四〇〇〇LPじゃ足りなくて
輪廻の母。
目の前のキャリアウーマン風の女性、本願寺慧子はそう名乗った。言われて見れば確かに面影はある。整った涼やかな目鼻立ち、細身でありながら女性らしさを感じさせる均整のとれた素晴らしいプロポーションは、輪廻と見比べても遜色ない。いや見比べるとか失礼だけど。
不機嫌そうに眉根を寄せた表情はまさに瓜二つだが、一体いくつなのだろう。目の前の女性はどう見積もっても二十代後半くらいにしか見えないのだ。
たしか、今輪廻が十九歳で、来月の八月三日が誕生日なので少なくとも……。
「言われた通り私は名乗ったけど、君はどこの誰なの?」
「す、すいません! あの、りり輪廻さんの友達で、その、八九頭漆と言います!」
俺の不躾な勘繰りを察したのか、反応を返さないことに痺れを切らしたのか、慧子さんは苛立ちを隠さぬままに俺の素性をたずねてきた。
その静かな剣幕に気圧されて吃りまくりながらも自己紹介をすると、彼女は訝しむように俺を凝視。こわい。
「友達ね……ところで輪廻は何してるの? 友達を玄関に出させるなんて」
「えっと、ちょっと今手が放せないみたいで……」
「そう、居ることは居るのね。とりあえず上がらせてもらうわ」
「あ、いやっ!」
俺の脇を通って玄関に上がろうとする慧子さんに右手を突き出して制止する。輪廻と彼女を会わせるのは良くない気がするというか、絶対駄目というか……。
「何? 娘の家に上がるのに友達の許可がいるの?」
「いえ、すみませんどうぞ」
射殺すような視線にたまらず俺は道を開けた。すまん輪廻、何の足止めにもならなかった。
すたすたと直進する慧子さんの後ろを俺はとぼとぼとついていく。
リビングへ通じるカーテンドアが開かれると、ベッドの上でドライヤーのコードを巻き巻きしていた輪廻がこちらを向いた。
けだるげだった瞳が限界まで見開かれ、突然の来訪者の姿に酷く驚いた彼女は掠れた声を上げる。
「お、母……さん?」
「久しぶり。元気そうね」
驚愕する娘とは裏腹に、慧子さんは何の感慨もなさそうに淡々と言葉を返す。
「な、何でここに? いつ、日本に帰って来たの?」
「昨日の夜よ。向こうの仕事が一段落したから、休養も兼ねてこっちに戻って来たのよ。そんなことより……」
どうやら海外に行っていたらしい慧子さんは、ゆっくりとこちらにこうべを向けた。
「悪いけど、母娘水いらずで話したいの。八九頭君、だったよね? 少し席を外してくれないかな?」
男がこの場に十人居合わせたら、九人は虜に出来そうな素敵スマイルを俺に披露してくれる慧子さん。言葉は丁寧だったが明らかに、『お前邪魔なんだよ』というニュアンスが多分に含まれていた。目が笑ってないもん。
俺としても、このきな臭い空気の中に居座ることが出来る程強靭な心臓は持ち合わせていないので、渡りに船とばかりに暇を告げることにした。
「わかりました。それじゃお、」
「その必要はないわ」
輪廻が閃光のごとき速さで俺の言葉を遮った。さっきの狼狽はどこへやら、俺達の怪訝な眼差しを浴びても顔色一つ変えず彼女は堂々と言葉を続ける。
「先客を差し置いて、後から来た人間を優先するのは道理が通らないと思うわ。彼が帰るまで待ったら?」
「あんたと違ってあたしは忙しいんだけど」
「知らないわよ。そっちの都合でしょ?」
「久しぶりに会った母親にその態度はないんじゃない?」
「そうかしら? アポ無しで訪れた人間には相応の応対だと思うけど? 母さんが逆の立場なら同じことをしたでしょう?」
「そうかもね……ふふふふふ」
「んふふふふふ……」
二人の乾いた笑い声がリビングに響く。その光景を、俺はただ部屋の端で震えながら見守ることしか出来ない。どんだけ仲悪いんだこの母娘。
「まぁいいわ。じゃあ彼が許してくれれば、あたしはあんたと話せるのよね?」
「え? まぁ、そういうことなら……」
「人様に聞かせるような内容じゃないんだけど……八九頭君、少し輪廻と話してもいいかな?」
慧子さんはため息を吐きながらこちらに向き直ると、輪廻との会話の許可を俺に求めてきた。後ろでは輪廻がそれを断るように目で訴えている。
「あ、どうぞどうぞ。僕にはお構いなく」
まるっきり部外者である俺が断るというのもおかしな話なので、とりあえず承諾した。
本当は今すぐここから離脱したかったのだが、般若のごとき形相で睨む輪廻がいたので断念した。いや断るとか無理だって。
断らなかった上に、逃げたら後で何を言われるか分かったもんじゃない。まことに不本意ながら一蓮托生という形。嫌だぁ。
「少し、お手洗いに行ってくるわ」
輪廻はまだほんのり濡れている黒髪を後ろに流しベッドから降りて立ち上がると、すたすたとトイレの方に向かった。
「……来て」
隣を横切る際にぼそりと呟かれた。
頭をかきながら慧子さんにぺこりと会釈して、輪廻の後ろに追従する。リビングから出て、後ろ手でカーテンドアを閉める。
輪廻は洗面所の入り口の前でくるりと振り返ると、憮然とした表情で俺を睨みつけた。
「逃げようとしたでしょ?」
「逃げるも何も……俺居る必要なくね?」
「あの人と二人っきりは嫌なの」
親子間の問題に俺を巻き込まないで欲しい、というのが率直な感想だ。
輪廻はふん、と鼻で一笑して。
「まあいいわ。適当に飲み物出しといて」
ひらりと手を挙げて俺に指示を出しながら洗面所へと入っていった。
ふぅ、と浅いため息を一つ。俺が居ても何の役にも立たんと思うんだけどなぁ。親子間の問題に口を挟める立場でもないし。それにしてもそっくりな母娘だ。ルックスといい気性といい、輪廻は間違いなく母親似だな。父親見たことないけど。
確実に一波乱起きるであろうこの後行われる親子会議に、胃の下部がきりきり痛むのを感じながら、冷蔵庫からストレートティーを三本取って俺はリビングへと戻った。
輪廻がいない間、当然だが俺と慧子さんはリビングで二人きりだった。小さな白テーブルを挟んで向かい合わせに座り、楽しく談笑していた。ま、後半嘘っすけど。
会話などなされるはずもない。慧子さんにとって、俺は得体の知れない馬の骨なのだ。輪廻との関係を言及されないことは俺にとって幸運だった。俺自身よく分かってないのだから。
なんか~自転車の鍵を亡くした娘さんを助けたらお家に招待されまして~。その日はぷょぷょをしただけだったんです~。で~次の日の夜に公園で一人で鬱ってたら彼女と運命の再会を果たしまして~、そんで釣りに誘われて仲良くなったんですよ~。
胡散臭過ぎる。夜回り先生も問答無用で通報するレベル。
久遠とも思える時間を、無言が貫いていく。お互いに目の前のリプトソストレートティーに一切手を付けない。極力、目が合わないように、文字通り斜に構える俺。こっそりと彼女を横目で見ると、軽く俯いて瞼を閉じていた。眠っている感じは一切なく、まるで座禅でも組んでいるかのよ……組んでた。座禅組んでた。
白黒座布団の上で、背筋を伸ばしあぐらをかいて瞑想する慧子さん。パンツスーツという格好も相まって、えもいわれぬ絵面に仕上がっている。なんか、血筋を感じるよね。
そうこうしている内に、輪廻がリビングへと戻ってきた。三十分近くも何をしてたんだと思ったが、どうやら化粧をしていたらしい。いつにもまして、彼女の肌は死人のように白く、怜悧な美貌を放っている。輪廻にとって化粧は、気合い入れの意味もあるのかもしれない。
慧子さんの対面を譲る為に立ち上がろうとしたが、輪廻は目で俺を制し、するりと隣に座った。
「お待たせ」
抑揚なく輪廻がそう口にすると、慧子さんは閉じていた瞼をゆっくりと開き、静かに座禅を崩した。
「いいえ」
彼女の表情は穏やかで、さっきまでの刺々しさが感じられなくなっていた。座禅の効果覿面である。
「それで、話を進めて良い?」
「ええ、むしろ早く進めて欲しいわ。私とて暇じゃないの」
輪廻の攻撃的な言葉を受けても、慧子さんは顔色一つ崩さない。
二度瞬きをして彼女はゆっくりと口を開いた。
「そうね、早く終わらせましょう。学校はどう? きちんと勉強してる?」
「お蔭様で。順調に学べているわ。基礎中心で授業の進みが遅いのが少し残念だけど」
嘘つけ。一日中家でゴロゴロしている癖に。実の親に淀みなく嘘を吐く輪廻の行く末が少し心配になった。
「ふぅん……退学したのに?」
「えっ……?」
ぽつりと呟かれた言葉に、輪廻の顔は凍りついた。
「な、んで……」
「知ってるかって? 母さんの顔の広さを甘く見すぎ。あたしのコネのない学校を選んだつもりだったみたいだけど、残念だったわね」
「だ、だって! 先生達は何も!」
「あたしが口止めしたの。特別扱いしないように、それとあんたの様子を逐一教えてくれるようにお願いしたわ」
「っ!?……」
慧子さんが口にした事実に、輪廻は唖然となる。やがて力無く俯いた。
俺の想像以上に慧子さんは服飾業界において相当な地位を築いているらしい。こんな地方の専門学校にコネを持ち、自分の娘のことと言えど、その学校の職員全体に箝口令を敷ける程の影響力。普段は海外勤めみたいだし、かなり有名なデザイナーなのではないだろうか。帰ったらググってみよう。
「……卑怯よ」
喉から搾り出したように、輪廻は小さな言葉を吐き出す。
「卑怯? 誰が?」
飄々と微笑む慧子さん。輪廻は顔を上げきっ、と彼女を睨みつけた。
「貴女よ……こそこそと、娘のことを裏で嗅ぎ回って……悪趣味極まりないわ!」
「親が自分の子どもの心配をするのは当然のことよ。どちらかと言えば、退学することを一言も相談しないで、その上退学した事実を隠そうとしたあんたの方が卑怯じゃないの?」
「そ、それは……後で伝えようと、思って……!」
「後で? 退学届けを出した日から一ヶ月以上経ってるみたいだけど?」
「……一段落して……直接、伝えるつもりだったから」
「あんたさっき言ったよね? 順調に勉強出来てるって。一段落してなかったら嘘ついて良いの?」
「あ……ぅ……」
きつい。これはきつい。慧子さんは怒鳴るでも、まくし立てるでもなく、ただ滔々と輪廻を問い詰めていく。
その様子は端から見ていても相当なプレッシャーだ。何故か当事者でない俺まで責められている気分だ。変な汗出てきた。圧倒的な正論の前に強気も雲散霧消に消え失せ、輪廻は悄然と俯いている。
その様子を見つめていた慧子さんは一つため息を吐くと別の話題に切り替えた。
「ところで輪廻、バイトはしてるの?」
輪廻はびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。テーブルの下で指先がスカートをギュッと握りしめた。
「……してない」
「どうするの? 学校にも行かず、働きもしない。そんな生活をこのまま続けるつもり?」
ズガーン! 漆のライフに三〇〇〇ポイントのダメージ!
慧子さんの言葉は、滅びのバース〇ストリームもかくやという威力で俺の急所を的確にえぐった。予想外デース。
「一人暮らしをする時にあんた、あたしに言ったよね? 『母さんには頼らない。自分の将来は自分で決めてみせる』って」
「…………」
「学費も生活費も働いて返すって言ってたのも、全部嘘だったわけ?」
「う、嘘じゃないわ! いつか、必ず……」
「いつかっていつ? 就職してから? 就職できるの?」
もう止めて! 漆のライフはもうゼロよ!
「学校すら途中で投げ出して、一度も働いたこともないあんたが」
「そっ、れは……」
すいませんすいません働かなくてすいません毎日ぐぅたらしてすいません生まれてきてすいません。内心で俺が悶え苦しむのも露知らず、慧子さんは言葉の爆撃を続ける。
「聞けば、一年生の時から出席率が悪かったそうじゃない。あんた、一体何しにここに来たわけ?」
「…………」
「とにかく、一度東京のおばあちゃんの家に戻って頭冷やしなさい。このマンションも引き払うわ」
「なっ!?」
驚く俺を慧子さんは片目で一瞥する。口出しするなと目が語っていた。
輪廻は酷くうろたえた様子で立ち上がり喚く。
「ち、ちょっと待ってよ!」
「学校に通ってない以上、ここにいる必要はないでしょ? ファッション業界で仕事がしたいのなら、母さんの仕事を見て学びなさい。それが嫌なら東京のデザイナー学校に編入させてあげてもいい」
「そんな、勝手に……」
「ここの家賃、水道、ガス、光熱費、あんたの生活費を出してるのはあたしよ。もう一度聞くわ。何しにここに来たの? 一体何がしたいの?」
「……………」
慧子さんは何も言わずただ俯く輪廻を憐れむように見つめ、やがて深いため息を吐きながらゆっくりと立ち上がった。
「……業者にはあたしが頼んどくわ。来週までに荷造りしておいて。ごめんね八九頭君、みっともないとこ見せちゃって」
「い、いえ……」
「それじゃ」
短く言って彼女は踵を返す。かしゃん、と玄関の扉が閉まる音が響く。
輪廻は立ち尽くし、呆然と慧子さんが帰るのを見つめていたが、彼女の姿が見えなくなるとぼすんとベッドに倒れ込んだ。
どっと疲れが押し寄せてきた。慧子さんと輪廻が会話していた時間は十分に満たない。竜巻のように現れて、竜巻のように過ぎ去って行った。
だけど、俺達の甘い幻想をぶち殺すには充分過ぎた。
「……えーと、凄いお母さんだな……」
沈黙に耐えられず、適当に言葉を探す。
「美人だし、いかにもバリキャリって感じで」
さやかちゃんか、俺は。
「…………」
輪廻は無言で起き上がると、テレビとスーファミの電源を入れた。無表情でコントローラーを握る。
ソフトはこの前のドラクエが挿さっていた。電源は入っているのに、テレビ画面が暗いままだ。
「な、なあ……」
何と声をかければいいか分からず、言葉と右手が宙をさ迷う。
輪廻はソフトをスーファミから素早く引き抜くと接触部にフゥーと息を吹き掛け、再び挿し込む。
「これから、どうすんの……?」
恐る恐る聞くと、輪廻は暗いテレビ画面を見つめたまま、囁くように答えた。
「……東京には戻らない。ここが、私の家だから」
声を震わせながら輪廻は再びソフトをスーファミから引き抜く。何度もやり直すが、一向に画面は暗いままだ。
「いや、でも家賃とか……」
「何とかするわ」
「……慧子さんはどう説得するつもり?」
「……………」
輪廻の手がぴたりと止まる。仮に家賃などがどうにかなったとしても、彼女を説得しない限り、この問題は解決しない。
やがてスーファミの電源を切ると、輪廻は吐き捨てるように言った。
「あんな人、関係ないわよ。どうせすぐに海外に戻るんだし」
「関係ないわけないだろ……母親なんだし」
「……さっきから何? あの人の肩ばかり持って……私がいない間に色香でも使われたの?」
睨みつけながら挑発してくる彼女に、俺は思わず声を荒げてしまった。
「そんなんじゃねぇよ! 根本から何とかしないと何の解決にもならないだろ!」
慧子さんに輪廻の一人暮らしを許可して貰う。そのためには、彼女の問いに輪廻が答えなければならない。
『何しにここに来たの? 一体何がしたいの?』
だけど、それは不可能に近い。輪廻は、母親を見返すために一人暮らしを始めた。専門学校に通うことを理由に。つまり学校を止めてしまった以上、輪廻がここに留まる必要性はないのだ。
「じゃあ、どうしたらいいのよ……?」
「それは……」
何の解決策も思い浮かばない。
輪廻は言い淀む俺を縋るような瞳で見つめながら、掠れた声で囁いた。
「漆は、私が東京に戻っても良いの……?」
俺は……俺は……。
「……良い話だと思うよ。こっちでダラダラするよりはさ、向こうでやり直した方が、輪廻の為になると思う」
「……っ」
努めて明るく答えた。途端、輪廻の顔から感情が消し飛んだ。
その表情に、心臓が掻き毟られるような感覚に襲われたが、俺は貼り付けた笑顔を崩さない。東京ならば、俺みたいなニートが家に入り浸ることもない。おばあちゃんの家に戻るみたいだから、毎日コンビニ弁当の生活とはおさらばだ! 輪廻にとって良いこと尽くしである。俺? 俺は、今まで通りですよ。輪廻と出会う前の生活に戻るだけ。うん、何の問題もない。逃避場所が減るのはちょっと辛いけどね。
「そっか……そうよね……」
輪廻は俯き、ぽつりぽつりと抑揚なく呟いた。
「うん。その方が、良いよ」
「ふふふ、なんだか疲れたわ……もう一眠りしたいから漆、今日はもう、帰ってくれる?」
「あ、うん……そろそろ帰るつもりだったから。病み上がりなんだから、ゆっくり休みなよ」
「ええ……ありがとう。お休み」
「戸締まりしっかりね。じゃ」
立ち上がり、リビングから出る。少し振り返りリビングと短い廊下を仕切るカーテンドアを閉めた。
閉める時に見てしまった。輪廻の、泣き顔を。唇を噛み締め、ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、輪廻は泣いていた。化粧が崩れるのにも構わず、声を押し殺し、ただひたすら泣いていた。俺は何も言わずに玄関へ向かった。
玄関を開けると、ひんやりとしたそよ風が身体を撫で通り過ぎた。朝の時間帯とはいえ、昨日に比べるとかなり過ごしやすい。
顔を上げると、雲一つない青空が広がっている。今日も快晴が続くのだろうか。
澄み渡る空とは裏腹に、俺の頭を包む靄は一向に晴れる気配はなかった。