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地金の唄  作者: 河城真名香
地金の唄
10/17

三十二度の温もり 1

 翌日の昼過ぎ。自室で二度寝三度寝を重ね、惰眠を貪っていると、メールの着信で四度目の起床を余儀なくされた。視界の端で携帯のサブディスプレイの縁が赤く明滅する。手探りで携帯を掴み、光に慣れていない目をすがめながら開く。


 宛名は――本願寺 輪廻。


『風邪ひいたなう』


「………………」


 いわんこっちゃない。思わず寝ぼけ眼で天を仰いだ。大方、冷房をガンガン効かせたまま寝たりしたのだろう。自業自得である。


 もう一眠りしようと思ったが病人を放っておくのも気分が悪い。とりあえず返信をして彼女の様子を窺うことにした。


「大丈夫か、っと」


 送信。右手に携帯を握ったまま再び瞼を閉じた。扇風機から送られてくる生温い風がタオルケットからはみ出した脚を撫でる。俺の部屋にはエアコンなどという高度な品物は存在しない。夏は『型遅れのボロ扇風機』、冬は『レンジでチンして簡単湯たんぽ♪』を駆使してそれぞれの季節を乗り切る。まぁエコロジー。まぁ素晴らしい。まぁみすぼらしい。などと下らないことを考えていると、手の平で黒い携帯がぶるぶると震えた。


 ガラパゴス化した携帯。通称、ガラケー。ガラパゴス化とは、ガラパゴス諸島の生物進化のように周囲とは懸け離れた、独自の進化をすることらしい。特に、IT技術やインフラ、サービスなどが国際規格とは違う方向で発達することを指し、高度で多機能であるが特殊化されていて世界市場では売りにくいとか何とか。


 ま、つい最近まで色んなカラーバリエーションがあるから『柄』ケーだと思ってたわけですけど。このことを輪廻に言ったら鬼の首を取ったようにバカにされたんだよなぁ……いかんいかん、意識が明後日の方へ飛んでしまった。


 再び携帯の画面を開いて輪廻の返信に目を通す。


『大したことないわ。熱が七度九分あるくらいだから。でも私の平熱は五度くらいなのだけど(笑)』


 (笑)の意味が分からない。普通に辛そうなんですけど!


 なんか買って行こうか? とメールを送信すると、数十秒後に返信がきた。


『気にしなうで。うつしても悪いし、貴方は引き続き惰眠を貪るといいわ』


「しなうで……」


 慌てて打ち間違えたのだろうか、いつも推敲したかのように誤字脱字のないメールを(きっちり改行、段落分けまでされている)送ってくる彼女にしては珍しい。


 というか何故俺の行動を把握しているんだ! エスパーですか!? 盗撮ですか!? いいえ、俺がニートだからです。


 ニート百人に、日頃何をして過ごしているかアンケートを取ったら、過半数は『睡眠』と答えると思う。確信がある。断言出来る。


 俺はため息を吐きながら起き上がり、上半身を左右に捻った。バキバキ、と身体の節々から破壊音が鳴り響くがいつものことなので気にならない。基本寝たきりの老人の様な生活を送る今の俺は運動と無縁なのだ。成人病まっしぐら。


「とりあえず歯磨いてシャワー浴びて、コンビニ寄ってなんか買って行きますか……」


 きついならきついと素直に言えばいいのに。ま、何の連絡も寄越さずに病死されるよりマシか。一人苦笑しながら俺は洗面所へ向かった。



 ささっとシャワーを浴びた俺は、コンビニで適当に差し入れを買い込み、輪廻の部屋の前まで来ていた。


 外は夏。蝉達が一斉に調子づく。太陽からの殺人光線を全面で受け止めるアスファルトからは陽炎が揺らめき、朧げに映る街並みはどこか現実離れしている。熱された空気を吸い込むと、喉に張り付くように絡み息苦しさを感じさせる。


 途中何度も帰りたいと思ったが、僅かに存在する良心の懸命な説得により、何とか此処まで辿り着くことが出来たのだ。


 額の汗を手の甲で拭いながらインターホンを押した。しばらく待ってみたが、一向に扉が開く気配がないのでドアノブに手をかけた。かちゃりと音を立ててドアノブが回る。鍵が開いている?


「輪廻さーん。勝手に入りますよー?」


 何故か声を潜ませながら玄関の扉を開く俺。超不審者。空き巣と間違えられても文句言えない。


 開いた扉の隙間に首をねじ込んで部屋の中を様子見る。俺は頭を突っ込んだ瞬間に感じた違和感に驚愕した。


「さっむ!」


 輪廻の部屋から漏れ出た夥しい冷気に思わず身震いする。外の気温の高さも相まって、部屋の中は極寒の様に感じられた。フル稼働するエアコンの悲鳴のような駆動音が中から聞こえてくる。風邪をひいているのに冷房をつけっぱなしとか、治す気がないのか。


 俺は半ば呆れながら、靴を脱いで輪廻の部屋へと向かった。案の定、ベッドの上ではシュークリームのように丸くなった布団の塊が鎮座していた。


 俺はテーブルの上に置いてあったエアコンのリモコンを掴み、電源を切った。


「十八度て……冷房効かせ過ぎだっつの!」


 俺の諌言に反応するようにシュークリームがもそもそと動くが、中身が出てくる気配はない。


 少しイラッとしたので無理矢理布団の皮を剥いだ。


「風邪引いてるのに冷房付けてちゃダメだろ!」


「ふぁ、う! だって、暑い!」


「暖かくしてないと治るもんも治らんばっは!?」


 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ。十八世紀に活動したドイツの作曲家。特に鍵盤楽器の演奏においては高名で、当時から即興演奏の大家として知られていた。西洋音楽史上における存在の大きさから、「音楽の父」と呼ばれているとかそんなことはどうでもいい!


 ちなみに俺は別に音楽に対して造詣が深いわけではない。『長ったらしい名前の有名人を知っていればカッコイイんじゃね?』という小学生男子に有りがちな歪んだ価値観に感化されて覚えただけだ。ピカソのフルネームだってそらで言える。じゃなくて!


 布団を引っぺがすと、中から出てきたのは当然、輪廻だ。俺が驚いて奇声を発してしまった理由は彼女の格好にあった。布団の中で胎児のごとく丸まる彼女は、いつものゴスロリ姿ではなく、黒のブラウスを下着の上から羽織っただけだった。


 大きくはだけたブラウスから、ちらりと見える胸の膨らみは、まばゆいほど白くまるで陶器のようにきめ細かい。着痩せするタイプなのだろうか、黒いレースのブラジャーに包まれたそれは、想像していたよりも大きかった。多分D以上。


 普段は黒ストッキングに覆われたしなやかな両脚が、剥き出しで折り畳まれている。大胆に露出された肉感的な太股に目が釘付けになる。俺が少しでも顔を動かせば確実にパンツ見える。いやいやいや紳士! 俺紳士!


 風邪で弱っているのを良いことに、しれっと彼女のあられのない姿を心のフィルム焼き付けるなんて、そんな畜生の所業をするわけがない。しちゃいけない。


 引きはがした布団を勢いよく輪廻に被せる。極めて平静を保ちつつ、服を着るように促した。


「あた、あたたたたたたかくしてないと悪化するよ」


 北斗か。布団の隙間から顔だけ出し、じっとこちらを見上げてくる。熱のせいか頬は赤らみ、目は心なしか潤んでいるように見える。そのどこか泣き出しそうな、批難するような輪廻の瞳に俺はたじろいでしまう。何か悪いことをしたのだろうか。確かに薄着の彼女を丹念に観察はしたが、肝心なところは見ていない。本当だよ。


 内心どころか外心(そんな熟語はない。ニュアンスでなんとなく受け取って欲しい)まで狼狽する俺。


 輪廻は軽く唇を尖らせ口を開いた。


「何故来たの? 大丈夫だっていったのに」


 普段の凛とした声調ではなく、若干鼻声だ。


「いや、だってきつそうだったから」


「余計なお世話ね、私は体調を崩してもすぐに治るの。始業式の日の朝に具合が悪くなっても数時間で全快するんだから」


「ただの仮病じゃねーか」


「とにかっ、くちゅん……」


 なんだそのくしゃみは? 可愛いと思ってんの? 俺は可愛いと思ったよ?


「……ほら、気を使わなくていいから」


「き、気を使ってなんか、」


「それとも何か? 俺みたいな腐れニートに看病されるなんて心外ですか? あーそりゃそうだよな。社会の最低辺の人間に世話焼かれるなんて輪廻にとってかなり屈辱的だもんな。ごめんな、そこまで気が利かなかった。そうだよな、具合悪い時に俺が視界に入ったら尚更悪くなるよな」


「え? いやそんな、」


「本当にごめん……これ差し入れ。良かったら食べてやってくれ。俺みたいな屑が買った物だけど、コンビニの商品に罪はないから。それじゃ」


 差し入れの入ったコンビニの袋をテーブルの上に置いて俺は踵を返す。


「ま、待って! そんなこと思ってないから!」


「本当に?」


 訝しむふりをしながら輪廻に向き直る。勿論、本気で帰るつもりなどない。


 彼女が風邪を俺にうつすことを危惧しているのは明白だったので、少しからかってみたのだ。見舞いに来た人間をこのように帰らせるのは中々出来ることじゃない。少なくとも、俺の知る輪廻はそんなことは出来ない。


 ただ一つ想定外だったのは、慌てふためく彼女の姿が可愛らし過ぎたことだった。


 今更気付いたが、今日の彼女は一切メイクをしていない。すっぴん状態だ。職業じゃないぞ。彼女と知り合って一ヶ月以上経つがノーメイクを見るのは今日が初めてだ。皮肉にも、化粧を落としている状態の方が具合が良さそうである。


 付け睫毛などしていなくても充分過ぎるほど長い睫毛、熱で赤く染まる頬と鼻先。普段は黒か紫のべにに包まれている唇が今日は桃色をあらわにしていた。病弱な美少女といった風情をかもしている。脈拍が再加速を始める。


「本当よ! 来てくれて、その、凄く助かったわ!」


「わっ! 分かったからまず服を着てくれ!」


 布団を脱ぎ飛ばすように両手をこちらに向けて拡げる彼女。大きくあらわになった胸元が俺の目に飛び込む。たゆんと上下に揺れる胸から慌てて目を逸らした。


「え?……ああ、それもそうね。人前に出る姿じゃなかったわ」


「そ、そうだろ? トイレに行ってるから着替えたら教えて!」


 背を向けてそう伝え、俺は早足でトイレに入った。閉めた扉に背を預けて、ゆっくりと深呼吸をする。ラベンダーの芳香剤の香りに少し頭がくらくらした。


「無防備過ぎるだろ……」


 信頼されているのか、男と扱われていないのか。もしかしたら熱のせいで判断力が鈍っているのかも知れない。若干、舌足らずだったし。


「どっちにしても童貞の俺には刺激が強すぎますよっと……」


 普段の言動や行動は残念だが、間違いなく輪廻は美人の部類に入る。それもトップクラスの。


 いくら俺が最高峰のヘタレ意気地無しと言えど、間違いを犯さないとは言い切れない。もし間違いを犯して彼女と気まずくなろうものなら、輪廻の家にはもう来られなくなるだろう。それだけは避けたい。


 今や俺にとってここは、自分の家よりも、ゲーセンよりも安らげる場所なのだ。


「頑張れ理性……お前なら、大丈夫だ」


 深く息を吐いて白い天井を見つめる。予想以上に厳しい見舞いになりそうだ……。


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