、にっと笑った。


「ちょっと見ない間に、随分ワイルドになったねぇ」


 そう揶揄されるのも無理はない。今の俺は髪はボサボサ、Tシャツは汗を吸ってよれよれになり、ズボンは泥だらけで、ぱっと見、ただの浮浪者にしか見えないだろう。一回家に帰ればよかった。


「はは、イメチェンしてみました」


「よく分かんないけど、この前より良い顔で笑うようになったね」


「色々とふっ切れましたから」


 言って、二人で笑いあう。輪廻だけが状況を飲み込めず、俺達の顔を交互に見つめた。


「どう、いうこと……?」


「この前八九頭君とお茶したの。二人っきりでね」


 確認するように俺の顔を見上げてきたので、無言で頷いた。


「あのー、本願寺さん……作業の方始めても……」


「あらごめんなさい。お願いします」


「わかりました!」


 申し訳なさそうに声をかけてきた引越し業者に、慧子さんが愛想よく会釈を返す。


 元気よく返事をすると、業者は機敏な動きでマンションへと入っていった。あの人もキリンさんよりゾウさんの方が好きなんだろうか。


「……漆、見送りに来たって、本当?」


 今にも消え入りそうな声音で囁く。知りたくないことを、嫌々確認するような、歯切れの悪い感じだった。


「まぁ、そんなところかな」


「そっか……うん」


 鼻を掻きながら曖昧に答えると、輪廻は一瞬瞳を潤ませ、すぐに俯いた。表情は見えない。バカだろ俺。他に返し方があったろうに。即座に自責の念に駆られるが、同時に嬉しくもあった。輪廻はまだ、ここに残りたいと思っているのだ。それに顔を伏せられたのは好都合だったかもしれない。輪廻の顔を見ながら決め台詞を言えるかと聞かれたら、答えはノーだ。


「一緒に見送ろうぜ。慧子さんを」


「……え?」


 言って一歩前に出る。後ろで輪廻が顔を上げる気配がしたが振り返らない。俺が話をするべき相手は、目の前にいる。


「慧子さん。お話良いですか?」


「ん? どしたの?」


「この前、伝えそびれたことがありまして……」


 なんだこのぬるっとした入り。足が震えが止まらない。踏ん張ってないと膝から崩れ落ちそうだ。怖じけづいてる場合じゃねぇっつの。


「……何かな?」


 俺の態度を見て何かを察したのか、慧子さんの気配が冷たいものに変わる。笑顔は形作っているものの、目は一切笑っていない。だがそのおかげか、足の震えがぴたりと止まった。人間、土壇場になると自然と肝が据わるのかもしれない。もしくは俺が豪胆なのか……ないな、自分で思って悲しくなった。


「……引越しを取り止めるように頼んだ時、本当は輪廻の為だなんてこれっぽっちも思ってなかったんです……俺、高校卒業してから、進学も就職もせずに今まで過ごしてきました。未だにバイトもしてません。現実を直視しないで逃げて毎日過ごしてました」


「……それで?」


 淡々と、俺に続きを促す慧子さん。もはや表情に笑みはなく、射竦めるような視線で俺を見る。


「そんな時に彼女と、輪廻と逢ったんです。色々と話していくうちに、なんか親近感というか、自分に似てると思いました。一緒にいて落ち着くし、そんな空間が心地好かった」


「そうやって二人でぬるま湯に浸かってたわけね。現実逃避出来る場所を見つけて、それが壊されそうになって必死だった」


「そ、そんな言い方、」


「その通りです」


 食ってかかろうとする輪廻を言葉で抑える。輪廻は目尻に涙を浮かべながら悔しげに俺を見た。


「漆……」


「良いさ。はっきり言って貰えた方が気が楽だ」


 慧子さんの言う通りだ。俺は怖かったんだ。やっと見つけた自分の居場所を取られるのが。俺は慧子さんを説得出来る道理も論理も持っていない。結局俺の言っていることはただの我が儘に過ぎない。この前となんら変わらない。だからこそ建前を捨て本音でぶつかる。等身大の自分でぶつける。それがこの二日で導き出した答えだ。


「輪廻と過ごしたのはたった一ヶ月程度です。でもこの一月、俺は凄く楽しかった! 十八年間の中で一番!」


「……だから?」


「俺は今の環境を守る為だったら、何でもします!」


「親御さんから自立してもいない君に何が出来るって言うの? 権利を主張するのは結構、でもそれに見合うだけの義務を、あんた達はどれだけ果たしてるの?」


「……全く、果たしてないです」


「いつまでモラトリアムにしがみついてるつもり? ピーター・パンじゃないの。人間である以上いつかは皆社会に出ないといけないの。子どものままじゃいられない。大人に変わらないといけない時が来るのよ。君も、輪廻も」


「変わります……変わってみせます! 変えてみせます!」


「ふっ。何を根拠に、」


「輪廻は言ってくれました! 今まで変われなかったけど俺と一緒なら変われるかもしれないって! こんなクズみたいな俺でも、誰かに影響を与えられるかもしれないって教えてくれたんです! 俺はその期待に応えたい……でもその為には彼女がいてくれないとダメなんです!」


 まくし立てるように吠える。実際には、ただ情けなく喚いているだけだろう。


 それでも構わない。何もせず、受け入れたふりをして諦めるような真似はしたくない。


 漠然と、夢も希望も持たず毎日を過ごしてきた。何かに打ち込む人間を、何かに勤しむ人間を、後ろから眺めていた。自分には出来ない、柄じゃないと決め付けて、俺は『クズ』であることに甘んじていたんだ。


 そんな時、輪廻に出逢った。不器用で、偏屈で、プライドが高い癖に目茶苦茶卑屈で、意思薄弱で、そのくせ頑固で、どうしようもないくらい我が儘な彼女に。


 失いたくない。俺と同じくらいダメな友達を。


 失いたくない。初めて俺を必要としてくれた彼女を。俺に変わりたいと思えるきっかけをくれた彼女を。


 奪わないでくれ、俺の希望を。


 飛び込む様に、地面に両手両膝を張り付ける。熱されたアスファルトが容赦なく俺の手足を炙る。更に頭を擦り付ける。地面の熱が心地好くさえ感じる。好きなだけ焼くが良い、頭の一つや二つ、手足の四、五本くれてやる。だから――。


「娘さんを、輪廻を下さい!!」


「………………」


 辺りに静寂が満ちる。あれだけうるさかった蝉時雨も今は聞こえない。暑さも忘れ、まるで突然霧の中に迷い込んだような錯覚を感じた。いや、ちょっと待て。今俺なんて言った?


 『輪廻を連れて行かないで下さい』ってちゃんと言ったよね言えたよね? 嘘、下さいって言った俺? 俺言った? マジで? ホントに? 本当に? 何それまるで結婚の挨拶みたいじゃん! この土壇場で何致命的な言い間違いしちゃってんの!? そもそも婚約してないし! 付き合ってすらないし!


「……この展開はあたしも予想してなかったわ」


「ぁ……いや、その」


 僕が伝えたかったことと、慧子さんが思っていらっしゃることは、多分きっと確実に食い違っていると思います。だからその~弁解が思いつかない! 頭を上げられない、輪廻の顔を見るのが怖い!


「君の覚悟は分かったけど、結局根本の解決にはならないのよね、だから、」


「お母さん」


 可哀相な子を諭すような慧子さんの言葉を、輪廻が遮った。思わず顔を上げる。


「……何? あんたまでとち狂ったこと言うつもり?」


 とち狂ってたんだ、俺の台詞。いや返す言葉もないけどさ。


「ごめんなさい」


「え?」


 消え入りそうな小さな声で輪廻が謝り、頭を深く下げる。その様子を見た慧子さんは目を見開きひどく驚いた。 俺は喫茶店で話していた慧子さんの言葉を思い出す。


『あの子、一度も人に頭下げたことないのよ? 自分が悪いことしても素直に謝れない。そんなもんだから、ずーっと一人ぼっちだったの』


 十九年間、誰にも頭を下げたことのない輪廻が、誰に催促されるでもなく頭を下げた。それは慧子さんを驚愕させるには充分過ぎた。


「勝手に退学してごめんなさい……まだ学校に通ってるって嘘ついてごめんなさい……不出来な娘で、ごめんなさい」


「輪廻……」


 慧子さんが息を呑む。輪廻は、黒いスカートの裾をきつく握りしめ、俯いたままだ。


「今まで散々大口叩いてたくせに、何も出来なくてごめんなさい……本当は解ってたの。私にはお母さんやあの娘の様な才能はないって。でも、認めたくなかった。お母さんに不様な私を見せたくなかった。だから散々意地張って、一人でここまで来て、専門学校に入って……なのに、逆に現実を突き付けられたわ」


 震える声で彼女は嗤う。ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には涙が浮かんでいた。


「周りの人に普通に出来ることが、私には難しい……ふふ、生粋の不器用だったのよ、私。お母さんの、娘なのに」


 優れた母親と、優れた妹を持つことに対する誇り、劣等感。彼女はずっとそれを抱えて生きてきた。


 そして、いつかは自分も同じように服飾の世界で生きていきたい。そう輪廻は夢見ていたのだ。だがそれは叶わなかった。努力は報われる。夢は諦めなければ叶う。そんな言葉は嘘っぱちで、何の根拠もない。頑張ればどんな職業にでも就ける。それは就いた奴の論理だ。たどり着いた者だけに適用される勝者の論理だ。後付けだ。では未だ夢を掴んでない人間には?


 何もない。真っ暗だ。だが――。


 そんな暗闇の中で、それでもがむしゃらに進める人間はまだ良い。希望がある。可能性がある。


「その事実に気づいた時、違うわね……その事実を受け入れた時、私には、」


 俺には、輪廻には、自分には才能がないと、適性がないと、歩みを止めてしまった人間には――。


「何も残ってなかった」


 無表情で空を仰ぐ輪廻を、慧子さんはただ、じっと見つめる。


「学校を辞めた日、私何も感じなかったの。夢を諦めたのに、またお母さんを裏切ったのに、悔しくとも悲しくとも後ろめたくもなかった。もう何も考えられなかったの。ただぼんやりと、意味もなく街をウロウロして……気づいたら自転車の鍵も失くしちゃってた」


「……馬鹿ね」


「ふふっ……その時よ、漆に逢ったのは。見ず知らずの私の為に、自分の傘を壊してまで鍵を開けてくれた。死んだ魚の様な目をしながら」


「おい、最後余計だろ」


「あら? 事実だったでしょう?」


 さもありなんと言いたげにとぼけやがって。真実は時として人を切り裂く刃になるんだよ。


「ふふふ、ありありと想像出来るわ」


 慧子さんまで同意を示す。そかそか、四面楚歌。


「余りにも不審者じみていたものだから、関わりたくないと思って早々に場を離れようとしたの。そうしたら、車にぶつかって、自転車が大破して。流石に途方に暮れたわ……でもね? さっきの不審者がまた私に話しかけてきたの。漆、覚えてる?」


「……忘れたよ」


 はいつくばったまま、俺は顔を横に振る。何でそんな良い笑顔なんだよ。直視出来ん。あと不審者言い過ぎ。


「こう言ったのよ。『家まで送りましょうか? 税込み百円で』って。もう私可笑しくって。くふふ」


 ああ、言ったよ言った。本当は覚えてたよ! 人の口から聞くとアレだな、超恥ずかしい。


 輪廻は笑いを堪えきれず、くっくっと肩を揺らす。目尻に溜まった涙を拭いながら、慧子さんに向き合った。


「気付いたら、他愛のないことを話していたわ。あれだけ人間関係なんて煩わしいと思っていたのに、漆とだけは普通に話せたの。一緒にいて楽しいと思えたの」


「そう……それで? 現実は何も変わってないわ。あんたは専門学校を退学して、親の庇護がないと何も出来ないのよ?」


「そうね、認めるわ。私はどうしようもなく甘ったれで、一人じゃ何も出来ない餓鬼よ……でも!」


 スカートが、フリルの袖が汚れるのも厭わず、輪廻はアスファルトにひざまずいた。凛とした瞳で真っすぐ慧子さんを見据える。


「お母さんの手を借りてよちよち歩くのは絶対に嫌! 確かに私は一人じゃ歩けないわ……でも、漆と一緒ならきっと立てる。独り立ちは無理でも、二人立ちなら出来る……ここに残らせて下さい! もう一度私にチャンスを下さい! お願いします!!」


 悲鳴の様な懇願が響く。続いて俺も頭を下げる。


 十数年間、彼女の胸にわだかまっていた想い、劣等感が吐き出され、本音となって炸裂した。果たして、娘の叫びは母親にどう響いたのだろうか。


 ぽたり、ぽたりと額から浮き出た汗の雫が地面へと吸われる。砂時計の様にゆっくりと時を数える。やがて、頭上から大きなため息が聞こえた。


「勝手にしなさい」


「……え?」


「勘違いしないのよ? 少しの間保留するだけだから。家賃は今まで払ってあげるけど、他の生活費は自分で工面なさい」


「え? ……え?」


「返事は!?」


「あぅあっ、はい!」


 腰に手を当て輪廻を一喝した慧子さんは、ふっと笑みを零す。


「やりたいことが出来たら、教えなさいよ?」


「……うん」


「さ、撤収撤収! すいませーん! トラックに積んだ荷物、部屋に戻して下さーい!」


「「「了解しましたー!!」」」


 恐らく、どこかで聞き耳を立てていたのであろう引っ越し屋の作業員達が、元気よく返事し、一斉に作業を始める。うち一人が俺に向かってサムズアップをしてきたので、満面の苦笑いを返しておいた。


 輪廻が立ち上がるのを見て、俺も立ち上がる。ふらつく輪廻を後ろから軽く支えると、背中越しに睨みつけられた。何でだよ。


「さてと、私は仕事に戻るから、後は任せるわ」


「うん……いってらっしゃい」


「いってきます」


 もじもじと、恥ずかしそうに慧子さんを見送ろうとする輪廻を微笑ましく見ていると、急に何物かに襟首を掴まれた。


「ちょ、は!? 慧子さん!?」


「八九頭君には駐車場まで見送りに来てもらおうかしらー」


「は、離して下さい! 自分で歩きますから!」


「だーめ、娘をたぶらかした悪い男にはお仕置きよ」


「いやたぶらかしたって、ぐはっ! がべべっ……!」


 冗談抜きで息が出来ない! キマってる! これ首キマってる! あとなんか頭に柔らかいの当たってるから! 首は地獄、頭は天国、これなーんだ? 俺だ。



「あーあー、悔しいなぁ……娘が盗られちゃった」


「いやいや、いやいやいや」


 車体の屋根に突っ伏して、不穏なことを呟かないで欲しい。返答に困るじゃないか。


 微風が表皮を撫で、僅かながら涼を提供してくれる。さやさやと葉が擦れる音が耳に心地好い。マンションの影に覆われている駐車場は比較的涼しかった。夏の風を吸い込みながら、手持ち無沙汰な俺は靴のつま先でアスファルトを削る。


 童女の如く頬を膨らませる慧子さんを横目で見遣ると、どことなく嬉しそうだった。


「ありがとね」


「え?」


「あの子の本音、初めて聞いたかも。全部八九頭君のおかげだよ」


「いや俺は何も! ただ自分の我が儘を吐き出したというか、余所様の問題に要らん口出しただけというか……すみません」


 思い返すとろくなもんじゃねぇな俺。スマートじゃないにも程がある。


「それでも、以前のあの子からは考えられないわ……輪廻を変えたのは君よ。もう一度お礼を言わせてちょうだい。八九頭君、本当にありがとう」


「慧子さん……」


 俺の方に向き直り、深く頭を下げる。


「でもあくまで保留だからね? 自分の生活費も賄えないようなら、次は縄で縛ってでも連れて帰るから」


 お、恐ろしい。この人なら本当にやりかねないからなぁ。


「はは……きちんと伝えておきます」


「うんうん! ……八九頭君。輪廻の事、お願いするわね?」


 ずいっと、鼻先が触れ合う距離まで迫る慧子さん。近い近い近いっというか、どういう意味? まさかの急展開親公認? いや待て早まるな俺これはきっと信玄の罠だ。


 まぁ、あれだけの啖呵切ったんだ。ここで快諾出来なきゃ男が廃る。慧子さんにはどんと大船に乗ったつもりで旅立って貰いたい。


「いやま、その……善処します……ぐはっ!?」


 泥舟だった。眼を逸らしながら、しどろもどろに答える俺を、慧子さんはバシッと突き飛ばすと、颯爽とガルウィングのドアを開ける。


「期待してるわ。それじゃあね!」


 竜巻の様に現れて、突風の様に去っていった。カリスマというのは、常に人に影響を与えなければ気が済まないのかもしれない。そういう意味じゃ、輪廻もその資質を継いでいると思う。俺主観だけど。


 あっという間に遠ざかり、豆粒の様になった銀色のスポーツカーが、陽炎に消えていくのを、俺は眼を凝らして見送った。



 まだ外は明るいものの、太陽が傾き、部屋の中には光が欠乏していた。要するに薄暗い。


 運び出された段ボールや家具類は引っ越し屋が運んでくれたが、内装までは管轄じゃないらしく、とっとと帰ってしまった。ま、当然か。


 なので一度家に帰り、シャワーを浴びた俺は、輪廻の二人で、元通りになるまで荷解きをやっていたんだけど、思ったより時間が掛かってしまった。日が暮れてはないが時間的には夕方を過ぎている。


「はぁー、疲れた疲れた」


 テーブルの側に腰を下ろす。輪廻はベッドの側、バルコニーへ繋がるガラス扉の前にもたもたとカーテンを取り付けていた。


「手伝おうか?」


「……いい」


 すげなく拒否された。因みに、さっきからこんな調子で殆ど会話にならない。ずっと仏頂面である。


 やっぱりあの婉曲的プロポーズ紛いの土下座が原因かな、確かに気持ち悪かったもんなぁ。中学時代、やたらと俺の世話を焼いてくる隣の席の女子のことを思い出した。余りにお節介を焼いてくるので『鬱陶しいなぁ、奥さんかよ』って冗談混じりに言ったら、『え……マジ無理』って真顔で返されたっけ。死にたくなってきた。


 トラウマタイムトラベリングに勤しんでいると、おもむろに輪廻が口を開いた。


「……お母さんと何を話していたの?」


「ん? 軽い世間話だよ」


「そう」


「輪廻に宜しくって。風の様に帰ってったよ」


「そう」


 実際問題、輪廻はここに残ることにはなったが、今まで通りとはいかない。いや、いけない。家賃は慧子さんが負担してくれるものの、生活費は自分で工面しなければならないし、専門学校に通うという目的も失った今、輪廻は自分の将来を模索しなければならない。勿論俺自身も。ようやく、スタートラインに立っただけだ。


「……漆は、これからどうするの?」


 ベッドの上にちょこんと座り、黒い枕を抱きしめて、口元を隠した輪廻が質問してくる。


「とりあえず早急にバイトを見つけないとだなー。そろそろ穀潰しは卒業したい」


 マジで祖母さんに刺されかねんからな。


「ふーん」


「輪廻は?」


「そうね……ぷょぷょかしら」


「は?」


「何よ、その文句言いたげな顔は?」


「何言ってんだこいつ何で今の話の流れからぷょぷょに繋がるんだ訳が分からないよという顔だ。って、いそいそと準備すんじゃないよ!」


「別に良いじゃない! ここ数日でごちゃごちゃしすぎて疲れているの! 少しくらい息抜きしても罰は当たらないわ!」


 何だそれ。最早屁理屈ですらない。慣れた手つきで素早く三色コードをテレビの裏側に挿し、スーファミのスイッチを入れる。その輪廻の行動に、呆れつつも安堵している自分がいることに気づき、思わず苦笑してしまった。


「…………」


「はいはい」


 無言で差し出される2Pコントローラーをため息混じりに受け取る。ま、人間早々変われるもんじゃない。だけど、僅かでも変われたんなら人は変われる。目の前のゴスロリ少女が変われたように。変え難い俺もいつか変われる日が来る、と信じたい。


「漆……」


「んー?」


「その、色々と……ぁ、ありがと……これから、よろしくっ」


「……あいよ」


 とりあえず今は、この代えがたい日常を満喫するとしましょう。明日から本気出す。現実逃避の常套句じゃない、未来への宣戦布告だ。

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