4話 天羽さんは濡れてない?
───カッカッカッ
今日も変わらない、いつもの風景。
教室にチョークの音が響く。
僕がいて、天羽さんがいる。
ただ、それだけで、心臓が休まる。この小さな幸せが続いてほしいと、切に願う。
◆◆◆◆◆
「おっ? 今日は出来てるじゃんか! どうしたどうした?」
片桐が、僕のノートを覗いてきた。
「ああ、ちょっと頭がすっきりしてさ」
「そっか! 勉強頑張ってたもんな! 努力が実ったな!」
屈託のない爽やかな賞賛を聞き、見て、僕は遅れて実感する。この1ヶ月、無駄ではなかった。
しかし、心の底から喜ぶのは、まだ早い。
「まだまだ足りない。だからさ、今日の放課後は、この教室で勉強しようよ」
「はぁ?」
僕の頼みを、片桐はソフトモヒカンをわしゃわしゃ掻いて、笑わず僕を見てきた。
「やめだ。今日は宿題サボろうぜ」
「……え」
「お前にしちゃ頑張ってきただろ。ここ最近は俺らが何も教えんでも自力で宿題やれただろーが。何つーか、頑張りすぎ? つーか、たまにはガス抜きが必要だろ」
「え、いや、いいよ。やろうよ」
「うっせぇ。悪いが、俺だけの意見じゃねーんだわ」
「そうだよ」
振り向くと、後ろから苺谷さんが。
「石上くんは疲れが溜まってる。顔に出てる。あなたは居眠りしないとやっていけない人間だもの。だから今日はいつも通り宿題をサボって」
しれっと悪口を言われたけど会話の流れ的に笑えない。
「花恵ちゃん。ちょっと」
僕が言葉を探しているうちに、苺谷さんが天羽さんを手招きする。
「何何?」
「今日の放課後は宿題サボろ、って話」
「あっ、ごめん、その話をしてたんだね」
「いや、俺こそすまねぇ。口を割ったもんでさ」
3人が、僕を抜きにして事前に話をすり合わせていたらしい。
「あのね。石上くん」
天羽さんが、しゃがんで、席に座る僕を見上げるように見てきた。
「今日、家に来ない?」
「家? だ……誰の?」
「私の」
「……ぇ」
「頑張ってる石上くんに、新作のパンを食べて欲しくてね」
「……パンを……?」
「ダメかな」
「いただきます」
◆◆◆◆◆
とんでもない事になった。
放課後、天羽さんの家に招待される事になった。
あの白黒の未来から遠ざかりたいと決意したのに、光の速さでひっくり返してしまった。
これは、信号機から助けた感謝のパンとは意味合いが違う。天羽さんが僕の事を気にかけてくれた。僕を労うために、疲れている今この状態の僕に必要だと考えて焼いてくれた、癒しのパン。
それを、天羽さんの家で。誰ともお付き合いを断ってきた天羽さんが、こんな僕を家に招くなんて……いやいや全然そんなウフフなつもりは無いんだろうとは分かっている。だって……。
「マジで今日の数学は激ムズだったな!」
「だよね! 先生頭良すぎだよぉ!」
「まあ悔しいけど言ってる事は全部正しいんだよね。速いんだけど」
「それな!」
一緒に帰路につくのは、天羽さん、片桐、苺谷さん。この、いつもの4人で天羽さん家に行く訳だから、ウフフな展開なんて起こる訳が無い。天羽さんと2人きりなんて普通にありえない。ただの労いだ。それ以上でも以下でもない。
「はぁぁ宿題は今日中に持って来るように」
「うめぇ! そんな感じ!」
「うんうん! そっくりだよ!」
しかし周りは明るく、数学の先生を誰が一番真似出来てるかで盛り上がっている。
苺谷さんの真似は、特にだるそうなため息が似てる。
「石上。顔洗ってくるか?」
「ちょ、おいコラ!」
「ははは! 何キレてんだよ!」
片桐の奴は、顔の皺を付けて特徴を捉えてきた。しかも名指し。背筋が凍り付くから勘弁してくれ。
「眠いだろうが、あと少しだ。頑張れ」
「天羽さんまで……」
「ご、ごめんね! 冗談だからね!」
天羽さんは、抑揚を似せてきた。片桐の悪ノリに乗りつつ僕を励ます言葉を選んでくれて、嫌な気分にはならなかった。
……よし。順番的に僕だ。見てろよ皆。先生のゆったりした話し方には自信があるんだ。
咳払いして、さぁ、いくぞ!
「石上。100点おめでとう」
「んな訳ねぇだろ!」
「捏造は良くない」
「石上くん……」
あれれぇ? 結構似てたのに……。
◆◆◆◆◆
そんなこんなで、歩調はいつもと同じ。このままだと、時間的にも、あの夢の場所に着いてしまう。どうにかして運命を変えないと。
「あのさ! 僕、待ちきれないからさ、早く行こうよ」
「え? そんなに食べたいの?」
「う、うん! すごく!」
「そっか……気持ちは嬉しいけど、でも、うーん」
「このペースでいいと思うよ」
返答に困っている天羽さんに、苺谷さんが代わった。
「花恵ちゃんはね、生地からパンを捏ねるの。だから疲れる事を私たちが言うのはダメ。でしょ?」
天羽さんが、恥ずかしげに小さく頷く。
なんと、焼きたてパンを振る舞うとは……。
「そうなんだ……ごめん」
「ううん、いいよ。楽しみにしててね」
なるほど。早く歩いてもらうのは出来そうにない。
ならば、次の策。
「あ、靴の中に石が入った! ちょっと待って!」
「何やってんだ。ちと、先に行ってくれ。俺らは後で追いつくから」
「う、うん。石上くん、ごめんね」
「……え」
片桐が気だるそうに付き添ってくれたけど、肝心の天羽さんが苺谷さんと一緒にそのままの歩調で歩いて行ってしまった。
ならば、次の策。僕は急いで靴を履き直し、天羽さんたちに合流した。
「ちょっと皆、聞いてくれる? 僕、筋トレをしてるんだ。だから皆の鞄を預かっていいかな?」
「え、いいの? やったー! じゃあ、宜しくね」
そう言って、天羽さんは鞄を僕に渡してきた。
そう、この作戦は、皆から荷物を預かって、僕自身の歩調を重さで強引に落とす作戦だ。皆は、荷物を持ってもらえて楽が出来る分、僕を心配して歩調を合わせてくれるはず。
「さぁ、片桐も苺谷さんも」
「意外だな、お前がそんなにストイックだとは。ほらよ」
「うぃ。さぁ、苺谷さん」
「……本当にいいの?」
「うん、遠慮しないで」
「じゃあ、はい」
「どうも……っ…な、何これ」
「図書室の本。いつも鞄いっぱいに借りてるの。今日は、ポリーハッター10冊にしたの」
「そ、そうなんだ。そんな分厚いのを、すごい読むんだね」
「石上くん。やっぱり返して。筋トレするなら無理せずにね」
「……はい」
そう言って、持ち上げられずにいた僕から、苺谷さんは手軽く鞄を取り、軽々と背負う。どうやら、本当に鍛えられた人には僕の痩せ我慢が分かるらしい。
そうして項垂れる僕に、天羽さんと片桐も、申し訳無さげに荷物を持っていった。
◆◆◆◆◆
空が曇ってきた。
あと13分。そろそろ激しい雨が降ると思う。このまま変わらない速さで歩けば、あの夢のように事故に遭う。せめて、信号1回分、時間にして1分くらい、足を止められれば運命を変えられる。でも、僕なんかの話術では違和感なく止める事が厳しい。もう手を掴んででも……でも、それじゃこの幸せな関係性が壊れてしまう。
「あ、雨?」
その時。天羽さんが空を見上げる。
赤信号で止まっている僅かな時間に、大粒の雨が僕の頬にも当たってきた。
「うーわ、マジかよ!」
「えー予報だと夜って言ったのに」
「どうしよ。傘、コンビニで……でも、あと少しで着くんだよなぁ」
そう言って、天羽さんと苺谷さんは両手で前髪を守る。
そんな皆の前に、僕はリュックからオレンジ色の折り畳み傘を1本出す。
これが、最後の策。
「使う?」
「なぬっ!? マジか! ナイス石上!」
驚く片桐に、それを手渡す。
「待って。石上くんが濡れちゃうよ?」
「ううん、使っていいよ。まだあるから」
僕はリュックから2本目の黒い傘を出して、苺谷さんにも見せた。
「わお。2本持ってるなんてスゴいね」
「よし、こいつは俺と石上のペアで使おうぜ! 2本目は苺谷と天羽! いいだろ?」
「異議なし」
片桐と苺谷さんの意見が合致したようだ。
でも、大丈夫。実は今日、折り畳み傘を全部で4本リュックに入れて来ている。
最終局面には持っていきたくなかったが、この時だからこそ使える完璧な作戦だ。
「あ? お前、こんなの持ってたっけ?」
と、リュックの中の3本目を掴んだタイミングで、片桐が開いた傘に、皆が注目した。
そのオレンジ色の傘には、可愛らしいパンダの絵柄が。
しまった……それは、お母さんが使っている物で、いつも玄関で見かけるから違和感なんて感じなくなっていた。女性向けなデザインを男の僕が使うのは違和感しかない。
「石上くん」
弁明を考えて固まる僕に、天羽さんが、歩みをゆるめず前を向いたまま聞いてきた。
「誰か……女の子から借りたの?」
まずいまずい。
「花恵ちゃん。その誰かさんが気になったの?」
「文実ちゃん! 違うよ! そういうつもりじゃ!」
女子2人の楽しいトークに、片桐が笑ってる間に、考えを整えよう。
確かに、傘を2本も持ってるの不自然だし、親友の片桐が見た事もない可愛い傘となると、誰かから借りた物かと思うのは当然だ。そこに加えて3本も4本も持ち歩くのは不自然極まりない。
手が、止まった。
このままでは、夢の通りになる可能性が残るし、これ以上変な事をすればこの幸せな関係性が崩れて、パンを食べるどころじゃなくなる。
考えろ。雨が強くなる前に。天羽さんが走り出す前に。
残りの傘は、もう出せない。1人で使うにしては小さいから2人で1本を使うとなると体の大部分が雨に濡れる。すると、早く帰ろうとするのは当然で……可能性をゼロにするには、今ここで歩く速さを僕がコントロールする必要がある。という事は、僕が先頭。その隣には……
……。
ペアで……傘を持って………
「!」
それだ。それなら歩く速さを調節できる。このタイミングなら自然な流れで言える。
本当なら心の準備の時間が欲しいけど、そんな余裕は無い。ぶっつけ本番。やるしかない。
天羽さんを、守るんだ。
「あ。あのさ」
僕が次に言う言葉に、皆が早歩きで進みつつ、耳を傾ける。
「それ、お母さんが間違えて入れちゃったんだ」
「なるほどな!」
「で、でさ、片桐は苺谷さんとペアになって。僕は……」
僕は、天羽さんの方を見て、息を吸う。
「天羽さん……」
これが、今の僕に出来る事。めっちゃくちゃ恥ずかしい事。いつも普通に声を掛けるだけでも心の準備が出来てないし、こんな事をするなんて普段の僕なら心がバーニングするから有り得ない事。
男子と付き合いたくない天羽さんに、嫌われてしまう事。
それでも僕は構わない。
天羽さんが笑顔でいられる時間を守る事が出来るから。
「あ……」
震える手で、黒い傘を開き、1歩前へ。
「相合傘……して下さい」
振り絞った勇気を、言葉に出来た。
天羽さんは、両手で前髪を雨から守り、声を出さず驚いた表情で固まっている。
片桐は、「ぶはっ! マジ? マジ?」と、吹き出している。
苺谷さんは、「はわわわ」と言って震えている。
その通り。僕は、めっちゃくちゃ恥ずかしい事をしている。そんなの分かっている。わざわざ親友の提案を蹴って、特定の女子を名指しで、近くに来て欲しいと。どう考えても、異性に恋愛感情的な好意を持った行動。男子が、女子へ、告白しているようなもの。
天羽さんの反応から、そういう意味なのだと伝わっているようだ。
唇が、きゅっと閉じる。視線は、僕が傘を持つ右手を見つめ、ゆっくりゆっくりと何度も瞬きをする。そして、前髪を守っていた両手が、前に伸び───
「うん」
その両手が、傘を持つ僕の手を包ん───え、やば、天羽さんの手……温かくて柔らかくて……いやダメだこの温もりを堪能してる場合じゃない。
「い、いいの?」
「……ん」
無言で恥ずかしげに視線を逸らしながら、頷く。
うおおおっ! うおおおおおおっ! OK! OKしてくれた! まさかの成功! 何で断らないんだ? いやもういいだろ! やばいやばい声に出そうだ! 鎮まれ心臓! 堪えろ鼻息! このまま堂々とし続けるんだ!
とにかく、こうしてる間にも小雨が強まっている。
「じゃあ、行こっか」
「……うん」
「……」
「……」
───ぱらぱらぱら
傘が雨粒を弾く音だけが響く。雨降る道を、僕は道路側の左側に立ち、傘を右手で持つ。僕らの間に会話は無く、傘の外に出ないよう、歩幅を小さく、肩を寄せる事に意識を集中している。傘が垂直に立つよう、僕は柄を持つ右手に力を込める。その右手の下半分と柄を持つように、天羽さんの左手が添えられる。風に負けないように柄をしっかり支えつつ、僕の右手に触れてる部分はそっと羽で包むように。そんな絶妙な力加減から、天羽さんは本当に優しい人なんだと改めて感じた。そう思うと同時に、僕がわがまま言って始めた事なのに、逆に気を遣わせてしまっている。僕がエスコートしなきゃ。
「あ、天羽さん」
「はいっ?」
天羽さんが、息を吸いながら返事して、僕の手に一瞬握る力が強くなる。緊張してるようだ。何とか緩めてあげなきゃ。
「その……びっくりした?」
「うん。すごく」
「だよね。僕も、自分でびっくりしてる」
「え、そうなの?」
「うん。僕、昔から人に話すのが苦手でさ……でも、さっきみたいな事を、天羽さんにだけは言えるんだなって」
「わ……私に……だけ?」
「うん。天羽さんだけ」
そう。僕は、天羽さんの寿命が見えるから。……いや、正しくは、天羽さんの寿命を見られるのが僕だけで、笑顔を守れるのは僕だけ。そう思うと、僕は僕自身の苦手意識をぶち壊して、想いのまま話せる理想の僕になれる。何だか二重人格のように行動力がすごすぎて実感を感じられないから、びっくりしてしまっている。
「わ、私も……ね」
と。一緒に柄を持つ天羽さんの左手に、一瞬だけ力が入る。
「石上くんと一緒にいると、落ち着く……よ」
どくん。心臓が熱くなる。傘が揺れる。
「何だかね、石上くんって、私を守ってくれたカッコいい人でもあるし。目が合ったら笑ってくれる人でもある。授業中に居眠りしないように……その、頑張ってる頑張り屋さんでもある」
「……」
勉強に関して、僕を傷付けないように褒めるポイントを選んでる気がする。
「でも。でもね。ただのクラスメイトじゃないの。友達なんだけど、それだけじゃない感じがして。何だか上手く表現出来ないけど、不思議な……そう、石上くんの事を不思議と目で追いかけちゃうの」
天羽さんの左手が少し震える。声も段々と小さくなっている。
「……僕たち、よく目が合うね」
「うん」
「……不思議だね」
「不思議だね」
「……」
「……」
「……」
「……」
話が止まった。
雨が、もう傘が無いと急ぎたくなるほどに強まっている。そんな中を、僕らは肩を寄せて、僕らのリズムでゆっくり歩く。この瞬間の、聞く音も、見る景色も、僕は全部が尊く思えた。
「───」
なんて思ってると、天羽さんが、ぽつりと呟いた。雨が強くて聞き取れない。
「何か言った?」
「───みたいだなって」
丁度良いのか悪いのか、濡れた路面を走る車のバシャバシャ音で、せっかく聞こえる声量にしてくれた天羽さんの声が聞こえなかった。
「ごめん、聞こえなかった。最後、何て言ったの?」
「……………………」
今度こそ聞き取れるように、僕は天羽さんに顔を向けて、口の形を見ながら聞き取ろうとする。
しかし、天羽さんは僕の方を見ると、すぐ俯き、息をふぅ……と吐いて。
「ううん。ただの独り言」
ただの独り言か。それなら会話を広げるつもりでは言っていないだろう。
「分かったよ」
「うん。分かってくれて良かった。独り言だからね。本当に独り言だからね。独り言だから気にしなくていいんだよ」
「う、うん。分かったから」
何でか早口で補足された。
「ん?」
ふと見ると、例の交差点が見えてきた。
携帯電話で時間を見てみると……どうやら僕は10分くらい遅く歩く事に成功したらしい。
……静かに、終わった。
事故に遭う運命を、もう既に変える事が出来ていた。天羽さんを2度も守れたんだ。そう改めると、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。よく頑張った僕。
「天羽さん」
ふと見上げた、その時。耳を澄ましていたから、遠くからエンジンを鳴らしている音は聞こえていた。夢とは、また違う車。それが爆速で道路を走って来る。まぁ、今の僕らは歩道にいるし、ガードレールもあるから、事故は有り得ない。
───バッシャアアアッ!
激しい水の音。視界に捉えた時には、既に僕の上半身が濡れる寸前と言った光景だった。
せめて天羽さんは。
考えるより先に体が動き、僕は水しぶきに背を向けて、僕に当たる面積を広げる。
「ひゃああああ!」
天羽さんの驚いた声が響く。
冷たい。顔にも衝撃と冷たさが降りかかり、押されて倒れそうになるのを何とか堪える。傘の柄を握る右手は、無意識に全力を込めていた。
「石上くん!?」
「石上! 大丈夫か!?」
天羽さんと、少し後ろから駆け寄る片桐の声が聞こえる。
大袈裟だな、濡れただけなのに。
「天羽さんは濡れてない?」
「ぇ……」
「おい何言ってんだよ。自分の心配しろや」
片桐がすぐ近くまで駆け寄り、足を止める。さっきから、耳からの情報しか無い。目が開けられないからだ。目に泥水が入ったけど、袖で拭えばいいか。
「ダメ!」
天羽さんが、僕の左手を制する。
「袖にも泥が付いてるからダメ! ちょっと待って! 拭くもの出すから!」
「ありがとう」
泥水は袖にも付いていたらしい。
そんな棒立ちな僕に、天羽さんは傘の柄から急いで手を離して、カバンからハンカチらしき物を取り出し、僕の目元を優しく拭いてくれる。
「あーあーマジ腹立つな。リュックも泥まみれだぞ」
そう言って怒りながら、片桐は僕のリュックを叩いて泥を落としてくれる。
「ちょっと、そこで休もっか」
「だな!」
そう言って、苺谷さんの提案で、すぐ近くの民家の屋根付きガレージで雨宿りさせてもらう。そして、苺谷さんは僕の右手から傘を取っていく。
そんなこんなをしていると。天羽さんが拭いてくれたお陰で、目元が綺麗になってきた。目を開けてみる。
「天羽さん?」
天羽さんが、眉をひそめた表情で、僕の頬や耳を拭いていた。
「ねぇ、何で石上くん、自分の心配よりも、私が濡れてないか心配するの? 冷たいでしょ? 目も、耳も、あちこち濡れちゃったのに……あの時もそうだった。石上くんも危ないのに。守ってくれたけど、命を投げ捨ててるようで……」
最後の方は、ハンカチの手が離れ、天羽さんは震える声を噛み締める。
僕は、そんな天羽さんに掛けるべき言葉が、何も出ない。だってそうさ、僕は天羽さんの笑顔を守る為に最善を尽くしてきた。後悔は無い。天羽さんが死ぬ事と比べたら、僕が濡れた事くらい大した問題じゃない。
……。
でも。少しだけ、認識を改める必要がある。
天羽さんの笑顔を守るなら、僕が身代わりに盾になる事はダメらしい。冷たいなら冷たいと、怖かったなら怖かったと、正直に言ってほしいと。
……ああ、これは、僕が天羽さんに無事でいて欲しいのと同じように、天羽さんも僕に無事でいて欲しいんだ。
「分かったよ。心配かけてごめんね」
「ん……うん」
僕は、泥の付いていない右の手の平で、天羽さんの頭を撫でる。
笑顔を守る為に、今出来る精一杯だ。




