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地金の唄  作者: 河城真名香
地金の唄
11/17

三十二度の温もり 2

 トイレから出て部屋に戻ると、輪廻は黒のブラウス(きちんとボタンを止めてある)に、胸の下で絞られた黒スカートという普段に比べると簡素な服装でベッドに腰掛けていた。スカートにもボリュームがない。パニエを履いてないようだ。


 パニエとはアンダースカートのような物で、フリルやレースをたっぷりとあしらってあり、これを下に履くことでドレスが釣り鐘状に膨れ上がるのだ。中世のヨーロッパではスカート部分を膨らませる為に、中に傘のような骨組みを下に仕込んでいたらしい。確か、クリノリンという名前。


「こら」


 あろうことか、エアコンのリモコンに手を伸ばそうとしていたので軽く注意すると、渋々手を引っ込めた。俺はため息を吐きながら白いテーブルの前、彼女と向かい合わせにあぐらをかいて座る。


「飯は食った?」


「いいえ、今朝から食欲が無くて……」


「ゼリー買ってきたけど?」


「ゼリーくらいなら」


 テーブルの上に置いていたコンビニの袋からパイン&ナタデココゼリーとプラスチックのスプーンを取り出して手渡すと、輪廻は露骨に眉をひそめた。


「もしかして、パイナップル駄目?」


「ナタデココが苦手なの。イカの切り身みたいで……」


「あーごめん。そこまで気が回らなかった」


 後頭部をかきながら素直に謝罪した。そういえば、彼女はイカが嫌いだった。ナタデココ=イカの図式は中々思いつかないが、選択を間違えたのは俺だ。自分の好きな物をチョイスしたのが裏目に出てしまったらしい。


 代わりにコンビニ袋からみかんゼリーを取り出す。


「みかんなら大丈夫?」


「ええ、平気。あ、お代いくらだった?」


「別にいいって」


「でも、」


「この前借りた五百円まだ返してなかったろ? その分その分」


 ひらひらと手を振りながら料金の支払いを断る。俺が普段彼女から受けている施しを鑑みれば、この程度の恩返しはして然るべきなのだ。イタ飯フルコースを奢っても足りないくらいである。……何だか申し訳なくなってきた。


 輪廻は釈然としないようで、みかんゼリーを両手で包みながらぽつりと呟いた。


「……驚きだわ。漆がお金を持っているなんて」


「おい」


 彼女の中では、俺は常に無銭状態らしい。あながち間違いとも言えないのが、なんとも悲しい。


 袋からポカリと冷えピタを出して、残りのゼリーを冷蔵庫へ入れる。パイン&ナタデココは俺が気が向いた時にでも食べればいいか。


 お見舞い、といっても具体的に何をしたらいいのか……とりあえずテーブルに片肘をついて輪廻がゼリーを食べるのを見守ることにした。


 薄皮を綺麗に剥かれたみずみずしい橙色の果肉が、ちゅるりと彼女の口へと吸い込まれた。唇が果汁に包まれ、つやつやと輝くが、鮮やかな紅色の舌で即座に舐め取られ控えめな桃色に戻る。


「……そんなに見られると、食べ辛いのだけど」


「気にするな。これが俺流の看病だ」


「漆、変態っぽい……」


「なっ!?」


 呻くような輪廻の呟きに、俺は絶句した。混じり気無し、純度百パーセントのドン引きだった。身をよじるように距離を取られた。若干怯えてさえいる。


 一切そんなつもりは無かったのに、こんな反応をされるとは思わなかった。予想していなかっただけにショックが大きい。無自覚の変態って相当たちが悪いじゃないか。


「ははは、そっか……変態っぽいか」


「だって、唇ばかり凝視してたから……」


 やめて、掘り下げないで。いたたまれないから!


「ごめん、もう見ないよ」


 早口で言って輪廻から視線を逸らし、話題転換の鍵を探す。


「あ、そういえば玄関の鍵掛かってなかったけど、無用心じゃないか?」


「あら、閉め忘れかしら?」


「一人暮らしなんだから気をつけないと……」


「次からそうするわ。大体、そんなピンポイントで私の家に泥棒が来るなんて、そうそうないわよ」


 あっけらかんとゼリーをついばみながら楽天的観測を述べる。……こういう奴に限って犯罪のターゲットにされて痛い目を見るんだよな。


「泥棒だけじゃないぞ。輪廻は目立つから、ストーカーとか変質者にもう目を付けられてるかもしれない。用心するに越したことはないだろ?」


 丁寧な口調でそう諭すと、彼女は瞼をしばたたかせた後に、猫のように目を細め、唇を歪めて笑った。


「変質者? 漆みたいな?」


 もうやだこのこ。俺は眉間に寄った皺を右手で揉みほぐしながらため息を吐く。風邪で少しは大人しくなると思っていたが、何のことはない。いつもの輪廻だ。


「はいはい、変質者で結構。襲うぞ、このやろー」


 投げやりに言うと、輪廻はわざとらしく目を見開き、口元を両手で覆い隠す。


「風邪で弱っているのを良いことに、私を手籠めにするつもりなのね? 手籠めっちゃうのね?」


「手籠めっちゃうって何だよ。きちんとした日本語使って下さい」


「私を、強姦するつもりなのね?」


「しねーよ! もう少しオブラートに包め!」


「私を、レイプするつもりなのね?」


「変わってねーよ! むしろ生々しいよ!」


「ふふふ、冗だ、ごほっ、ごほっ、けほっ……」


 一度に沢山喋り出したせいか、急に咳き込みだす。平気そうに見えても彼女は病人なのだ。手に持っていた食べかけのゼリーを受け取り、布団に入ることを促す。


「ほら調子に乗るから……暖かくして寝んさい」


「うぅ……」


 珍しく素直に俺の言うことを聞き、布団へと潜り横になる輪廻。怠さがぶり返してきたのか、瞳にも疲れの色が滲んでいる。


 口元まで布団で覆い隠した彼女は俺の顔を見て、辛そうにもごもごと話し出した。


「テレビの下に薬箱あるから、取って……」


「薬箱? ……えっと………ああ、これか」


 テレビが設置してあるラックの下、多種多様なゲーム機器が詰め込んである段の奥に、黄緑色のプラスチックケースが埋もれていた。右手を突っ込んで引っ張り出す。半透明のケースの中で、様々な錠剤がじゃらりと軽い硬質な音を奏でた。


「バ、ファリン……」


 先ほどとは打って変わり、しおらしいを通り越して寝たきりの老人のようにぷるぷると手を伸ばしてくる。その手をひらりとかわし、俺は薬箱をテーブルの上に置く。


 輪廻の目が大きく開かれる。その色は驚愕に染まっていた。


「な、なんで……?」


「薬飲んだら治りが遅くなるから。とりあえず眠って、それでもまだきついなら薬飲もう」


 薬を飲むと病気の治りが遅くなる。これは俺の経験則だ。薬はあくまで病気の症状を緩和するだけで、病原菌を駆逐するのは体内の白血球達である。熱が上がるのは白血球達の働きを促進するために身体がわざとしていることであって、悪いことじゃない。薬で無理矢理熱を下げると、体内の白血球は活動を弱め、逆に病原菌の増殖を助長する可能性もある。


 小学生の頃、薬を飲めば風邪が治ると思い込んでいた俺は、きつくなればすぐに薬を飲んでいた。結果、風邪は長引き、クラスの人にうつすわ、薬に免疫が出来て効きづらくなるわで最悪だった。病気を治すためには、優しさも大切だが厳しさも必要なのだ。どやっ。


 そんな俺の思いやりを知ってか知らずか、輪廻は恨めしげに俺を睨み薬を懇願する。


「薬ぃ……あれがないと、私駄目なのよ……」


 うん、すごく薬物中毒者っぽいからその言い方は止めようね。


「そう言うなって。冷えピタを貼ってしんぜよう。ささ、デコを出すのだ」


 手早く箱から冷えピタシートを取り出し台紙から剥がす。


 輪廻は渋々斜めに切り揃えられた前髪を右手で押し上げた。黒髪の下から、ほんのりと汗ばむ淡雪色の額が現れた。しわにならないよう額にゆっくりとシートを押し当て貼り付けると、気持ち良さそうに両目を閉じる。


「後は水分取って、ゆっくり休む。困った時のポカリ、いぇーい」


「冷蔵庫のリプトソティー取ってきて……」


「ポカリいぇーい」


「……ミルクティーがいい」


「ポカリいぇーい」


「……ストロー」


「はいはい」


 笑顔で立ち上がり、台所へ向かう。冷蔵庫の横に備え付けられたストローボックスから一本ストローを抜き取る。


「…………」


 ふと、玄関に目をやると鍵が開いていた。全く、無用心だな。最後にこの部屋に入ったのは誰だ。俺だ。


 無言で鍵を閉めリビングに戻ると、輪廻が顎をこちらにしゃくってきた。飲ませろということだろうか。


 五〇〇ミリのポカリのペットボトルの蓋を開けストローを突っ込み、それを彼女の顔に近づけると、不機嫌そうな顔でパクリとくわえた。こくこくと清涼飲料水を嚥下する音が響く。


 ペットボトルの中身が三分の一減ったところで輪廻はストローから口を離した。


「ポカリとか清涼飲料水って苦手。さらさらの唾液を飲んでる感じがするもの」


 眉をひそめながらとんでもないことを言いやがった。


「それだけ身体に吸収されやすいってことだろ」


 我ながら絶妙なフォロー。八九頭漆は、大〇製薬を応援しています。


「水分はもういいわ……次、ゼリー」


「は?」


「まだ全部食べてない」


 テーブルの上に置いたゼリーのカップを見遣る。まだ半分近く残っていた。どうやら食べさせろと言っているらしい。


「……マジで?」


「栄養取って休めと言ったのは貴方でしょ? だから貴方には私にゼリーを食べさせる義務があるわ」


 ねぇよ、んなもん。と言ってやりたかったが、それを口にしてしまうのは躊躇われた。拗ねて布団に潜る彼女の姿が容易に想像出来る。


 諦めのため息を噛み殺し、俺はゼリーカップを手に取った。みかんをスプーンで掬い輪廻の口に運ぶ。


「手が凄く震えてるわよ? シンナーでも吸ってるの?」


「うるせーよ、さっさと食べなさい」


 いつもと変わらない悪態をあしらう。


 彼女の口にみかんゼリーを運ぶだけの簡単なお仕事だが、予想以上に気恥ずかしい。男子が一度は妄想する『はい、あーん』というのを、今俺は体験しているのだ。……男女逆じゃね? というツッコミはこの際置いといて。


 加速したがる心拍数をなだめるため、適当な話題を振ってみる。


「そういえば、今日は化粧してないよな」


「……朝、きつくてメイク出来なかったの。悪かったわね、すっぴんで」


 輪廻は痛いところを衝かれたように顔をしかめた後、不機嫌そうに両目をつむってそっぽを向いた。何故、そこで機嫌を損ねる? 慌てた俺は訳も分からず二の句を継いだ。


「いや、化粧してなくても充分、その、綺麗というか、可愛いというか……」


 そうしどろもどろに言うと、彼女は片目だけ開けてジロリと俺に視線を投げつけてきた。


「……それはそれで、いつもの私を否定されているみたいで面白くないわね」


 蟻地獄! 事態が好転するビジョンが見えない。これ以上何か言っても彼女のテンションが下がるだけな気がした俺は、悄然と最後の一口を輪廻の口に運んだ。


「でも、輪廻って全然家から出ないよな? 別に化粧する必要ないんじゃないか?」


 空になったゼリーカップとスプーンをコンビニの袋に捨てながら、ふと気になったことをぽつりと口にしてみた。


 化粧は、他の誰かに自分を美しくアピールするためにするものだと俺は思っている。だから、出かけることもなく一日のほとんどを家の中で過ごす輪廻は、化粧をする必要がないと思うのだ。コンビニに行くためだけにわざわざ化粧するのも面倒だろうし。これは俺の独断と偏見による考え方なので、もしかしたら、宗教上の理由や譲れない信念に基づいて彼女は毎日化粧をしているのかもしれない。よく行くコンビニに、カッコイイ店員がいる可能性もある。だが、その可能性に気がついたのは疑問を口にした直後だった。結果、その質問は失言だったらしい。輪廻の表情はみるみる不機嫌さを増し、鋭い三白眼が俺を射竦める。


「は?」


 恐い。超恐い。


「いや、特に深い理由はないっていうか、ただそんな気を張る必要ないんじゃないかなって思っただけで口が滑りましたすいません」


「はぁ……貴方が、来るからじゃない……」


「え?」


「何でもない。おやすみなさい」


 何事かを輪廻が呟いたが、五体投地中だったのでよく聞こえなかった。


 頭を上げた時には、彼女は身体の九十五パーセント以上が布団に覆われていた。端からワカメのような黒髪が広がっている。


「……漆」


「ん?」


 睡眠の邪魔をするのも悪いので、帰ろうかと思案しているところで、輪廻からくぐもった声をかけられた。続けて布団から顔を出さずに言葉が発される。


「帰るの?」


「ああ、そのつもりだけど……」


「どうせ、家に帰ってもすることはないのでしょ? いつもみたいに二コ動でも漁っていけば?」


 言葉に棘がある気がしたが、概ね当たっているので弁明はしない。ちなみに二コ動とは大型動画投稿サイト、|二コ二コ動画《ふたこふたこ》の略称である。


「でも、良いのか? 睡眠の邪魔になるんじゃないか?」


「別に。いつものことだから慣れてるし。BGMには丁度いいわ」


 俺が見るのはアーケードゲームの対戦動画が主なので、安眠BGMになるかは甚だ疑問なんだけど。もしかしたら心細いのかもしれないな。体調を崩している時、部屋に一人きりというのは中々に辛いものがある。そういう時に家族のちょっとした気遣いが嬉しいものなのだ(普段は手厳しいうちの祖母も、マルチビタミンの錠剤をくれる)。そう考えると一人暮らしは大変だよなぁ。


「お言葉に甘えて、もう少しお邪魔しようかな」


 いいよ……そばにいてやるよ。一人ぼっちは、寂しいもんな……。


「好きになさい。じゃあおやすみ」


 ワカメ布団におやすみと伝え、俺はベッドの縁を背もたれにして座り、ノートパソコンの電源を入れた。



「はいはい脳内最強乙。これだから動画勢は……」


 本当にこのゲームやったことあるのか? 的外れなことを偉そうに……。


 ゲームの対戦動画が流れるパソコン画面から目を離し、両腕を天井に向け背筋を伸ばす。首筋がみちみちと軋む痛みに若干の快感を覚えながらベッドに背中を預けた。


 気がつくと午後四時を回っていた。二時間以上動画を漁っていたことになる。通りで眼球が痛いわけだ。


 瞼を閉じ、上から指で軽く押すと眼底の方からぷちゅぷちゅと音がした。カーテンを閉めているので全体的に部屋は薄暗い。白いはずの天井は俺の目には灰色に見える。


 蝉の声も、時折通る飛行機の飛行音も遠くに聞こえる。まるでこの部屋だけが現実から切り離されているような錯覚を感じた。そりゃそうだ。今日は平日なのだ。大体の学生は机に縛り付けられ、大体の社会人はあくせくと働いている。俺達が社会から浮いているのだ。初めは、その事実に焦ったり背徳を感じたりしていたが、最近ではその感覚も薄れつつある。非常にまずいですよ。ぬるま湯に浸かってんじゃないよ俺ー。ごめんよ、修造。


 ベッドに頭を乗せ、逆さまに輪廻を見る。二時間前に眠りについてから、まだ一度も彼女は起きない。身動き一つせず、布団に潜った時と全く配置が変わっていなかった。頭も布団の中のままだ。苦しくないんだろうか。


「…………」


 布団からはみ出た髪に目を遣る。放射状に広がるそれは、極上の絨毯のようだ。無意識に俺の指はその毛先に吸い寄せられた。恐る恐る、輪廻の髪の毛に触れる。


 俺は驚愕した。絹の様にきめ細かな髪の毛は一本一本が異常なほど細い。爪を立てるだけで切れてしまいそうだ。人差し指と中指で摘み軽く擦り合わせるとさりさりと涼やかな音が控えめに響いた。ゆっくりと髪を梳く。この世のものとは思えない程滑らかだ。その感触に、俺は夢中になって輪廻の髪に触れ続けた。だから気がつかなかった。布団から出た二つの瞳が、俺を捉えていたことに。


「…………」


「…………ッ!?」


 視線が衝突する。


 一拍置いて、俺の心臓は爆発した。


 飛びのくように髪から手を離す。顔が熱い。首筋が沸騰してぼこぼこと蠢いている気がした。痒い。


「あ、いや……これは……その、」


 沈黙を埋めるように言葉を発するが、それらは意味を成さず音となって消えた。言い逃れなど出来ようもなかった。寝ている間に女性の髪を触っていたという事実。もうただの変態である。


 輪廻は両手の指先で鼻まで覆っていた布団を顎下まで下げ、けだるげに呻いた。


「……水」


「はえっ!?」


「喉、渇いた」


「あ、ああ、はいはい」


 早口で答え引ったくるようにテーブルのポカリを掴み、ストローの先を輪廻に差し出す。半透明の液体が吸い上げられ、ストローの中を昇っていく。


 彼女が喉の渇きを癒している間、俺の頭の中では御都合主義ともいえる希望的観測がぐるぐると繰り広げられていた。怒られない? 批難されない? もしや寝ぼけて気がつかなかった? そうだそうに違いないそうであって下さい。いつもの輪廻なら『覗キング、変質者の称号を得ていながら、更には乙女の命とも言える髪を人が寝ている間に凌辱するなんて……大変な変態ね。もはや軽蔑を通り越して尊敬するわ。尊敬蔑』ぐらい言っても不思議じゃない。彼女は今風邪を引いている。風邪+寝起きで、俺が何をしていたか分からなくなっていても全然おかしくない! 大丈夫! 漆は大丈夫だよ!


 半分近くまで飲み終えた輪廻は、上体を起こしてテーブルの上にあるティッシュ箱からティッシュを一枚引き抜き、軽く口元を拭う。そして丸めたティッシュを、一メートル程の距離にあるごみ箱に片手でシュートした。投擲されたそれは空気の抵抗をもろに受け、ごみ箱の十センチ手前に不時着した。


「で、」


 その様子を眺めていた俺だが、輪廻が話し始めたのでおもむろに彼女の方へ首を向けた。


「もう、気は済んだの?」


「へ? 何が?」


 首を傾げると、彼女は底冷えするほど完璧な笑顔を咲かせ、にっこりと微笑んだ。


「私の髪の毛をもう充分に触った?」


 瞬時に俺はこおりついた。思考が追いつかない。彼女は寝ぼけてなどいなかった。俺の行為の一部始終をしっかりと目撃していたのだ。


 彼女の言葉に反応出来ず、気まずい沈黙が部屋に充満する。後悔が怒涛の勢いで俺の心に押し寄せた。数分前の自分を助走つけて殴り飛ばしてやりたい。


 輪廻は口を開こうとしない。唇は笑みをたたえているが、弓なりに曲がり、閉じられた瞼の奥では何を考えているのか分からない。いつものようになじってくれれば、どんだけ楽になるか……。


「ごめん……俺帰るよ」


 針の筵のごとき沈黙に耐えられなくなった俺は逃げ出すことに決めた。もしかしたらもう二度とここには来られないかもしれない。そんな恐怖に怯えながら立ち上がる。


 だが、踵を返す前に俺はその場で停止した。


 輪廻が俺のTシャツの裾を掴んだからだ。


「どうして、謝るの……?」


 そう呟き、俺を見上げる彼女の瞳は潤み熱っぽかった。予想だにしていなかった反応、そして初めてみる彼女の表情に俺は大いにうろたえる。


「いや、だって……寝てる間に髪の毛触るとか、やっぱり気持ち悪いだろうし……そんな奴が側にいたら安心して、眠れないかなって」


「そんなことはないわ。ここにいたのが貴方以外だったら、私はきっと眠っていないもの」


 穏やかな輪廻の言葉に、顔が熱くなる。耳の奥で心臓の音が早鐘のように鳴り響いた。


「…………」


「貴方は誇っていいのよ? 人間嫌いの私とまともに会話出来ていることを」


「ふっ、何だよそれ」


 見慣れた彼女のしたり顔に、俺は吹き出してしまった。同時に安堵する。


「でも、人が寝てる隙を突いて髪に触れるのは感心しないわね……」


「……すいません」


 深々と頭を下げる。これについては全力で謝罪をしなければならない。


 輪廻は俺の頭をぽんぽんと叩きながら、くすくすと笑った。


「別に怒ってるわけじゃないわ。でもせっかくだから、一つお願いを聞いて貰おうかしら。それで、今回のことは不問にしてあげる」


「ま、任せとけ」


「じゃあ、百万円ちょうだい」


「無理ですごめんなさい」


 額をフローリングに擦りつけた。ニート、弱点、お金。


「冗談よ。顔を上げなさい。で、その、お願いなん、だけど……」


 顔を上げると、彼女は頬を朱に染め、恥ずかしそうに身じろぎしていた。俺から視線を外しながら小さな声でお願いを口にした。


「私が、寝ている間…………を、あの、――を握っていて欲しいの」


 上目遣いで囁かれたその言葉に、俺の脈拍は更なる段階へと加速する。


 後半、上手く聞き取れなかったが、話の流れ的に『手を握って欲しい』と言ったと考えるのが妥当だ。


「そ、それでいいのか……?」


 上擦る声を必死に抑えながら輪廻に聞き返す。


 彼女は俯き耳まで赤く染めながらか細く喚いた。


「そ、そうよ。何度も言わせないで!」


「……分かった」


 汗ばむ手をTシャツの裾で拭い、俺はゆっくりと両手で彼女の右手を包む。白魚の様な指、とはよく言うが、彼女の指は俺と同じ生物とは思えない程すべすべだった。しっとりとした温もりが指先から伝わる。


「て、手じゃないのだけど……」


「へっ?」


 彼女の言葉に素っ頓狂な声が出た。手じゃない? じゃあどこですか?


 俺の無言の疑問に答えるように、布団から真っ白な足が俺に向けて生えてきた。


「足よ、足。私、末端冷え症だから眠る時に足先が凄く冷たくなるの」


 足? この流れで?


「ふ、ふ、あっはははははは!」


「ど、どうしたの?」


 突然笑いが込み上げた俺を輪廻が訝しむ。冷え症? ムードもへったくれもない。だが、それがいい。


「いや、なんか面白くなってさ」


「なっ!? 冷え症は凄く辛いのよ? 冬場なんて、靴下無しでは眠れないんだから!」


「ごめんごめん。じゃ失礼しますよ」


「きゃっ」


 憤慨する輪廻をなだめつつ、俺は彼女の両手で両足先を包み、布団の中に押し戻す。突然足を掴まれ驚いたのか、輪廻は短い悲鳴をあげた。


「お加減はいかがですか、姫様?」


 わざとらしく芝居がかった口調で執事のように振る舞う。勿論、足先を握ったままで。シュールだ。


「ふっ、ふん! 少し汗ばんでるところを除けば中々に快適だわ」


 先程の悲鳴をごまかすようにふてぶてしい態度を取る彼女に思わず苦笑する。


「はいはい、すみませんね」


「踝より上は触っちゃ駄目だから」


「そのくらいの分別は俺にだってあるさ」


「さぁ、どうかしら? スカートの中覗かないでよ?」


「…………」


 余計な口を挟むと二の太刀を浴びることは必定なので、黙して了解の印とした。


「……ねえ、どうだった?」


「何が?」


「その、私の髪の毛」


 再び掘り返される失態の記憶に俺は絶句した。


 布団からぴょこりと顔を出した彼女の姿を見れば、世の男達はこぞって庇護欲を掻き立てるに違いない。だが本人に全くそんな意図はないのだから、たちが悪い。


 俺はため息を吐き、半ばやけくそ気味に率直な感想を口にした。


「ああそうですよ。思わず触れたくなるくらいには魅力的でしたよ」


「え?」


 輪廻は大きな瞳をどんぐりのように丸くした後、何かに安堵するようににんまりと微笑んだ。


「そう、ならいいわ。お休みなさい」


「ん、お休み」


 輪廻が瞼を閉じるのを見届けてから、俺は両手に感じるひんやりとした感触を強く意識した。


 今一つ輪廻の考えていることは分からないが、自分が思っている以上に、俺は彼女と打ち解けられているのかもしれない。自惚れかもしれないけど。


 今はただ、この三十二度くらいの温もりを身近に感じられることを喜ぼう。



 ごおおぉ、と何かが唸る音がする。風の音、ではあるが規則的で、どこか機械的なその音は聞き覚えがあった。ドライヤー?


 ゆっくりと瞼を開けると、この一ヶ月近くですっかり見慣れた輪廻の部屋が、ぼんやりと浮かび上がった。徐々に輪郭を確かにしていくその光景は少し薄暗い。


「おはよう、漆」


 聞き慣れた声の方に首を向けようとすると激痛が走った。どうやら寝違えたらしい。


 体を起こし、慎重に首を動かすとベッドの上で輪廻が髪を乾かしていた。風呂上がりなのか湿った髪が艶やかな光沢を放っている。


「……おはよう、体調は?」


「ふふ、治ったわ。言ったでしょう? 治りは早いと。一晩寝たら即完治よ」


「ふぅーん……一晩?」


 鼻声も治っているし、空元気ではないらしい。それよりも輪廻の言葉の中に不可解な単語が混じっていた気がする。


「今、何時?」


「七時よ、朝のね。それよりびっくりしたわ。起きようとしたら貴方、足から手を離さないんだもの。思わず頭を蹴ってしまったわ」


 寝違えじゃなかった。


「マジか……」


 首を押さえてベッドに突っ伏す。


 脳が起き出したのか思考が動き出す。図らずも彼女の家に一泊してしまったようだ。毎日のようにここに入り浸る俺だが、泊まるのは初めてだった。いや、ぷょぷょの夜を入れると二回目になるのか。


「ごめん……」


「謝る必要はないわ。寝ている間、足を温めるようにお願いしたのは私だし」


「そっか。ん、くふぅ……」


 呟き、背筋を伸ばす。一瞬釣りそうになったがなんとかこらえた。まずいな。無断外泊すると、うちのばあさん機嫌悪くなんだよな。まぁ常に悪いので五十歩百歩なんだけど。というか、腹減った。何も食わずにえーと、十四時間以上? も寝ていたせいか、胃が抗議の声を上げる。


「お腹空いてるの? それ食べれば?」


 俺の空腹を察知したのか、彼女はドライヤーを片手にテーブルを指差した。テーブルの上には俺が買ってきたパイン&ナタデココゼリーが置いてあった。ナタデココしか入っていなかった。器用にゼリーとパイナップルだけを食べたようだ。


「……わーい、俺ナタデココ好きなんだー」


「そう、良かった」


 にやりとほくそ笑む輪廻をスルーし、一口でナタデココを掻っ込む。仄かにパインの甘味を感じるそれをもっちゃもっちゃと咀嚼していると、玄関のインターホンが鳴る。


「新聞の押し売りかしら? 漆、追い払ってきて」


 自分を指差し、俺? という 意志を込め無言の抗議を敢行したが、髪が濡れてる、すっぴんだからなどという最もらしい理由により即座に棄却された。


 催促するように再度インターホンが鳴る。内心ため息を吐きながら玄関へと向かう。


 ナタデココを胃に流し込み、玄関の覗き穴から外を確認すると、パンツスーツスタイルの女性が立っていた。苛立たしげに再びインターホンを鳴らそうとしていたので慌てて鍵を開けドアを開いた。


 すらりとした長身をクリーム色のスーツで決めたその女性は両腕を胸の下で組み、俺を睨む。


 その威圧的なオーラに気圧されながらも俺は何とか口を開いた。


「あの、どちら様でしょうか?」


 スーツの女性は鋭い双眸で俺を一瞥すると、ゆっくりと自分の素性を明かした。


「本願寺慧子。ここに住んでいる輪廻の母です」

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