1話 天羽さんが死ぬなんて
───バキッ
凄まじい金属音。見ると、信号機が根元から倒れていく。その先には───
「天羽さんっ!」
天羽さんが、迫り来る信号機に気付いたが、ただ立つ事しか出来ずにいた。
───ゴォォォォォン
轟音が空気を切り裂く。重く、鈍く、金属音が爆ぜる。アスファルトの地面が揺れ、その振動と恐怖に耐えられずに僕は尻もちをついてしまった。
次第に音が止む。
きつく閉じた目を開け、見てみる。
「っ!」
なぜか色を失った白黒の世界。
ひび割れたアスファルトの地面に、ゆっくり広がる黒。
信号機の下敷きになっている天羽さんの手を、足がすくんで立てない僕は、触れる事すら出来なかった。
65m 40s
65m 39s
65m 38s
◆◆◆◆◆
「石上!」
「はぅ!?」
名前を呼ばれ、頭を上げる。
見慣れた教室。クラスメイトの皆が、僕を見て静かに笑ってる。黒板にチョークを置いた先生がため息をついている。
また、やってしまった。僕は、授業中に居眠りしていたようだ。左手が痺れている。
「顔洗ってくるか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。あと少しだから頑張れ」
先生が黒板に向き直す。クスクスと笑いを堪える声が辺りから聞こえる。恥ずかしい。穴があったら速攻で入りたい。
「頑張れ〜。ぶくくく」
ニヤニヤと笑いながら、前の席から振り向いてくるのは、やっぱりこのソフトモヒカン男。片桐。
「うっせえ。頑張るから後でノート見せて下さい」
「お〜後でな」
と。片桐は笑っていじってくるが、基本優しい。僕の勉強の半分くらいはこの幼なじみの親友のお陰だと言っても良いくらい世話になっている。
「ま〜た、アレか?」
せっかく褒めたのに。このソフモヒ野郎、また振り向いてニヤニヤしてきた。
僕は返事をせず、代わりに野郎の椅子を軽く蹴る。これ以上話していると先生に怒られるし、それに……。
「……」
ふと、恥ずかしくなり、見る。廊下側の列で、黒板に一番近い席。前を見ると視界に入る斜め前にいる、その女の子を。
栗色の長い髪に、陽光が均一に反射して美しい。椅子の背もたれに掛かっているが、1本1本がサラサラと流れるように軽い質感で垂れている。しかし前髪の両端は黒い無地の平らなヘアピンで留めていて、授業の妨げになっていない。そうして下を向いて集中してノートに書き、顔を上げて黒板を見つめるその艶やかな眼差しに、幼さがありつつ大人びた顔立ちが窺える。
天羽花恵さん。
同じ高校に入ってから初めて出会った。誰にでも愛想が良く、仲が良い訳でもない僕にも挨拶をしてくれる子だ。
でも、僕は勉強出来ないし将来の夢も無い。話しかける勇気すら持てず1年が過ぎてしまった。2年生の今年から同じクラスになって、早1ヶ月。チャンスは多いはずなのに、天羽さんの髪の美しさと勉強に集中する横顔を見つめる事に満足してしまっている。授業中、この教室、この席の角度で、好きなだけ見つめても気付かれない、奇跡が重なったこの瞬間が好きだ。正面から顔を見たい気持ちもあるし、名前を呼ばれたいし、その髪を撫でてみたい。けど、そんな勇気は僕には無いし、間違いなく心臓がもたない。これで良いんだ。幸せで満たされているのだから。
でも。
今日は、いつもの幸せな気分になれない。
本当にあれは、鮮明で、強烈で。
天羽さんが死ぬなんて、酷い夢だ。
◆◆◆◆◆
「さてと。ゲーセン行こうぜ」
下校時刻。リュックを背負った片桐に声を掛けられる。
「ああ、ごめん、行こか」
僕は手短にリュックに荷物を詰める。
「あん? 考え事か?」
「いや、大した事じゃ」
このモヤモヤを話しても、片桐が返事に困るだけ。
そう。あれは、ただの夢。
幸いにも場所は分かる。高校から東に走って10分ほどの距離だ。それに、天羽さんが帰る方角とは違う場所。天羽さんの家の場所は細かく知らないけど登下校で見かける道順から、天羽さん家は西。真逆だ。
分かっている。白黒なだけの、ただの夢。
……。
そう自分に言い聞かせても、全く効果が無い。こんな所に記憶力を発揮しているのも、僕の悪い所だ。
「石上くん」
と。昇降口で靴を取り出した、その時。
そよ風に揺らぐ風鈴の鳴るような、耳が心地良くなる声が聞こえた。
「石上くーん」
と思いきや、天羽さんの声だった。というか、僕の名前を、僕のすぐ後ろで、呼び掛けているではないかっ!?
つい耳が癒されて、振り向くタイミングが遅れてしまった!
「今日もお疲れ様! 数学眠くなるよね〜」
「そ……そ、だね」
「一緒に頑張ろ! また明日ね! 片桐くんも、またね!」
「おう! またなー!」
そう言って、栗色の長い髪をふわりふわりと揺らして、靴を履き替える。
「あっ、あのさ」
僕の、何とか振り絞った小さな呼び掛けに、天羽さんは立ち止まってくれた。
「どしたの?」
目を見て言葉を待つ天羽さんと、一瞬しか目を合わせられない。
なのに、何で呼び止めたんだ僕は。
あんなの、ただの夢だろ。
「その……今からどこに?」
「私? ヤノノブに行くの! ちょっとお買い物なんだ〜」
「えっ……スーパーの?」
「そ! 野菜が新鮮だからね! 石上くんも、よく行くの?」
「えっ? まぁ、たまに、お母さんと」
「そうなんだ! じゃあ、どこかですれ違ってるかもね!」
そう言って、天羽さんは歩み始める。
「またね!」
天羽さんは、見えなくなるまで手を振って微笑んでくれた。
……。
見えなくなって、僕の手はそのまま固まって……ラベンダーの残り香が風に流れきった後で。
会話してくれた。
手を振ってくれた。
一緒に頑張ろうと励ましてくれた。
「 」
ああ。これだよこれ。
この胸の高鳴り。この充足感。
「良かったじゃん」
「な、何だよ」
「いつもの顔に戻ってらぁ。くくく」
片桐のおかげで改めて気付く。
天羽さんは、夢に出てきた場所には行かない。方角が全然違う。高校から向かうとスーパーは南西。
良かった。天羽さんが死ぬなんて、ありえない。
「花恵ちゃーん」
と、しみじみ思っていると。後ろから声が聞こえた。
「苺谷か。どした?」
「花恵ちゃん、もしかして行っちゃった?」
「おう、ついさっきな」
「あー……どうしよ」
苺谷さん。長い髪を頭の上でお団子にしてまとめている、小柄な女子のクラスメイト。天羽さんと一緒にいる事が多い。
その手には、カピバラのキャラクターの刺繍がある焦げ茶色のがま口財布が。
「花恵ちゃん、お財布を忘れてっちゃったの」
「は? ヤノノブ行くんだよな」
「何で知ってるの?」
「たまたま聞いた。なぁ?」
「野菜を買うって、ね」
「そっかぁ。ありがとう。ったく、世話焼けるなぁ」
ため息を吐いて、苺谷さんが靴を履き替える。
「あ。……ぶくくく」
片桐が、いやーな笑みを浮かべる。まさか……。
「苺谷。それ、俺らが届けるぜ」
「え? いいの?」
「おう! 丁度そっち方向に遊びに行くからよ! な?」
嘘だ。そっちにゲーセンは無い。
「なら助かるわ。私はまだ先生に用があるから」
と言って、苺谷さんは少し微笑み、僕に差し出してくる。
よりによって、何で僕なんだ。こんな大事な物を僕が預かっていいのだろうか。言い出しっぺの片桐が持つべきでは?
「くっくっく」
そうか。こいつ、いやーな笑いをしながら距離を置いていたんだ。学校に残りたい苺谷さんが僕に渡すのを、あの一瞬で……。
やってくれたな。と、目で訴えても、親指を立てて悪い笑顔でニヤニヤしてくるだけ。
良い事をしているのに、どうしてそんなに計算してたり悪い笑顔なんだよ、こいつは。
◆◆◆◆◆
かくして。ヤノノブの方面へ歩きつつ、片桐のせいで、僕も天羽さんを追う事になった。
「おい」
「んだよ?」
「僕が天羽さんとまともに話せる訳ないじゃないか」
「だからこそ、だよ。これをきっかけに話せるようになっちまえ! 出たとこ勝負だ!」
「いきなりは無理だって! 最初はなんて声を掛けたらいいんだよ。良い発声練習を教えてくれ! あー、ん、ん」
「またそれかよ」
ダメだ、上手く渡せる未来が見えない。
「さっきは良かったじゃんよ」
「それとこれとは違う。さっきは会話の第一歩が天羽さんだった。でも今度は僕だ。そこでつまづけば会話のリズムも狂うし何も伝わらないし印象が悪くなるんだぞ」
「あーあー分かった分かった! そんな自己分析やれて素晴らしいぜ!」
くっ……埒が明かない。
こうなったら、ササッと渡して退散するしかない!
なんて話して歩いている内に、ヤノノブが見えてきた。
「少し黙っててくれ。深く深呼吸を深めるから」
「は?」
………………よし。震えるけど、行こう。
渡すだけ。最低限のノルマだけでいい。
そう言い聞かせ続けて頭の中いっぱいにして雑念を塗りつぶし、大きな一歩を踏み出し、ヤノノブの中へ。
人混みで迷惑にならずに出せる最高速の早歩きで、僕は進む。先に見つけて会話の主導権を僕から握る、その一心で探し、見渡し、嗅ぐ。
「なぁ。ダメくね?」
「だね」
しかし。見つからない。
人混みはあるが、さほど店内は広くない。制服姿なら目立つはず。
これは、どういう事だろう?
「すみません」
「はい何でしょうか?」
入口近くで蜜柑の試食コーナーの担当をしている店員のおばさんに聞いてみよう。
「井上高校の女の子が来ませんでしたか?」
「えー? 今日は、まだ1人も来てないですよ」
「えっ……?」
「学校が終わったばかりですしねぇ。今日はあなた達が最初の高校生ですよ」
……じわり。寒気を感じた。
「この子っす。私服に着替えたとか」
片桐が、携帯電話の画面でクラスの集合写真を店員に見せる。
「あっ、この子!」
「来ましたか!?」
「いや、今日は来てませんけど、よく来るから知ってますよ。そんな着替えるなんてしないですって。いつも時間かけて道に迷いながら来ますから」
「そうっすか! あざました! なぁ、どうする? ま〜だ外じゃん?」
……じわじわと寒気が止まらない。
脳裏に焼き付いた、あの、妙に鮮明に覚えている夢を思い出してしまう。いつも苺谷さんや他の友達と帰る天羽さんが、夢では天羽さん1人だった。それは買い物があるから。でも、迷子になりやすく、夢に出た真逆の方角の道路を通るとしたら……。
やりたくなかったが、思い出せ。
夢の最後、あの数字は。65mと38s。まるでデジタル時計のように数字が減っていた。あの居眠りしていた時刻の、65分後は……。
携帯電話の現時刻から計算すると───
「片桐。これ持ってくれ」
「ちょ、石上!」
片桐に荷物を預け、僕は全力で駆ける。説明している時間が無い。あの夢が、未来予知のような、意味のあるものだとしたら、一刻の猶予も無い。
残り時間は19分。しかし、ヤノノブからその場所へは走ってギリ間に合うかどうか。
くそっ、どうして最初に気付かなかったんだ。居眠りしてた時に気付いても……いや、やめよう。二度と見たくない夢だと思っていたくせに。
今は走る事だけに集中しろ。転ぶな。転んだら終わりだ。
「ふ……ふ……ふ」
体力が徐々に無くなり、遅くなっていく。
足を、腕を、全てを出し尽くせ。
今、天羽さんを守れるのは、僕だけ───
「っ……」
息が絶え絶えになり、早歩きが一番の速さになっている走りで、曲がり角を曲がると、その先に。
1人。陽の光に照らされ、明るい栗色の長い髪がふわりと舞う。
天羽さんが、夢で見た交差点のそこに、本当にいた。
「あ……ぁ……ぁ」
まずい。息が上がって声が出ない。足に力が入らない。
まずい。まずいまずい。
あの交差点、あの信号機が、もう目の前にある。
───パァ…ポォ…パァ…ポォ…
救急車が、僕に何かを告げるように通り過ぎる。体力の限りを尽くして走って熱を帯びてるのに、その風圧でじわりと寒気を感じた。何の変哲もない地元の道なのに。夢と同じ交差点に、天羽さんが赤信号で止まっている。信号機は、今はまだ倒れてこない。
今はまだ。
もうすぐ倒れる。
寒気が止まらない。
まさかと思い携帯電話を見る。
残り時間は1分を下回っている。
「まっ」
声が小さく届かない。刻一刻と時間は残酷に。全ての車が止まり静かになり。吸い込まれるように歩く天羽さんを誰も止めてくれない。
「っ!?」
それを……見て……凍り付いてしまった。
ミシ……と音がして。
信号機が……曲がった。
───バキッ




