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地金の唄  作者: 河城真名香
地金の唄
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未知との遭遇

 本願寺慧子。パリを拠点に活動する日本人ファッションデザイナー。デザインだけでなく裁縫、パタンナーの仕事まで手掛ける多才ぶりに加え、自らがデザインした服を自身が着てキャットウォークに出演するなど話題において枚挙に暇がない。受賞した賞の数は数知れず、パリ・コレにも度々出展するなど、国際的に高い評価を得ている。現在世界十一ヶ国でコレクションを販売している。


「何だこの完璧超人……」


 感嘆の息を漏らしながら俺は後頭部を掻いた。天は二物を能えないと言ったか? あれは嘘だ。


 自室で携帯で検索を掛けてみると、あっさり慧子さんの情報は出てきた。出るわ出るわわんさか出るわ。予想を超える彼女の活躍ぶりに、ただただ驚愕する。日本のアパレル業界においても絶大な影響力を持っているらしい。まさに才媛といった感じだ。


 メディアの注目度も高く、雑誌やテレビでも特集を組まれることもしばしばある彼女のことを知らなかったのは、俺がそういった類を一切見ないからだ。知っていたら、輪廻に血縁か直接聞いていたと思う。


 身体を起こし、ぼんやりと天井を仰ぐ。くすんだ白の壁紙がところどころ黒く薄汚れていた。もう随分長いこと自分の部屋を掃除していない。六畳程度の部屋の中央に敷かれた布団の周りには、脱ぎ散らかされた衣服、漫画の本などが散乱し、枕元には丼、茶碗、箸、使用済の食器が置かれている。そうなんです。私、片付けられない系男子なんです。


「でっ!」


 仰向けのまま布団に倒れ込んだら頭をしたたか打った。枕の位置を読み違えたようだ。顔をしかめつつ足元のタオルケットを手繰り寄せ、抱え込むようにして丸くなる。暗闇の中に逃げ込むように瞼を閉じた。


 慧子さんが現れたあの日から二日が経っていた。あの後、家に帰ってからは一歩も外に出ていない。完全なヒッキーである。幸い祖母の小言も今のところない。だが、充実した引きこもり生活を送れているかと言えばそうとは言えなかった。この二日、ほとんど寝れていない。眠ろうと目をつむる度、輪廻の泣き顔が脳裏を過ぎるのだ。化粧が崩れ黒い涙が頬を伝う様が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


『漆は、私が東京に戻っても良いの……?』


「っくそが!」


 起き上がり、タオルケットを壁に投げつけ頭を乱暴に掻きむしる。こんな感じで外に出掛ける気力も湧かず悶々と日々を過ごしていた。


「そんなわけ、ねぇだろ……」


 言えなかった言葉を、吐き捨てるようにつぶやく。輪廻が東京に戻って、良いわけがない。この一ヶ月近く、俺は毎日の様に輪廻の家に入り浸っていた。俺の生活の一部に既に輪廻は組み込まれていたのだ。それが何の前触れもなく消え去る? いなくなる? 納得出来るはずがなかった。


 あの時、俺は何と答えれば良かったのだろう。母親のことは気にせずここに残ればいいとでもほざけばよかったのか? そうすれば輪廻は東京に戻らずに済むのか? 


 無理だ。そんなこと出来るはずもないし、慧子さんがそれを許すとは考えられない。彼女がその気になれば無理矢理輪廻を連れ戻すことだって辞さないだろう。そもそも何の権利があって俺に輪廻を引き止めることが出来る?

 ここに残ってあの家に住み続けるメリットが輪廻にあるのか? 彼女の将来を考えれば、東京に戻るか慧子さんについていって学んだ方が遥かに有意義だろう。


 どうしようもない。俺にも。輪廻にも。


 結局、現実の俺達は一人で歩くことも出来ない無力な餓鬼なのだ。輪廻には輪廻の未来がある。俺みたいな奴と一緒に腐ってくなんて勿体ない。あの時の俺は正しかった。そのはずなのに。頭と胸を渦巻く靄が消えることはない。


 薄暗い部屋をおびただしい埃が舞い散っている。人が住む空間じゃねぇな。


「……こんな部屋に閉じ篭ってるから気が滅入るんだよ」


 きっと外は今日も炎天下で茹だるくらい蒸し暑いだろうが、この部屋よりは過ごし易いことは明らかだ。携帯のサブディスプレイに目をやると時刻は正午前。ゲーセンに涼でも取りに行くか、そう思い俺は立ち上がった。



「で、何してんだ俺は……」


 自転車のハンドルに顎を乗せ俺は一人呻いた。ハンドルあちぃ。近所のゲーセンに行くはずが、無意識の内に反対方向である輪廻のマンションの前に来てしまっていた。ここ最近、自分の家と輪廻の家を往復する毎日だったので体に染み付いていたに違いない、うん。


「……俺ってばうっかりさん☆ さーゲーセン行こう」


 自転車のペダルに足をかけ、マンションの前を後にする。情けない話だが今輪廻と会う勇気は俺にはない。万が一コンビニ帰りの輪廻と鉢合わせようものなら、犯行後に職質に捕まった空き巣ばりに動揺すること請け合い。


「あら? 八九頭君?」


「ひゃっひっ!?」


 漕ぎ出してすぐに後ろから声をかけられた。尻尾を踏まれた小型犬のような情けない声が口から漏れる。逸る心臓を抑えゆっくりと振り返ると、慧子さんが円い瞳をこちらに向けていた。


「八九頭君よね? 今帰るとこ?」


「え? ああ、まぁ……」


 寄ってはないけど。ゲーセンは第二の故郷なので間違いではない。後頭部をかきながら曖昧に返す。


 慧子さんが朗らかに笑いながら近付いてきたので、自転車ごと向き直した。一刻も早くここを離れたかったが、せっかく声をかけてくれたのに、適当な理由をつけて逃げるのは何となく避けたかった。


「丁度良かった。この後空いてる?」


「へ? あ、え?」


「ちょっと話せない? そんなに時間はとらせないから」


 片目を閉じ軽く拝みながらお願いされる。この前とは打って変わり表情や言葉に角がない。気さくな印象だ。これが本来の彼女なのかもしれない。


 しかし、話? 俺と? なぜに? あまりに突然のことに対処しきれずにいると慧子さんは笑いながら言葉を付け足した。


「ああ、深い意味は特にないから。君にちょっと興味が沸いただけ。駄目かな?」


「駄目、じゃないですけど……」


「ありがと。それじゃ車取ってくるわ。どっかに自転車留めて待ってて」


 笑顔で言って、彼女は駐車場へと向かって歩いていった。


 妙なことになった、いや断れば良かったんだけど。中々ノーとは言えない。つくづく自分が日本人であると実感してしまう。そして美人さんにお願いされるとどうも断りづらい。悲しいかな、これも男の性だろうか、なんてことを考えていると小さく車のクラクションが鳴らされた。何これすげぇ。


 慧子さんが乗っていたのは、銀色のスポーツカーだった。車高の低い流線型の車体が太陽に照らされ鈍く輝く。


「お待たせ。この辺に喫茶店とかあるかしら………ってどうしたの?」


 車を見て絶句する俺に気づいた慧子さんは訝しむように聞いてくる。


「いや、カッコイイ車だなって……」


「え? やだぁ、このムルシエラゴはあたしのじゃないわよ。借り物。さ、乗って」


 ムル、ムルシ……? とりあえずこの車の名前なのは分かった。


 しかし、何千万としそうな車を、ぽんと貸してくれる知り合いがいることにびっくりだ。流石は売れっ子デザイナーである。住む世界が違うという事実をまざまざと見せつけてくれる。


 反対に回り込みドアを開けようとする。開かない。開け方が分からない。壊さないようにおっかなびっくり四苦八苦していると、自動でドアが上に持ち上がった。


「……すいません」


 座席シートに座りながら礼を言う。慧子さんがボタンか何かで開けてくれたのだ。


「いーえ。で、近くに喫茶店とかある?」


「確か駅の近くにあったと思います」


「駅の近くね、分かった。シートベルト、しっかり閉めてね」


「はい」


 シートベルトを閉めながらぼんやりと前を見る。アスファルトから立ち上る陽炎が行く先をぼやかしていた。


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