予兆
思えば、生きることを嬉しく思ったことはなかった。
ただ日々がたつことが怖くて。
何者でもないことを、酷く卑屈に考えた。
朝の時計を見るのが怖かった。
カーテンから差し込む朝日が。
新聞を届けに、エンジンを鳴らす原付が。
普通の人が生きている日々が。
ただ憎く、怖かった。
なぜ自分は普通にはなれないんだろうか。
普通にすらなれないのだろうか。
「普通」なんてものはないと大人はいう。
そんなものなくて、みんな必死に生きているのだと。
それはお前の個性なのだと。
なら、なぜこんなにも納得できない。
なぜこんなにも苦しむのだと。
そんな個性ならいらなかった。
僕はただ普通に人と話して、普通に授業を受けて。
普通に一日を終わらせたい。
普通にお風呂に入って、歯を磨き、明日の準備をして希望を持つ。
そんなことすら満足にこなせない自分が憎い。
それだけなのにモノにあたった。
人並みの努力をしたと思う。
だが人並みの何かを手に入れられたことはない。
漫然とアニメをみて、漫画やゲームに触れた。
だが脳に入らない。
楽しい思い出や、感じたことを他者と共有したい。
欠けている過去が、己の停滞感を生み出していた。
ぽっかりと開いた穴が、虚無を生み出す。
足りない。
何かが自分には足りない。
「……あは……はっ……は」
思考が回りだした。
脳が停止する。
心臓は窮屈になり、全身は寒くなりだした。
視界が遠く、白くなりだす。
呼吸は荒れていた。
なんで?
なぜ普通に生きられない。
悪夢だけが、生きるための縋りだった。
そして夢のなかで、その悪夢は話しかけていた。
「おはよう……レイ。今日はなにをする?」
その言葉に、顔が停止する。
「はぁっ……?」
いつもの夢と違う。
飛行機は落ちていないし、火事もない。
ただ真っ白な部屋で、彼女は座っていた。
「……君は一体なんなんだ」
幻聴や幻覚であるはずのそれは、しっかりと話しかけていた。
「なんなんだ!お前は!」
いままでぶつけることのできなかった怒りが溢れ出す。
だが、彼女はそれに戸惑うことなくにこやかに笑みをむける。
それが、さらに理解できなかった。
「一体なんなんだよ!!!!」
強く怒りをぶつけた。
怒りを叫んだ。
記憶のなかで欠けているはずの彼女は、馴染みのようにこちらに話しかけていた。
今まではそんなことなかった。
あの場所に入ってからだ。
彼女はこちらに干渉するようになった。
「……」
彼女は言葉を発しようとしていた。
「思い出して」
それは、ただ一言だった。
思い出して。
なにを。
なにを思い出せというんだ。
「……は?」
「あの場所に答えはある。黄昏の中の記憶を思い出して」
「あの場所って……ヒグレのクニにか?」
あの場所といわれて、思い浮かぶのはたったひとつ。
日暮れに訪れたあの場所だった。
「うん、あるよ。君は思い出せる」
「……信じていいのか」
女性は、複雑そうな顔をしている。
その顔に疑いを持つ。
やはりこの子は嘘をついているのだろうか。
「どうした?嘘なのか?」
「ううん、違う。この先、君には多くの苦難が襲う。だから乗り越えて、成長して。人とかかかわることで君はまた強くなれるから」
女性が、手のひらから光をだす。
それは久遠の左腕の中に入り込んだ。
その瞬間、左腕は怪物のような黒い泥に変化した。
だが、痛みはない。
まるで生まれたときからそうであったように馴染んでいた。
「これは……?」
女性はそれに答える。
「それは、貴方が黄昏の中で生き残るために必要な力。人と関わりその精神を知ることでよりその腕は……体は進化する。それが貴方があの場所で得た能力」
「何を言っているかわからない」
自分があの場所で得た能力は、明瞭にはわからない。
氷月は、【住民化】だと言っていた。
実際住民になっても、もとに戻っていたのだからそれに近いのだろう。
だが、目の前にいる彼女はなんでそこまで知っている。
「貴方も戦えるよ。だから大丈夫……天谷君も氷月ちゃんも君にとっては大事だもんね。守りたいんでしょ?」
「……」
にこりと優しい笑みを向ける。
それは、近しい家族をみるような慈しみの眼だった。
「天谷も委員長のことも知っているのか?」
「うん、だって君のことはみているもん。だから知ってる」
今度は、困ったようにその頬を染めていた。
どう対応すればいいのかわからない。
「……一応心配してくれているってことでいいのか?」
「……うん。そうだよ」
彼女は、座っていた場所から立ち上がる。
そしてこちらまで歩み寄ってくる。
「え……?」
困惑する。
ここまで距離を近づけることはなかった。
しかし敵意を感じない。
対応に困る。
そんなことを考えていると、彼女は自身の手を握っていた。
「待っているから……ね?」




