異世界三度笠無頼:短編連作『峠にて恩を返すⅠ:雨の下里にて』
――恩と決意――
雨脚は細く、空の色は灰のようだった。
丈之助は三度笠の縁を指で押さえ、下野国・下里村の入口に立っていた。
胸の内に、遠い記憶のざらつきが残っている。
かつて流浪の果てに倒れ、この村の農家の夫婦に救われた。
飯を恵まれ、夜通し看病を受け、名も知らぬまま朝を迎えた。
その家の囲炉裏の煙が、いまも心の奥にかかっている。
だが、村の景色は変わっていた。
田は荒れ、藁屋根は沈み、子どもの声がない。
丈之助が村はずれの石垣を回ると、雨に濡れた廃屋がひとつ。
それが、あの家だった。
戸口には二人の子どもが蹲っていた。
姉と弟。年の頃は十と七。ぼろ布のような着物に、痩せた腕。
丈之助が声をかけると、姉の方がびくりと身を引いた。
「誰だい」
「旅のもんでさぁ。……この家の者は?」
姉は口を噤み、弟が代わりに言った。
「おっかぁも、とっつぁんも、みんな死んだ」
「……そうか」
雨の匂いが、いっそう冷たくなった。
丈之助は廃屋の軒下に立ち、戸口の内を覗く。
囲炉裏は崩れ、灰の跡もない。
この三年、誰も火を入れていないようだった。
「村はどうした」
「年貢が重くて、みんな飢えた。お侍に訴えたけど、捕まって……」
「強訴か」
姉は頷いた。目の奥に、言葉よりも深い悔しさがあった。
丈之助は黙って腰を下ろし、懐から小さな餅を出した。長く持ち歩いて固くなっていたが日持ちはする。
「腹に入れな」
弟が手を伸ばすと、姉がそれを止めた。
「そんな……おじさんが……」
「気にすんな、昔、この家に世話になった」
姉の目が丸くなった。
「じゃあ、おじさんが、丈さん?」
丈之助は少しだけ笑った。
「丈さんなんて呼ばれた覚えはねぇがな」
すると姉は少しだけ顔を明るくしてつぶやく。
「おかぁが言ってた。昔、丈って名前の旅の人を助けたことがあるって。」
丈之助は雨の向こうを見た。
風が竹を揺らし、細い葉が散った。
「親御さんの恩を、あっしが返す番でさぁ」
姉弟は顔を見合わせた。
丈之助は笠を直し、低く言った。
「おめぇさんたちを、このままにしとくわけにゃいかねぇ。
宇都宮に、古い貸元の旦那がいる。筋を通せば、面倒を見てくれる」
「でも、侍が……。逃げたら、また捕まる」
――また――
姉はそう言った。前にも逃げようとしてしくじったのだ。その怯えた顔に、二人が何をされたのかがにじみ出ていた。
農民は土地に縛られる。勝手に離れることは許されない。だが――
「逃げなきゃ、明日はねぇ」
丈之助の声に、姉弟は黙った。その姉弟のやせ細った体がすべてを物語っている。隣組の連中から施しをもらうことも難しいだろうとは明らかだった。
雨がさらに強くなり、土の匂いが濃くなった。
丈之助は笠を深く被り直し、道を見やった。
「――峠を越えりゃ、夜明けが見えやすぜ」
姉弟は頷き、丈之助の背中に続いた。
丈之助は思う。この子らを連れていけば村の生き残りや、侍どもが黙っていないだろう。
だが、たとえそうだったとしても、
「義理を欠くわきゃぁいかねぇ」
そのつぶやきに姉が視線を向けるが、丈之助は微笑んで黙らせた。
雨は細く、だが確かに、東へと流れていた。
(次話「峠の霙」につづく)
本作は『異世界三度笠無頼』の外伝短編連作に一つとして、
渡世人・丈之助が異界へ流れる前の足跡を描きます。
各話は独立してお読みいただけます。




