5話 天羽さんにもっと笑顔になってほしい
つい先程、泥水に全身を濡らされた僕。これで天羽さんの家に行くのが中止になるかと思ったけど、その予想は外れた。
───このまま冷えると風邪引くね。
───じゃあ、すぐに風呂だな!
───なら、私の家が一番近いし、お風呂使って!
確か、そんな結論を苺谷さんと片桐と天羽さんが出して、皆に促されるままに連れられて、今、天羽さん宅の浴室前の脱衣所にいる、というのが、今回のあらすじ。なるほど分からん。
「天羽さん。今更だけど、本当にいいの?」
「良いよ。風邪引いて欲しくないから。早く濡れた服脱いでね」
「う、うん」
好きな女の子から服を脱いでと言われるのは、普通の高校生男子には恥ずかしさで口角が上がってしまう。だが、それを見られる心配は無い。今ここは、僕しか居ない。天羽さんは、脱衣所の外、リビングの方にいるから、扉越しに会話だけ出来ている。
「石上くんは何も遠慮しないでいいからね。お湯もシャンプーも、棚にあるタオルも好きに使っていいし、パパの服になっちゃうけど後で着替え持ってくるから。ゆっくり温まってね」
「あ、うん。ありがとう」
ありがたいけど、そこじゃないんだよなぁ。天羽さんは、僕が遠慮してるように見えているようだ。それだと、もしかして僕は、天羽さんの献身的に身を案じるご厚意に対して失礼してるのか? もしかしなくても、僕は変態なのか? 薄々気付いてたけど、悪化してるのか?
「……さむ」
体が細かく震える。確かに皆の言う通り、すぐ温めた方が良さそうだ。取り敢えず、今は何も考えず、心を無にして、服を脱ぐ事にした。
───カチャ
扉を開けて、風呂場に一歩。
あ。やばい。鼻がやばい。めっちゃ良いシャンプーの香りが。それもそうだ、天羽さんのラベンダーの香りは、ここにあるシャンプーボトルから出して、洗って、香り付けしているから。
当たり前だけど、想像してしまう。昨日も、一昨日も、天羽さんは、この聖域で服を脱いでいる。そして、髪に潤いと美しさを注いでいる。誰にも見せない一糸纏わぬ姿で……体の隅から隅を清めて……。
「のおおおおおおおおおっ!」
ダメだ! ダメだダメだ! 天羽さんをそれ以上具体的に想像するのは絶対にダメだ! あああダメだと思ってるのに、何で想像上の天羽さんは恥ずかしがりながら真正面を向いてくださるんですかありがとうございます違う違う! 天羽さんは絶対そんな事しない! 侮辱に等しい! こんな罪悪感満載の想像をしないよう、天羽さんのその部分だけを見ないよう、最初に助けた後に坐禅を組んで心頭滅却しただろ! 足りないなら今ここで追加でやってやる! 滅却! 滅却! 滅却!
「石上〜。着替え置いとくぞ。って、何ブツブツ言ってんだ? って! おおい、本当に何してんだよ! 何の儀式だよ!」
◆◆◆◆◆
ややあって。坐禅も入浴も終えた僕は、修行を終えた僧侶のように静々と浴室から出る。着替えは天羽さんのお父さんの服。サイズは胴回りが大きめ。お父さんの隆々な筋肉が服からも伝わってくる。
そうして僕はリビングに向かう。その途中の廊下から、パンの香ばしい匂いと、卵焼きのような食欲をそそる匂いが、鼻を弄んでくる。その匂いに誘われるままに扉を開けると、そこにはパンがテーブルに並び、皆が着席していた。食べずに待ってくれていたようだ。
「ごめん、お待たせ」
「いいよ! ささ、座って!」
楽しみでウズウズしてる天羽さんに促され、僕も座る。そのパンを改めて見る。
鶏卵と同じ形の小さいパンが、僕と片桐と苺谷さんそれぞれの前に置かれた平皿に並んでいる。焼き時間が異なるのか、焼き色が3種類あり、各2個ずつある。
これが、勉強を頑張った僕に食べてほしくて焼いたパン。本当に手作りですかと聞きたい。
「卵の良い匂いがするね」
「そうなの! 味も3種類あるからね〜」
「うん。いただきます」
「いっただきまーす!」
「頂きます」
僕と片桐と苺谷さんは手を合わせる。手前にあるパンを頬張ってみる。
「ん〜! 美味し!」
そのパンは、ホットケーキのように柔らかいモチモチ食感と、米粉と卵の風味が優しく口に広がる逸品だ。味わいを楽しんでる途中で、つい飲み込んでしまった。もう一口。ああ、やっぱり柔らか美味しい。
「石上くん、早いね! 気に入ってくれた?」
「うん! すごい美味しいよ!」
「えへへへ〜、良かった!」
そう話してるうちに、もう1つ取ろうとする時、片桐がパンを天羽さんに見せる。
「おーこれめっちゃ美味ぇな!」
「えへへへ〜、でしょ?」
気になり、片桐のと同じ色のパンを1つ取り、噛む。サクッと表面が割れ、中は程よく固い。クッキーのようで噛むのが楽しい逸品だ。
「サクサクだね! 美味しい!」
「ふふ、良かった!」
このクッキーみたいなパンも、おかわりが進みそうになるけど、僕は見逃していない。苺谷さんが、まだ最初の1個目のパンを味わっているから。目を閉じて微笑みながら食べて……そんなに美味しいのかな。気になる。同じ色のを僕も食べてみよう。
「っ、すご、何これ」
噛んだ瞬間、じゅわっとカツオ節の出汁の風味が口に広がる。遅れてほんのり甘みも広がる。食感はたこ焼きのように柔らかいけど、ホットケーキのようなパンと違ってしっかり重みのある噛みごたえだ。
「すげぇな! こんなの食べた事ねぇぞ!」
「ああ! 新しいな!」
片桐と僕は目を合わせて驚愕する事しか出来なかった。
「石上くん。それ、何をイメージして作ったか、分かる?」
「たこ焼き?」
「ブー。片桐くんは?」
「分かんねー……おでん?」
「ブッブー。文実ちゃんは?」
「……うどん?」
「正解! これはね、うどんとドーナツを合わせたパンでーす!」
「おおお! 言われてみれば!」
「でしょ? ふふふっ」
なるほど。確かにうどんのコシとカツオ出汁が効いてて、意識すればうどんらしさが際立ってきた。ますます食が進んで、もうパンが残り1個になってしまった。
丁度、今の時間は学校帰りで、夕飯まで微妙に時間がある。家に帰ってきてテーブルの上にこの美味しさのパンがあったら、おやつとして手が伸びるに違いない。お腹いっぱい食べて晩ご飯を少し減らしてお母さんに叱られるに違いない。
「天羽さん、これ止まらないよ。最高のおやつだね」
「ふふふふっ! そっかぁ! ふふっ」
天羽さんが、今の会話で特に上機嫌になった。どうしたんだろう。
「あのね、まだ石上くんと片桐くんには話してなかったけどね、実は私、将来の夢はパン屋さんなの!」
「え? パン屋さん……?」
「マジでっ!? すげぇ!」
その瞬間、僕は以前に食べたあの一口アップルパイや、その後いくつも頂いたパンの数々が頭をよぎった。
言われてみれば、ごく一般の料理好きな高校生が作るものとしては完成度が高いものばかりだった。
「あのアップルパイの時も、パン職人に絶対なれるって思ってたんだ」
「えへへ……そんなに? 嬉しいなぁ、もう!」
「うん。天羽さんなら、絶対」
と。僕が激励をすると、天羽さんは照れ笑いから少し落ち着いた笑顔になった。
「ありがとう。実はね、本当はね、私、もう既にお客さんに食べてもらってるの」
「え?」
「マ、マ、マジで!?」
口をポカンと開けた片桐と目が合う。
「びっくりした?」
「びっくりするよ! そ、それ、もう夢叶えてるじゃん!」
「えへへ、ブイ! って言いたいんだけど、本当はちょっと違うけどね」
「っ……え?」
そこから、天羽さんは色々と語ってくれた。
お父さんが、パンを焼く巨大なオーブンを用意してくれた事。
おばあさんが、食品衛生管理者の資格を既に持っていて、そのおかげでちゃんと金銭を頂けている事。
お客さんが、おばあさんの広い友人関係のご厚意で成り立ってる事。今は、週末だけ販売する宅配型の小規模なお店だという事。
目を輝かせて堂々話すその姿に、僕の想像力が広がる。
パン屋さんのよく被るハンチング帽と、白いエプロンを着て、手にはミット。熱々のオーブンからアップルパイの置かれた鉄板を出して、僕に笑顔で、召し上がれ〜! と。
「なるほどな! さっきのパンも、売り物にするのか?」
「そ! 学校から帰ってお腹を空かせた人がおやつに欲しくなるようなテーマで作ってみたの!」
ふっ、と笑ってしまう。天羽さんの考えと、僕の感じた事が同じだった。
「食べてくれて、ありがとうね! 自信が持てたよ!」
自信。天羽さんは、夢を叶えるため、努力を重ねている最中。試行錯誤の中には、不安が伴うはず。けれど、食べる人のためにここまで想いを形に出来る、そんな天羽さんなら。
「ふふ」
「どうしたの?」
「未来が、楽しみだなって」
「……えへへ。うん」
そう言うと、天羽さんはふにゃふにゃに溶けるように笑って、頷いた。
◆◆◆◆◆
そうして、試食会を終えて。
僕は、帰宅したその日の夜、自室のベッドにごろ寝しながら、左手薬指を見る。僕に休みは必要無い。今のうちに把握しておいて間違いない。そういう訳で、額に当てて眠りにつく。
◆◆◆◆◆
意識が、少しずつ鮮明になってくる。色彩は無く、白と黒と灰色しか存在しない世界。天羽さんが死ぬ世界。たとえ夢でも見たくないが、現実世界の天羽さんを守る為に、この一回で済むように、よく見るべきだ。
「ふふんふ〜ん」
私服姿の天羽さんが、大きめのリュックを背負って、住宅地を自転車で走っている。学校や自宅から歩くと遠い場所だ。友達の誰かに会いに行くのか? それにしては動きやすさ重視の服装で、遊びに行くとは思えない。
そんな天羽さんが見通しの悪い十字路に差し掛かる。
───ガチャアッ ゴンッ
マンホールが外れ、自転車から放り投げられた先で、首から上を車に轢かれてしまった。
……反射的に目を逸らすと、その先に、天羽さんのリュックからこぼれた物を見る事になった。それは、僕も見た事がある物。食べた事もある。鶏卵と同じ形の小さい、学校から帰ってお腹を空かせた人がおやつに欲しくなるような、パン。いくつかが袋詰めされているそれが、とても1人で食べる量ではない数で、リュックに入っていた。
42d 18h 01m 29s
42d 18h 01m 28s
42d 18h 01m 27s
◆◆◆◆◆
「天羽さん」
「うん? どうしたの?」
翌日の昼休み。僕は天羽さんの席へ向かう。苺谷さんと涼風さんと談笑している。机を寄せてお弁当を食べ終えたようで、お菓子やら菓子パンやらを並べている。その中には、僕が以前食べた一口アップルパイもある。
「あ、その……」
「石上くんも食べる?」
自信からなのか、語気から積極的に誘われていると感じる。天羽さんのそれを聞いた涼風さんが近くの使われてない椅子をガタガタと寄せて、僕を手招きしてニヤニヤと薄笑いをしている。苺谷さんは菓子パンを頬張りながら僕に親指を立ててグッドサインを出している。
「良いの?」
「もちろん! どうぞ遠慮なく」
天羽さんの元気いっぱいで自信満々な笑顔に撃ち抜かれながら、僕は令嬢の花園へと踏み入れる気分で慎重に座る。
色とりどりの菓子がある中、僕は天羽さんのアップルパイを手に取り、頬張る。ああ、何度食べても美味しい。
「美味しい」
「ふふ、良かった」
僕と天羽さんの会話は、それだけ。お父さんの車の中で何度もやってきている、そこから先に言葉のいらない会話。目と目を合わせて微笑むだけで、天羽さんが嬉しく思っている事は充分伝わってくる。
「ねえねえ石上くん。前にも食べた事あんの?」
「あ、うん」
「ふ〜ん。やっぱりね。何回も食べてきた常連さんみたい」
涼風さんが問う。そんな雰囲気が出てたらしい。
「良いなぁ。知らないと思うけど、これが食べれるなんてラッキーなんだからね」
「ラッキー?」
涼風さんの言う言葉に、天羽さんは補足しようと目を合わせてきた。
「私のパン屋が、注文が入ってから焼いて届けるのは知ってるよね。たまーに、1ヶ月に1回くらいで、アップルパイの注文があるの。その時の余りをこうして皆におすそ分けしてるんだよ」
「そ! マジでラッキーなのよ!」
苺谷さんも、うんうんと頷く。
そこまでラッキーなものを、僕は9個も食べたのか。
「うん。確かにこれは、1ヶ月に1回のご褒美だね」
「っ……えへへ。嬉しい」
天羽さんが、僕の一言にふにゃりと笑う。
「甘いねぇ〜」
「甘い」
「ちょ、鈴子ちゃんも文実ちゃんも! 何でそんなに優しい目で見てくるの! や、やめてよ! もう! もう!」
ああ。ぷんぷん怒る天羽さん、良き。
でも。そろそろ本題に入ろう。
「注文って、どれくらい来るの?」
「ん〜〜とね。ここ最近は、週末5件くらいだよ」
「5件も……1人で作って、1人で届けて?」
「そ。作るのは楽しいんだけど、届けるのが……ね」
天羽さんの視線が少し下がる。
「花恵ちゃん、いつも迷っちゃうの」
「えっ……? いつも?」
「うん」
「この子、超が付く方向音痴なの!」
涼風さんが横からズバッと言い切ると、天羽さんが、「うっ」と言って苦虫を噛み潰したような表情になる。
確かに少し前にヤノノブに行こうとして反対方向にいた。色々ありすぎて忘れてた。
「地図を見ても真逆を行っちゃうし。近所の人に道を聞いて、やっと届けてるんだよ」
「本当?」
「お恥ずかしながら、全くその通りです」
「だよね。あたしの家にも来たし、文実ちゃんの家にも。ね〜」
「7回」
苺谷さんが両手で7本指を立てて、天羽さんに見せている。天羽さんは、「ぐはっ!」と言って、喉を抑えて天に助けを求めるように手を伸ばした。
中々見れない天羽さんのリアクションをもう少し見ていたいけど、苦手分野を掘り起こすのは良くない。そろそろフォローしなきゃ。
「そうなんだ。でも、でもさ、天羽さんは遅刻してないじゃん。家から学校まで迷わず来れてるよね」
「っ! そ、そうだよ! そうだもん! ちゃんと来てるもん!」
「まぁ、確かに。遅刻してないね」
天羽さんの表情がぱっと明るくなる。涼風さんが認める。
「石上くん。花恵が朝学校の遠くを歩いてるの、見た事ある?」
「えっ? 無いよ。学校近くならあるけど……」
「ちょ、鈴子ちゃん!」
「花恵?」
「うぅ」
天羽さんが、涼風さんの目力で説き伏せられた。
「ね。無いよね〜。だって毎日お父さんの車に乗って、学校の近くの誰も居ない道でバレないように降りてるから。ね〜?」
しかし、涼風さんが言った衝撃の事実に、天羽さんは、両手で顔を隠してしまった。
毎日。高校2年生になっても、お父さんが心配するくらい、超が付く方向音痴……。
ごめん天羽さん。傷口に塩を塗っちゃった。
◆◆◆◆◆
あと37日後、天羽さんはマンホールが割れて事故に遭う。それを直せば解決する。至って簡単だ。
しかし、それだけで本当に天羽さんの笑顔を守れるのかと、素直に喜べない。
その明暗の分かれる名案を、とある人物に聞く必要がある訳で。
今日は週末。学校は無いから、私服姿で昼間に動ける。
そして、今、天羽さんの家に来ている。これで2回目の訪問。
服のボタンがちゃんと付いてるか確かめて、髪の乱れを手櫛で整えて……インターホンを押す。音が鳴ると、背筋がピンと伸びる。ああ緊張する。
───ガチャ
「いらっしゃい」
扉を開けて出迎えたのは、白い髪を後頭部に団子状にして結び、茶色のカーディガンを羽織っている。
今日の話し相手。
天羽さんの、おばあさん。
◆◆◆◆◆
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
家に招かれた僕は、以前入った部屋とは違う和室に案内され、座卓に正座する。おばあさんが急須で湯呑みに注いで下さった緑茶を目の前にして、緊張しすぎて飲む気になれず、おばあさんへと視線をむける。
「ほっほっほ。そう固まらなくて良いのよ」
「は、はい。善処します」
「そうしておくれ。さて、駆馬くん。まずは直接言いたかった事があってね」
「な、何でしょう」
「花恵の命を救ってくれて、ありがとう」
深々と、頭を下げて下さった。
「老い先短い私よりも先に、あの子に不幸な事が起こりでもしたら……そんな事はとてもとても。駆馬くんのお陰だよ。お礼を言うのが遅くなってすまないね」
「そ、その、大丈夫です。本当に、天羽さんが無事で、僕も嬉しいです」
ゆっくりとした声で、まるで神様に礼拝するように感謝され、返答で転んでしまった。
「そうかいそうかい。優しくて謙虚だねぇ。どうだい、花恵とお見合いするかい?」
「お、おおおおお見合い!?」
「ほっほっほっほ。初々しいねぇ。ほっほっほ」
冗談……だよな。場を和ませる話術だろうな。
とにかく、僕が主導権を握って、今日の本題に入らないと。
「お手紙は読まれましたか?」
「ええ、読みました」
僕の問いかけに、おばあさんが懐から手紙を出す。
それは、つい5日前。超が付く方向音痴だと話題に挙がり、天羽さんの困った顔を見た時から思い立って、書いて、お父さん経由で渡した手紙。
「僕を……ここのパン屋の配達係として、働かせて下さい」
おばあさんが、口を開いた。
「はい、喜んで」
「……えっ」
「何をそんなに驚くの。断る理由が無いわ」
あまりに呆気なく決まった。緊張感が残っている。
逆に聞きたい。なぜ許可してくれるのか。
そう目線から汲み取ってくれたのか、おばあさんが「そうだねぇ」と言う。
「パンを運ぶ人が欲しいか、花恵に聞いてみたのよ。すると、何て言ったと思う?」
「えっと……欲しい」
「いらないって言ったのよ」
「え、ええっ!?」
ダメじゃん! おばあさん、雇っちゃダメじゃん!
「ほっほっほ。まぁそんな顔になさらないで。実はね、過去にもお友達が手伝うよと花恵に言ってくれた事があってね。よく遊びに来る女の子とか、急に仲良くしようとした同じクラスの男の子とかね。その度に花恵は、全部それを断っているの」
おそらく、苺谷さんや涼風さん、他にも多くの友達と、多分だけど告白した5人の男子も、声を掛けたのだろう。
「私の口から言えるのは、花恵にとってパンを焼くってのは、特別でねぇ。お客さんとお話するのが大好きなの。覚えるのが難しい道をどれだけ迷うとしてもね」
「なるほど。そこまで将来の夢にまっすぐに。じゃあ、尚更、何で僕を?」
「それはねぇ。駆馬くんが、花恵には何も言わず、求人も何もかけてない所に、仕事内容も拘束時間もお給料も何も知らなくとも、働きたいと言ったからよ。普通はそういうのを気にするものでしょう?」
そこでおばあさんは湯呑みを一口すする。
「駆馬くんは、どうしてそこまで?」
おばあさんが、優しく微笑みながら、僕を見てきた。本音を聞きたい、そんな目だ。
「僕は、好きな事にまっすぐな天羽さんが、今でも充分笑顔ですけど、天羽さんにもっと笑顔になってほしい。だから、支えたいです。それさえ見れるなら、どんなに大変な仕事でも、どんなお給料でも、構いません」
「そうかそうか。うんうん。良い。本当に良いね」
おばあさんが、ふんわりと嬉しそうに笑って何度も頷いた。
「駆馬くんなら、本当に、あの子の事を分かってあげられそうね」
「……?」
「ううん、何でもないわ」
おばあさんが首を振る。
「さて、と。私からは採用したい。けど、あんたはどうなの? 花恵」
おばあさんが、天羽さんの名前を大きめの声で言う。すると、扉が勝手に開いた。まさか……。
「うぅ……」
天羽さんが、ひょっこりと顔だけ出してきた。
目が合い、すぐ逸らしてしまう。何だろう、おばあさんが許可して入ったのに、僕が勝手に家宅侵入したような気分だ。
「バァバは最初から気付いていたよ。お茶を入れた時から、ね」
本当に最初から最後まで聞かれていた! ああヤバい、笑顔を守りたいだなんて、めっちゃ恥ずかしい事を聞かれてしまった。
天羽さんは、どう思っているんだろう。気になるけど、顔が合わせられない。
「さて、と。私は、おいとまするね。駆馬くん、また連絡するよ」
「あ、はい。ありがとうございました」
そうして、おばあさんは、天羽さんと入れ替わるように、部屋の外へ出ていった。
天羽さんが、おばあさんの座っていた座布団に正座する。
「……」
「……」
沈黙。どっちにも話したい事があるのに、どっちから話し掛けるか微妙にタイミングが掴めない。
「あ」
天羽さんが、おばあさんが置いていった手紙を見つけて、読み出した。
そこには、こう書いてある。
天羽美空さんへ
初めまして。花恵さんの同級生の石上駆馬です。
花恵さんがパン屋になる夢のために頑張っている姿に、僕は感銘を受けました。
配達する時に迷ってしまうと聞き、是非とも手伝いたいと思いました。
アルバイトとして雇ってもらえるかのご相談をしたいです。
「変な事は書いてないよ」
「そう……だね」
手紙を読み終わり、それでも、沈黙は続く。
このままじゃいけない。
納得してもらうんだ。
死の未来を変えるために。
笑顔をもっと見るために。
「あの」
誠意を見せようと思った、その時。
天羽さんが、微笑んでいた。
見蕩れて、言葉が止まった。
時間にして、ほんの数秒。しかし、時が止まった感覚になる。
もう何度も見ているはずなのに、真正面から、天羽さんの綺麗な瞳や唇、整った栗色のサラサラな髪を、こんなに長く見つめ合うと、どうしても心拍数があがってしまう。
「石上くん」
普段より一層、優しく名前を呼んでくれる。いつも優しいのに、それより更に上を行く。それは、誰にでも見せる優しさとは違うものだと、何となく感じた。
「天羽さん」
僕も、天羽さんのように、いつもとは違う声色で、優しく呼び掛ける。
名前だけ。この会話に、細かいメッセージは言わなくとも伝え合える。なぜかそんな気がしてしまう。
でも、そろそろ心臓が限界だ。どうにかなってしまう前に、直接伝えないと。
「天羽さん。天羽さんの笑顔を、もっと沢山見たい。だから、手伝わせて」
「……………………うん。ありがとう」
口元を手で覆い、天羽さんは笑って頷いた。




