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星降夜譚  作者: 稲葉 鈴


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2/19

1.風の強い日だった。

 それは、風の強い日だった。



 ざぁっと風が吹いて、転びそうになった私は、とりあえずそこにあった円筒型の、石で出来た椅子に座った。なんでこんなところに椅子が、と思ったような気もするし、特に何も感じなかったような気もする。ただ転ばなくて、ほっとしたのは確かだ。


 目を閉じて、強い強い風が収まるのを待って、それから目を開いた。だって風が吹いてるときに目を開けると目の中に砂が入って痛いから。



 どこだ。


 ここは。



 足元はグレーの石畳。私がいるのはおそらく円形広場で、ひとりがけの石で出来た椅子が点在している。私が今腰をがけているものも、おそらくは同じシリーズだろう。


 見える範囲にある建物はおそらく平屋で、田舎の方にあるような、なんだろう。濃いグレーの石とか瓦とか、そういうので出来ているような屋根。足元の石畳と似たような材質の壁。多分。この距離からだと、ちょっと自信がない。


 でもなんとなく、ここはさっきまで私のいた場所ではない、と感じた。さっきまでどこにいたのか、というのは、思い出せないんだけれど。何がどう違うのか、というのすら浮かばない。けれど、明確に、違うというのだけはわかる。


 ひとが点在している。なんとなく見慣れない髪型、見慣れない服装だ。髪の色は同じように、黒なのだけれど。



「あなた、大丈夫?」



 呆ける私の側に膝をついて、ひとりの老婆……おばさん……うーんなんと表現したものか。女性、そう、女性が私に声をかけてきた。


 彼女はそっと私の腕を優しくなでる。安心させるように。ちっとも不快じゃない。彼女の望み通りに、その仕草は私を安堵させた。



「多分、大丈夫、です」



 声は出た。まるでずっと水分を取っていないように、喉はねっとりと張り付いていたけれど。声を出すのが苦しい。でも、出ない訳じゃない。



「大丈夫じゃないわね。あなた、自分の名前は言える?」

(あかね)、です」



 記憶というものは、いつも一定の形をして、まるで本が本棚に整然と配架されているようには並んでいない。必要な事を思い出すために、引き出しを引っ張り出す必要があるのだ。


 普通は、普段は、いつもは、そんなことは意識しない。けれどその時の私は、そう感じた。


 自分の名前一つ思い出すのに、思い出さなければいけなかったのだ。



「そう、(チエン)というのね」



 違う。


 と、言いたかった。私の名前はあかねであって、ちえんではない。けれど、口はそうです、と言葉を紡いだ。


 そこでようやく、私の側にしゃがみこんでくれている女性の顔をまじまじと見た。これまでは視界に入っていたのに、よく見えていなかった。ぼやけていたとか、霞がかっていたとか、そういうことではない。


 なんだろう。認識できていなかった? それもちょっと違う。だってそのひとが女性で、おばさんとおばあさんの間くらいの年頃、というのは分かっていたのだから。


 白髪交じりの黒髪は、後ろで一つのお団子になっているようだった。椅子に腰かけた私の方が少し見下ろす感じになっているから、それが分かる。


 優しそうな瞳も黒で、親近感がある。前に私が住んでいた場所に生きていたひとびとと、同じような容貌だ。それはするりと、思い出すことができた。


 髪の色と、瞳の色と、その顔つきは。特に、私に違和感を与えない。



 彼女の額には、小さいけれど、確実に。二本の角が生えていた。


 それは肌と同じ色の突起で、黒髪の間からその姿を覗かせている。それほど長くはない。うつ伏せで寝るのに、それほど困らなさそうだ。



「来訪者がいらっしゃるのは、ここですか!」



 角が、生えているな。


 と、ぼんやりと思っていたら、男のひとが駆けつけてきた。背は高く、白っぽい服の上に、赤い縁取りがされた黒いポンチョ。ストールを巻いているというよりは、ボタンで留めるあれの方。それから膝下のブーツに、白いズボンのすそを突っ込んでいる。腰には、黒くて大きなベルトを巻いていた。



「ああ、あなたですね」



 にこりと笑って、そのひとは右手に持っていた白い帽子をかぶる。その時、頭のてっぺんに小さい角が生えているのが見えた。このひとも黒髪黒目黒ひげで、容貌は見慣れたものである。あの頭のてっぺんにあった、白くて硬そうな角を除いては。


 そのひともまた、ぼんやりと石で出来た椅子に座る私の前に、しゃがみこんでくれた。



「ようこそ蔡郭(ツァイグゥォ)へ。私たちはあなたを歓迎いたしますよ」



 何を言っているのか、どういうことなのか。言葉は分かるのに、その意味が分からない。


 男のひとは立ち上がると、腰に巻いたベルトから扇子を取り出して己を仰ぐ。どうやらあれはベルトではなく、ウェストポーチのようであった。



「いや失礼。走ってきたら、暑くなりまして」

「ねえ、(カン)さん。彼女はうちでお預かりしてもいいかしら」



 今は、少なくともそれほど暑い、とは感じない。じめっとした湿度も感じない。だからきっと、男のひと、堪さんは、走ってきたことによって暑くなったのだろう。見える感じ、汗をかくほどではないようだ。



「助かります。書類は後程、今日中にかき集めて伺います」

「いいのよ、急がなくて」

「いいえ、急ぎますよ。その方が、梓晴(ヂーチン)さんのためになりますから」



 それならお願いするわね、と、その女性は男性に言った。私はぼんやりと、ふたりを見つめていた。


 私のことを話しているのは分かるのに、私には何も分からなかった。私は。私は?

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