未知との遭遇2
駅前の喫茶店は昼時ということもありOLや営業マン、大学生などでそれなりに賑わっていた。注文は慧子さんに任せ、とりあえず俺は奥の禁煙席を確保することに。
店の中は外の熱気が完全に遮断され、すこぶる快適だった。若干、空調が効き過ぎている感があったが、わざわざ店員に温度を下げるように頼むほどでもない。埃っぽく、蒸し暑い自分の部屋と比べたら天国である。橙色の明かりに照らされたモダン風の内装が落ち着いた雰囲気を醸し出している。木枠に丸ガラスがはめ込まれた小さなテーブルがお洒落だ。
頬杖をつきながら、前の席で楽しげに揺れる女子大生の頭をぼんやり眺めていると、トレイを持った慧子さんが視界に入った。
キョロキョロと店内を見回していたが、俺を見つけると、にこりとはにかんでこちらに向かってきた。慧子さんが横切る度に周りの客はこぞって彼女に視線を注ぐ。
あれ、デザイナーの本願寺慧子じゃない? と花盛りの女子大生達は、なんかテンション上がってる様子。流石は売れっ子デザイナーである。だが、仮に有名じゃなくてもこの人なら周りの視線を独り占めに出来ると思う。それくらい彼女の存在感は圧倒的で、華があった。カリスマってのはこういうのを言うのかねぇ。
「お待たせ、カフェモカで良かったかな?」
「あ、はい大丈夫です」
「砂糖何本いる?」
「えー、じゃあ一本で」
ぶっちゃけてしまうと俺はコーヒーが苦手だ。飲む時は砂糖五、六本平気で突っ込むし、ミルクだってどばどば入れる。ガムシロップも入れる。ただなんとなくコーヒーの味が楽しめる男を意識してみたのだ。見栄っ張り乙。
「それより大丈夫なんですか?」
「え、何が?」
俺が声を潜めながら尋ねると、慧子さんはコーヒーカップに口をつけながら首を傾げる。
「あーいや、俺みたいなのと喫茶店にいるのを週刊誌とかに見つかったら……」
目線を天井にさ迷わせながら口ごもる。木の板がプロペラみたいに回転していた。現に訝しむような視線が俺に突き刺さっている。居心地悪いったらない。
すると慧子さんはコーヒーカップをコースターに置いて、にこりと微笑んだ。
「何の問題もないよ。あたしはタレントじゃないし。仮に写真撮られて適当な記事でっちあげられても、自分が創ったもので勝負するだけだから」
「そんなもんすか……」
やべぇ超かっこいい。
「しっかし俺みたいなって……ふふ、八九頭君は卑屈だねぇー。もっと自分に自信持たないと駄目だよ?」
「こればっかりは性分でして……」
頭を掻きながら苦笑する。俺から卑屈を取ったら何も残らない。
「さて、今日君をお茶に誘ったのは質問したいことがあるからなの」
「……はい」
慧子さんに神妙な面持ちで見つめられ、俺の鼓動はどくんと脈打ち加速する。手の平がじっとりと汗ばんだ。
「………………」
「………………」
異様な緊張感が、俺達二人を包む。周りの騒音は一切耳に入らなかった。
喉がひりつく感覚に耐えられず、カフェモカを口に含む。コーヒー独特の香りが鼻腔を充たし、思わず顔をしかめた。
慧子さんはおもむろに身をテーブルに乗り出し、俺だけに聴こえる程度の音量で囁いた。
「……輪廻とはどこまでやったの?」
「ががんぶほっ!?」
飲み込む前だったからモカたん肺にインしたおっ! 外にコーヒーを吹き出さなかった俺を評価して欲しい。周りの視線が一斉に俺に向けられたがそんなのを気にする余裕はなかった。真面目な顔でなんてことを聞きやがる!?
「げほっ、げほっ! がっほっ! い、いきなり、何言ってんですかっ!?」
「いやぁ~娘と顔合わせる機会が全然なくてねぇ、こういう話出来ないのよ。で、キスぐらいした?」
目を爛々と輝かせ、興味津々といった感じに聞いてくる。思春期の女子高生かっ!
「げほ、してないです。そもそも付き合ってないですから」
逸る心臓を無理矢理なだめ、口早に否定する。そんなリア充めいたことなどしていない……つま先握って看病はしたな。思い描くと途端にマニアック。
「えー本当に?」
「本当です!」
「つまんないなぁ。店員さーん、お冷や下さーい」
店員が運んできたお冷やをぶん取るように受け取り冷水を、喉にぶち込む。冷房は効いてるはずなのに汗が止まらない。俺の様子を慧子さんはニヤニヤしながら見つめていた。
「……そんなことを聞くために連れてきたんですか?」
「そだよ?」
悪びれもせずに即答。輪廻と話していた時とは全く雰囲気が違う。相手にペースをつかませないという点では同じだが。
「あの子ねー、友達一人もいなかったのよ」
「……本人から聞きました」
出会ったその日に地雷を踏んだからな。輪廻の前で『友達』という単語は禁句なのだ。じゃあ俺は何なんだっつぅ話だが、深く考えるのは何故か躊躇われた。
慧子さんはニヤつく唇をさらに引き伸ばし続ける。
「そっか……小さい頃からへそ曲がりでねぇ。誰に似たのかプライドばっか一人前なの。あの子、一度も人に頭下げたことないのよ? 自分が悪いことしても素直に謝れない。そんなもんだから、ずーっと一人ぼっちだったの」
「そうすか……」
容易に想像がつくのがなんとも悲しい。
「で、要領は悪いけど見てくれだけは良いじゃない? だから一人暮らししてる間に、変な男に引っ掛かってるんじゃないかって心配になってね」
「……………」
何も言えねぇ。引っ掛けてるつもりはないが変な男であることは自覚がある。
「あ、八九頭君は大丈夫よ? 今日話してみてなんとなく良い子だって分かったから」
「……ははは」
内心穏やかではなかったが、曖昧な笑みを返す。少し話した程度でそいつがどんな人間か分かったら苦労しない。
「ほら」
「は?」
「今ちょっとムッとしたでしょ? 少し会話したくらいで人間の中身なんか分からないって。悪い奴はね、こういう時占めたって思うもんなのよ」
「…………」
成る程、先の会話から既に権謀術数は始まっていたと。無邪気な笑顔の下ではしっかりと俺のことを見定めていたわけですね。まんまと引っ掛かりました。ははは、大人って怖いぜ!
俺は輪廻にそっくりな――いや輪廻がそっくりなのか――したり顔を見て、ため息を吐いた。
「それも、演技かもしれないですよ?」
「ふふ、捻くれてるねー。その時は素直に負けを認めるわ」
「……俺からも聞きたいことがあるんですけど」
「んー?」
一呼吸置いて、今度は俺から質問を切り出すことにした。今のモヤモヤの原因、本丸。
「その、なんというか……」
「引越しのこと?」
「……はい」
主導権握れねぇ。漆のバカー、いくじなしーと脳内のアルプスの少女が俺を罵った。
「大体の荷造りは終わってるわ。業者が来るのは明後日ね」
「そう、ですか」
「聞きたいのはそれだけ?」
「……あいつを、輪廻を残らせてあげてくれないでしょうか?」
「…………」
慧子さんは続きを促すように無言で俺の目を見つめる。
「輪廻は、こっちに残りたがってます。無理に連れ戻しても、きっと上手くいかないと思うんです。だから、」
「引っ越しをキャンセルしろと?」
「……はい」
ぞくりと背筋が凍る。慧子さんはさっきまでの柔和な表情ではなく、氷の美貌と呼べるような、鋭く怜悧な視線を俺を向ける。この前、輪廻と相対した時のように。
虫の良い戯れ言をほざいてるという自覚は当然あった。輪廻の生活費は全て慧子さんが出している。彼女が生活費を一切出さないと言えば、輪廻はここに残ることは不可能に近い。こっちで仕事を探すにしてもすぐには見つからないだろうし、あの性格では長続きするかも怪しい。そして俺は赤の他人。家族間の問題に首を突っ込める立場ではない。つまり、俺の言っていることは、『輪廻ちゃん学校は辞めちゃったけど、まだこっちでやりたいことあるみたいだし、残らせてあげなさいよ~。子どもの我が儘を聞いてあげるのも親の務めよ~』とか言う無責任な近所のおばちゃんと何ら変わらない。
それでも、無責任でも、俺にはこうやって頼むことしか出来ない。いや、頼まなければならない。ボロボロと涙を流す輪廻を、見てしまったから。
「……輪廻の好きにさせた方があの子の為になる。君はそう思うのね?」
「…………」
俺は慧子さんから目を逸らすようにコーヒーカップへ視線を落とした。肯定の言葉は出てこなかった。出るはずもない。
俺は、これっぽっちも輪廻の為だなんて思っちゃいない。全部、俺の為だ。輪廻がいなくなったら、エアコンの効いた居心地の良いあの部屋に行けなくなる。自宅とゲーセンへの行ったり来たりを繰り返す、あの生活に戻ってしまう。それが嫌だからこうしてお願いしているだけに過ぎない。もしかしたら俺の本心は慧子さんに見透かされているのかも知れない。
「……あたしは別に、あの娘に自分と同じ職業を目指して欲しいわけじゃないわ」
「……え?」
不意に慧子さんが話し出す。つられて顔を上げると、彼女は店の外の雑踏をぼんやりと眺めながら、独り言のように続けた。
「あの娘が生きたいように生きれば良いと思ってるし、その為の援助なら惜しむつもりもない。学校を退学しようが何しようが、それが人生経験になるなら別に構わない」
テーブルに肘をつき、コーヒーカップの縁を三つ指で持ちながら、吐き捨てるように言う。
「でも違うでしょ? 輪廻は夢を追ってるわけでも探してるわけでもない。私に対抗心を燃やしてるだけ……それが原動力になるなら良い、そう思って好きにさせてきた。でもあの娘、ただ逃げてるだけよ」
そう言って慧子さんは寂しそうにため息を吐いた。
とても口を挟める雰囲気ではなかった。慧子さんは俺なんかより輪廻の為を思っていたわけで……それに現実から目を背け逃げてるのは俺も一緒なわけで。
「ま、あの娘があんな風になったのは私に原因があるんだけどね。仕事仕事で、ろくにあの娘に構ってあげられなかったから……あはは、言い訳っぽくなっちゃった。ごめんね、こんな話して」
「いえ……」
「とにかく、今のままじゃ一人暮らしはさせられない。君が輪廻のこと考えてくれるのは嬉しいけど……」
「こちらこそ、すみません。差し出がましいこと言ってしまって」
「ううん、貴重な意見ありがとね。さ、帰りましょうか」
「あ、そのっ」
「ん?」
トレイを右手に持ち立ち上がろうとする慧子さんを慌てて制止した。中腰で首を傾げられた。
「ちょっと、この後友達に会う約束があって……ぃ、ここで待ち合わせを、その」
吃り過ぎだろ、俺。さっきまでの落ち着きはどうした。
「そっか、分かったわ。今日は本当にありがとう」
笑顔で慧子さんはぺこりと会釈する。それに習って俺も「こつらこそ」と頭を下げた。誤字じゃない。噛んだのだ。
店の出入り口へと向かう慧子さんの背中を見送りながら、俺はさっきの会話を反芻していた。
結局、何も変わってない。慧子さんの説得には失敗し、明後日には輪廻はこの街からいなくなる。それなのに、何故か俺は達成感のような感覚に包まれ安堵していた。やれるだけのことはやった。俺は頑張った。そんな心の声がひたひたと俺を浸す。
「……………が」
誰も聞き取れない程の小さな呻き声が喉奥から溢れてくる。ずるずると身体が背もたれからずれ落ちた。首と腰で身体を支えながら、天井のプロペラの回転を眺めていると、通りかかったウエートレスが視界を遮った。
「あの、お客様……?」
「……でしょぉが」
「は?」
「違っ! ぱ、ガンだっ!?」
「きゃあ!?」
跳ね起きようとして、顎をテーブルに打ちつけた。そこから椅子に後頭部を強打し墜落、更に床に叩きつけられた。スリーコンボ。超いだい。
「お、お客様! 大丈夫ですか!?」
転げ回りたいのを我慢しながら悶絶していると、ウエートレスが抱え起こしてくれた。大丈夫? 何が? 頭? 色んな意味で手遅れだよ!
「あー、平気です。はは……」
そんな心のツッコミはおくびに出さず、へこへこと頭を下げた。我ながらキモい。
俺は緩慢に立ち上がると、ふらつきながら出入り口へ向かった。客の視線が痛かったのもあるが、顎と後頭部の胸の痛みでそれどころじゃない。
「違うでしょぉが……!」
輪廻が引っ越すのは、多分誰も悪くなくて。慧子さんは輪廻のこと思ってて。輪廻も頑張りたいとは思ってて。でも、頑張り方が分からなくて。で、俺は何もしてなくて。結論。社会が悪い。違うな。
ガラス張りの自動ドアが開くと、ドッと熱波に包まれ足が止まる。涼しい店内との落差も相まって異世界に飛ばされたような錯覚に陥った。
「…………」
これ以上どうしようもない。以前の俺ならそう決めつけ、諦め、受け入れる。部屋に戻って布団を被る。一時の夢だったと、そううそぶく。
でも今回は違う。受け入れたくない。輪廻がこの街からいなくなる? 受け入れられるわけがない。想像しただけで胸が張り裂けそうになる。じゃあどうする? 分からん! なら考えろ脳みそ掻き混ぜて考えろ! ここで使わないならどこで使うんだよ!
「俺はまだ何もしてない……まだ本気出してない……ふふ、はは」
なんてことをほざきながら、俺は覚束ない足取りで歩き出した。目的地は、決めずに。