第1話
人の温もりを感じた。
温かい腕に包み込まれている。
初めて抱かれたその腕からはこの上ないほどの愛情を感じる、それから後悔で溢れる悲哀の贖罪と。
視覚も聴覚もひどくぼんやりしていて、まだ機能していない。
抱きかかえる人の顔は見えないし、頭上の会話も聞こえない。
ただ、愛を感じる。ずっとその人だけを待ち焦がれていたような強い愛を、今も───。
起きて
「起きて」
身体を強く揺さぶられるのを感じた。
いつもはそれだけでは起きない。人生で一番の至福から身体を揺さぶられたから、だなんてくだらない理由で起きやしない。
しかし今朝は違う。絶対に起きないという必死の抵抗も虚しく、自我を持ったかのように瞼が勝手に開こうとする。
いつもは時間をかけて行われるはずの目覚めだ。いきなりの開眼は光のダメージが大きい、という潜在意識は存在しない。
この家には強い光と言えるほどの光がそもそも存在しない。電気は流石に通っているが使う時は必要最低限のみ、それでも時々停電が発生するほど。よっていつも薄暗い、がもう馴れた。
それがこの家だけの特別な事情ではないから。このアパートはもちろん、この国自体に光が存在しない。
「起きてってば!」
少しイライラの募った声が寝起きの耳に響く。
同時に、今にも壊れそうな古木の天井を写す視界に異物が入り込む。怪訝そうに眉をひそめて、思わず「痛っ」と声が漏れる。
薄い金色の毛先が目に刺さり、瞬きを繰り返す。
「あぁ、ごめん」
近づけていた顔を少し上げ、三つ編みで束ねたポニーテールを後ろにかきあげる。
一瞬後ろを向いた顔が振り返り、整った横顔がはっきりと目に映る。少し色素が薄くて長い黒まつ毛、薄い黒色に青を一滴垂らしたような美しい瞳、陶器のような額に幼さを感じる金糸の産毛、高く括りあげたスコーピオンテールは腰の上を揺れている。
自身が黒髪なのに対し、本当に兄妹か疑問の念まで持ってしまう。
「起きて、朝ご飯もうできてる」
小さく息を吐き立ち上がると、ドアを開け狭い部屋を抜け出す。床もドアも古い木製で立て付けが悪く、ミシミシと音が鳴る。
だからなのかドアの開閉に一瞬苦戦した顔色を見せながら、壊れるのではないかと冷や汗をかくほどギィィと盛大な音を披露して出ていった。
少女の姿はなくなり、部屋に一人残される。
何気ない一言に不可思議な違和感を覚えるを数秒、しばらくベッドで体を起こして去った後ろ姿をボーッと眺めるを数十秒、それから重い腰を上げて布団から抜け出す。
差し出した一歩が冷たい空気に触れ全身に伝わる。靴に足を滑り込ませ足早に部屋を抜けるとドアを横目にリビングに到着。
あまり広くはない、はっきり言うととても狭い。キッチンにカウンター、四人用のダイニングテーブルに五つの椅子、その後ろにはもう玄関がある。部屋の体積が小さい分匂いも充満しやすい。キッチンから漂う香ばしい匂いは部屋中をたちこめていた。
「席ついてね、もう完成しますよ」
着席して彼女の後ろ姿を眺める。器用にフライパン技をキメるごとにスコーピオンテールが揺れ動くのを温かな目で見てしまう。
まるで小さな母。けれどまだたどたどしく奮闘する姿はやはり妹だ。いや、生まれてこの方家事も家計も全て担っているのだ、それは失礼だろうか。ならば母と妹の中間を取って姉とでも位置づけておこう。
「はいおまちどう!簡単なものだけど」
両手に一枚ずつ持ったワンプレートには、パンとスクランブルエッグと彩りのレタス。ケチャップは自分でかける方式。
いつもとほとんど変わらないメニュー、いつもと何も変わらない朝、いつもと変わらない一日。
そう思った途端、思考にブレーキがかかった。そして思わず口が動き出す。
「今日は特別な朝食かと…」
「あ、いつもと同じじゃ流石に飽きるよね、でもどうして今日だけ?」
自分で言っておいて自分でもよく分からない。飽きていたというのは否定しないが、馴れていたし、何より一生懸命作ってくれた妹に申し訳ない。
「ごめん違うんだ、そういう意味じゃなくて」
弁明したかった、それは嘘偽りのない本心なのだが、言い訳らしき思考が過ぎる。
一瞬思っていた、期待していた、予期していた、今日は特別な日だと。
無意識に目線がカレンダーに置かれたカレンダーに行く。真っ白なカレンダーにひとマスだけ、今日2月24日だけ書かれている。「出発」の一文字が。
瞬間記憶が過去の一点に引き戻される。記憶のない経験というのは酷く心地の悪いものだった。思考は過去に舞い戻るのに肝心な情報がぽっかりと引き抜かれているから、思い出されるはずの情景が見れない──否、存在しないのだ。
けれど唯一、聴覚だけは生きていたようだ。何も存在しない真っ黒のような真っ白のような世界に、一つ自分がそこに存在したと確信できるその情報は心底安堵させてくれるもの、しかしそれもまた未知なもの
「2月24日正午出発の日を忘れないで、全てを終わらす光になって」
聴覚と表現したがこれを聴覚と表現していいのかもいまいち分からなくなってきた。確かにこの言葉は見たわけではなく耳で聞いたのだろう、しかし再びその声が再生されたのではなく脳に直接響いたような感覚。よって声の主が男か女かも分からない。
今一度言葉を再度思い出す。2月24日というのは今日だ、カレンダーのひとマスを眺め念入りに確認する。仮にも年までは言ってなかったから同月同日の違う年という可能性はないことはないが、後の出発という言葉とカレンダーの出発という文字は明らかに同じものを指している。よってその可能性は却下。だとすればなんだと言うのだ、さらに疑問は増えるばかりである。なぜ今日その日に思い出したのだ。まるで図ったかのように、誘い出すように。
そしてその自然な誘導に抗う意思もなく──否、誘導に流されていることに気づくまもなく、時計に目が行く。時刻は8時9分。いつもは11時や12時にのこのこ起きてくるという自堕落な生活を送っている。もちろん朝から家事をこなす妹は通常もこの時間に起床し活動しているのだろうが、かといって起こしに来るわけでもない。お昼を回り流石に昼ご飯の時間になった頃にようやく叩き起しに来る。
それが日常、我が家のモーニングルーティンだ。
だからこの時間に起きていること自体がいつもと違うのだ、朝ご飯を食べることすら不思議なことで、今日という日が始まったその時から日常から明らかに逸脱していた。
「ねえ、ねえってばおーい」
急に現実に引き戻されたかのような感覚になると、目の前で手のひらがゆらゆらと揺れていた。おぅ、と声を漏らすと動きが止まり手と手の間からひょっこり顔がでてきた。きょとんとした顔は次第に怪訝そうな顔になって言う。
「さっきからキョロキョロしてどうしたの?時計なんかボーッと見て、予定なんかあった?」
予定なんかない、はずだった。なぜならそれが日常だから。よく考えてみたら日にち感覚なんて忘れるくらいだ。長期休暇で曜日感覚を忘れるのと同じ、基永遠の長期休暇のような生活だからそれも無理はない。
しかしなぜ今日が2月24日ということだけは無意識に分かっていたのだろうか。
そんな疑問を抱えながら質問を質問で返す。
「いや、えーと…、それより今日はなんでこんな早く起こしてくれたんだ?」
「えーやっぱり嫌だった?」
「いや、嫌ではないけど、むしろありがたいというか」
「やっぱり何か予定あるの?すごーく珍しいね」
「予定というか、フェナは知ってるか?あのカレンダーの」
今日を指さすと、フェナは振り向き例の一文字をまじまじと見つめる。刹那、動きが止まったような時間が止まったような雰囲気を身に纏い振り返る。僅かに開いたままの口が動き出す。
「そうだ、そうだよ、忘れちゃいけないのに、なんでこんなこと…」
瞳孔や唇が震えている、フェナも同じような感覚に陥ったのだろうか。そんなことを考えるより前に口が走る。
「何を、何をだ!?」
あまりの迫力と早口に圧倒され呆然となるも、すぐに気を持ち直し神妙な面持ちに風変わりする。
「出発てあれでしょ?外に出ること」
「……は?」
「ごめんごめんうっかりしてたよー、すごーく大切なことだったのに」
当たり前のことを当たり前のように忘れてたと言い放った。頭が混乱して上手く整理できない。
自分の身に起こったことフェナの神妙な様子から壮大なことを勝手に想像していたが、どうやら当て勘は容易に当たるものではないらしい。突拍子もないことを期待して損した気分だ。
「なんだよ…そんなの調べりゃ出てくるだろ、俺が知りたいのは言葉の意味じゃなくて…」
何を呆れられているのか分からない様子でいるかと思えば、眉をひそめて大きく頬を膨らませて怒り出す。
「馬鹿にしないでよ!そういうことじゃなくてそのまんまの意味、今日外に出るの!」
全く言い直せてない。確かに引き籠もり家族にとっては外に出るだけでも一大イベントとなる。事実、ここ一ヶ月外に出ていない気もしなくもない。しかし外に出る用があるからってカレンダーにわざわざ書くほどだろうか、それこそ馬鹿にしている。引き籠もりニートの初バイトを祝うような母の姿勢、そこまでクソな人間に見られているのかと思うと多少なりとも悲しくなる。外には出ていないものの家で勉強くらいはしている。一般高校生と同等レベルの学力はあるはずだ。そして全く部屋から出ないというわけでもなく、フェナの買い物について行くことや人に会いに出歩くことくらいはある。
総じて舐められたものだ、全ては自己責任なのだが。
「意味分かってる?外、地上に出るの!」
「……は?」
それを先に言え、なぜ先に言わなかった、重要なことを最後まで温存するな、と思わずつっこみたくなってしまう。
「……地上?」