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夕暮れ時。村長宅の屋敷は、いつになく落ち着いた空気に包まれていた。

私――リリエは、ルナの手を引きながら玄関をくぐる。今日はカイル公爵が村長と話し合う場があり、私も呼ばれているのだ。


「いらっしゃい。公爵様は奥の間で待ってるわ」

出迎えてくれた村長は、どこかそわそわしている。やはり貴族相手となると緊張するのだろう。


奥の間へ通されると、カイル公爵がすでに丸いテーブルでくつろいでいた。さほど格式ばった様子はなく、目が合うとにこりと笑って手招きする。

「リリエさん、ルナちゃん、来てくれて嬉しいよ。……まあ、座って座って」


その朗らかな様子に少し安堵するが、私の緊張は解けない。隣にはゲルハルト騎士が控えめに立っており、相変わらず沈着な顔でこちらを見ているからだ。

「公爵様、今日はどのようなお話でしょうか……?」

私は恐る恐る尋ねる。すると公爵は、少し姿勢を正しながら口を開いた。


「実は、あらためて提案したいことがあってね。――先日話した“僕の離れ”への滞在、考えてもらえないか?」

案の定、あの話だ。私は息を飲み、そっとルナの手を握る。

「一度、リリエさんにゆっくり休んでもらいたいのと……ルナちゃんの教育環境も整えてあげたい。辺境の村だと、魔法の……じゃない、読み書きや算術を学ぶ機会も限られるでしょう?」


一瞬、“魔法”という単語が出かかった気がするが、公爵はすぐに言い換えた。

(やはり、私たちの事情を察しているのか……?)


「もし迷惑でなければ、そこに滞在しながら薬草や看護の知識を広めてもらったり、領内の病対策に協力してもらえれば嬉しいんだ。どうかな?」

公爵は優しい笑みを崩さない。ルナの瞳もきらきら輝き出す。

「わあ……それってなんだか楽しそう! 大きいお家かな? 馬車がたくさんあるの?」


娘の無邪気な反応に、公爵は嬉しそうに頷く。

「そうだね。離れだから本邸ほどじゃないけど、庭もあるし、馬もいるよ。ルナちゃんが遊ぶには十分じゃないかな」


ルナは興味津々だが、私としては慎重にならざるを得ない。

「ご厚意はありがたいですが、正直に言って……私たちは“貴族の庇護”を受けることに不安があるんです。今までも散々な目に遭ってきましたから……」

おそるおそる本音を漏らすと、公爵は少し寂しそうに目を伏せた。


「分かるよ……君の過去がどんなものだったかは詳しく聞いていないけれど、平穏を壊された経験があるんだろう? 無理に誘ってるわけじゃない。でも、もう怖がらなくてもいいと伝えたいんだ」

その言葉は真摯に聞こえる。しかし、本当に全面的に信じていいのか……。


「……少しだけ、考えさせてください」

「もちろん。急かすつもりはない。でも、もし引き受けてくれたら、僕も全力でリリエさんとルナちゃんを守る。だから安心してほしい」


――その言葉がどこまで本当なのか。私はゲルハルトの硬い表情を横目で見ながら、胸のうちで渦巻く思いを抱え続ける。


話し合いがひと段落した後、村長宅を出る。

夜の闇が広がる外には、村人たちの家の灯りがぽつぽつと灯っている。ルナが「ママ、夜ご飯食べよう!」とはしゃぐので、私は笑いながら返事をした。


「そうね。今日はちょっと贅沢に肉を焼いてみましょうか」

「わーい!」


母娘のほのぼのしたやり取り――しかし、その背後にいつの間にかゲルハルトが立っていた。

「お二人とも、だいぶ和やかにお話されていましたね。公爵様の提案、悪くないと思うのですが……」

「……ゲルハルトさん、いつからそこに?」

「ほんのさっきです。すみません、驚かせましたか?」


騎士は相変わらず丁寧な口調だが、どこか底意地の悪さを感じるような笑みを浮かべている。

私は抱えていた不安が一気にこみ上げ、つい問い詰めるように声を出した。

「あなたは、なぜ私のことをあれこれ探っているの? 私が何か公爵様に害をなすとでも思ってるの?」


ゲルハルトは肩をすくめる。

「ご心配なく。私は“公爵様の安全”を最優先に考えているだけですよ。あなた自身が危険人物かどうかは、今のところ判断しかねる、というだけです」

「危険人物、ねえ……」


思わず苛立ちが募るが、ルナがじっと私の袖を引っ張っているので冷静を保とうとする。

「えっと、騎士さん。公爵様はママを信用してるんだよ? それなのに何で……?」

小さな娘の疑問に、ゲルハルトはうっすら笑って答えた。


「親愛なるルナちゃん。主君がどれほど優しくても、騎士には“最悪の事態”を想定して備える義務があるんです。つまり、誰も疑わずに済むならそれでいい。しかし証拠を得ずに安心はできない」


明瞭かつ冷徹な論理。ルナは「ううん……よく分かんない」と首を傾げる。

私もその強固な姿勢に言葉を失う。ゲルハルトはそれを見て満足げに言葉を継いだ。


「ただ……私も好意的に考えているんですよ。もし、あなたが本当に無害ならば、堂々と公爵様のもとへ行けばいい。何も隠す必要はないでしょう?」

「…………」


隠していることがある――そう言外に匂わされているようで、胸が痛い。

(もし“伯爵家追放”や“ルナの魔法”の件がバレたら、どうなる……? 公爵様は受け入れてくれるの? それとも……)


ゲルハルトは私の迷いを見透かすように薄く笑い、「それでは失礼します」と踵を返した。

ルナが小声で「ねえママ、騎士さん怖い……」と言う。その気持ち、痛いほどわかる。


(ああ、やっぱり悩ましいわ。公爵様の提案を受けても、この騎士がずっと疑いの目を向けてくるなら……本当に安全なの?)



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